第九百三十話 シーゼル(一)
シーラたちがシーゼルの北門に辿り着いたのは、作戦が決まってからおよそ一日が経過した十六日のことだ。
シーゼルの兵が警戒しているのは、なにも南側だけではない。東西の城壁にも物見の兵が歩き回っており、そういった兵士たちの視線から逃れて北門に回りこむには、シーゼルを大きく迂回する必要があったのだ。その結果、直線で移動するよりも大幅に時間がかかってしまった。南から北へ回り込んでいるのが見つかれば、それだけで怪しまれるし、ガンディアからの潜入工作員だと疑われるだろう。
(それも半ば間違いじゃないんだがな)
シーラは、隣で困ったような顔をしている少年を横目に見て、苦笑した。セツナは、紛うことなきガンディア王家の家臣であり、その筆頭ともいっていいような人物だった。王宮召喚師にして王立親衛隊長であり領伯。これだけの肩書を持っている人物が潜入工作員というには豪華すぎるが、正体が露見すれば、そう疑われるのは当然だった。そして、アバードとガンディアの関係に罅が入るのは、間違いない。アバードとしては大国ガンディアと友好的な関係を続けていきたいだろうし、ガンディアとしても友好関係を壊したくはないだろう。だが、ガンディアの英雄が、アバードが抹消したはずの王女と行動をともにしているとなれば、話は別だ。
アバードは、ガンディアに疑念を抱かざるを得まい。
そうならないためにも、シーラたちは正体を隠し通す必要があるのだ。
(そうだよ。正体を隠すためなんだからな)
シーラは、セツナの左腕に自分の両腕を絡ませているという状況に対し、胸中で釈明した。だれに釈明する必要もない。そうしなければならないから、そうしているだけのことだ。腕を絡ませたいから絡ませているのではない、引っ付きたいから引っ付いているわけではない。
シーゼルを東に大きく迂回し、街道に出たふたりと一匹は、そこからシーゼルまで街道を下り、北門の目前に至ったのだ。その間、ラグナはセツナの服の中に隠れていたし、シーラはセツナの腕に自分の腕を絡ませていた。
「本当にこれで行くのかよ」
「いまさらだぞ、セツナ。ここまでこうやって歩いてきたんだ。いまさら離れるのは、門番に不審がられるだけだぞ」
「それもそうだけどさあ」
「ふふふ……旦那様、お覚悟をお決めくださいな」
「あのなあ……」
セツナの途方に暮れたような顔を間近で見て、シーラは、彼の肩に頭を載せた。歩きにくい事この上ないが、結婚したばかりの夫婦を演じるなら、これくらいでなければならないはずだ。彼女は、高鳴る鼓動を聞き流しながら、前方に視線を戻した。
シーゼルの北門はもはや目前に迫っている。
話は数時間前に遡る。
「ただ旅人というだけでは怪しまれるかもな」
シーラがその考えに思い至ったのは、夜明け前のことだった。シーゼルの北門を目指して移動している最中のことであり、もう少しで最初の目標地点ともいえるシーゼル北部の街道に到着できそうな頃合いだった。黎明の空からは星々が消え始め、月だけが残り続けていた。春とはいえ、夜明け前の気温は必ずしも暖かいとはいえない。しかし、歩き続けているということもあって、体温が下がるようなことはなかった。むしろ、少しばかり冷ややかな風が心地良いとさえ感じるほどだった。
「ただの旅人以外にどんな旅人がいるんだよ?」
セツナが疑問の声を上げてきたので、シーラは即答した。
「夫婦とか」
「は?」
「そうだ、それがいい。夫婦だよ、夫婦。新婚の!」
声が大きくなってしまったのは、思いつきが名案としか思えなかったからだ。これ以上の妙策があるはずがないと思える。ガンディアの天才軍師ナーレス=ラグナホルンですら思いつかないだろう名案には、シーラは光明を見出したのだ。
「新婚……?」
「そうだよ、それだよ! 新婚旅行で龍府に向かってるんだよ!」
結婚したばかりの夫婦は、結婚を記念して旅行を行うものだ。それが新婚旅行であり、その歴史は古い。聖皇による大陸統一以前から存在していたといわれており、大陸統一と共通語の浸透とともに大陸中で行われるようになったという。
(新婚旅行……)
なんて甘い響きの言葉なのだろう。
アバードの一王女であったシーラには、一生縁のない響きだと想っていた。もちろん、シーラはいつか結婚しただろうし、しなければならなかっただろう。王位継承権を持たない王族の娘には、政略結婚という将来が約束されるといっても過言ではない。国のため、家のために結婚するのは、普通のことだ。取り立てて騒ぐようなことでもない。しかし、政略結婚によって結ばれた相手と新婚旅行に出るなど、想像もできなかった。
いや、貴族や王族が新婚旅行を行ったという前例がないわけではない。だが、貴族、王族の新婚旅行ともなると、軍が出動する騒ぎになりかねない。敵国や政敵に命を狙われることもあるからだ。故に、王侯貴族の新婚旅行が行われることは、ほとんどなかった。
だから、ある種の憧れを抱いていたのかもしれない。
「なんで盛り上がってるんだよ……」
「盛り上がってなんていねえよ! 仕方ねえだろ、ほかに方法がないんだから」
セツナが納得しがたいことをいってきたので、シーラは彼に噛み付くようにいった。
シゼールへの街道は目前に迫っている。
シゼールの北側に回りこんですぐに街道に入らなかったのは、監視の目を逃れるためでもあった。シゼールの近辺に突如として旅人が出現するのは、いくらなんでもあやしすぎる。
「本当にほかに方法がないのか?」
「さあのう。しかし、シーラの策に従うしかあるまい?」
「そりゃあそうだけどさ」
「なにぐだぐだいってんだよ。これで門番を欺けることまちがいなしなんだぜ?」
「……まあ、それもそうかもな」
セツナはなぜか不承不承といった態度だったが、シーラは気にしないことにした。
「えーと……新婚旅行、ですか?」
「はい」
セツナが引きつった笑顔で応じたのは、北門の目前で衛兵に呼び止められたあとのことだ。衛兵はシーラたちの格好を怪しんだようだった。当然だろう。旅装なのはともかく、頭巾を目深に被る二人組など、怪しいとしか言い様がない。もっとも、セツナは、衛兵に呼びかけられたあと、頭巾を取って素顔を晒している。
彼は小国家群でも随一の有名人ではあるが、アバード中に素顔が知れ渡っているわけではない。顔を隠していたのは、念のためにすぎない。一方のシーラは、顔を晒すわけには行かなかった。顔はともかく、白髪はあまりに知られている。白髪の二十代前半の女となれば、アバード国民は、シーラ・レーウェ=アバードを連想するだろう。なので、彼女はセツナの腕に自分の腕を絡ませて、恥ずかしそうに顔を俯けていたのだ。
「ヴァルターから?」
「はい」
「たったふたりで?」
「はい」
「たったふたりで……」
門番が、怪訝な顔をしたのは、シーラの想像通りそこだった。ヴァルターからシーゼルは遠い。新婚旅行で龍府を目指しているとしても、ふたりだけで旅に出るというのは、考えにくい。いくら街道が整備され、街道周囲に皇魔が出現する可能性が低いとはいえ、普通の人間がたったふたりで出歩くには危険極まりなかった。皇魔だけが問題ではない。野盗や山賊に出くわさないとは限らないのだ。アバードの治安は、決して悪くはないのだが、だからといって野盗の類を根絶できているかというとそうではない。そもそも、野盗を根絶することなど不可能に近いのだ。皇魔を根絶するのと同じくらい、難しい問題だった。
シーラは、自分の顔が見えない角度を保ちながら、衛兵に向かって叫んだ。
「旦那様はこう見えて、とても強いんですよ!」
「はあ、そうなんですか?」
「ええ、まあ……剣には自信があります」
「剣だけじゃないんです!」
「剣だけではない、とは?」
「武装召喚術師なんですよ!」
シーラの発言にセツナが驚くのが必要以上に密着した体を通して伝わってきた。が、発言は取り消せないし、取り消す必要もない。武装召喚師は、クルセルク戦争以来、注目を集めている。いや、それ以前から、アバードでは武装召喚師に注目する傾向にあった。獣姫の由来のひとつともいえるハートオブビーストは、武装召喚師セレネ=シドールの召喚武装であり、彼がシーラの側に仕えていたのは、シーラに召喚武装を献上したことがきっかけといってもよかった。
シーラに引き立てられるには武装召喚師を目指すのが一番の近道だ、などという風聞が流れたこともあった。
衛兵の興味を引けたのは、そういう背景が理由なのだろう。
「ほう……それはまた」
「ま、まあ、駆け出しですが……」
「いつか、天下に名を轟かせますので!」
シーラが、セツナのどこか不安そうな発言を打ち消す勢いで言い放つと、衛兵はたじろいだようだった。そして、目をそらしていってくる。
「アバードに仕官される日を楽しみにしていますよ……」
「お任せください、わたしの旦那様は最高ですので!」
「は、はは。はあ……」
セツナがなぜか天を仰ぐのを横目に見つつ、シーラは、衛兵が持ち場に戻っていくのを見届けた。きっと、これ以上関わるべきではないと判断したのだろう。関われば、夫の自慢話ばかり聞かされるとでも考えたに違いなかったし、シーラはそうするつもりでいた。シーゼルの衛兵が呆れるまで、セツナのことを自慢し続けてやるつもりだったのだ。実際問題、セツナほど他人に自慢のできる男もいないはずだ。実力から肩書、そして性格まで、非の打ち所がないといってもいいのではないか。無茶をしがちなところがあるのが玉に瑕といってもいいが、それはシーラも同じだ。むしろ、だからこそシーラは彼に共感を覚えることもあるのだ。
シーラは、衛兵が同僚の元に戻り、肩を竦めるのを見てからセツナの腕を引っ張って歩き始めた。もはや衛兵に呼び止められることはなかった。シーラの考えた作戦が功を奏したのだ。なんの問題も起きなかった。衛兵の呆れ果てたような反応が少々気にかかったものの、むしろそれこそシーラの思う壺といっていい。興味を抱かせるより、興味を失わさせることのほうが大事なのだ。興味を強く持たれれば、監視下に置かれるということになりかねない。興味を失わせ、関与する気さえ起こさせないような状態に持ち込むことができれば最高であり、いまのところ、その最高の結果を引けたといっていいようだった。
「はあ」
シーゼルの大通りを歩きながら、セツナがため息を漏らした。いつになく深刻そうな息吹は、シーラの意識に引っかかった。小声で、尋ねる。
「どうしたのです? 旦那様。ため息なんてついたりして」
「シーラには驚かされるよ」
彼は、シーラも予期しないことをいってきた。
「そうですか?」
「ああ。よくもまあ、あんな風に言い切れるもんだと感心する」
「ふふ……大体は本当のことでしょう?」
「そうか?」
「ええ、本当のことですわ」
シーラはそれ以上はいわなかった。周囲から好奇の目を注がれているのがわかる。耳をそばだてられているに違いない。衛兵の前で大見得を切ったことが、シーゼルの住人の興味を引いてしまったようだ。
(少々、やりすぎたかな)
多少の反省をしながらも、そうでもしなければシーゼルの内部に入れなかったのだ。最良の結果だったと思うほかない。住人がシーラたちに興味を持ったところで、それでなにがあるわけもない。
セツナを横目に見る。彼の横顔は、さっきとは違って堂々としたものだった。好奇の目に曝されるのは慣れているからなのかもしれないし、シーラとの密着状態に慣れたからかもしれない。前者ならばともかく、後者ならがっかりしないでもない。
シーラに密着されてどぎまぎしているセツナというのが新鮮で良かったのだが。
(本当のことさ。本当の)
彼女は、未だに納得できていないらしいセツナの腕にしっかりとしがみつきながら、シーゼルの街を歩いていった。