第九十二話 戦風
「いやあ、千客万来」
「んなこと言ってる場合か!」
ルクス=ヴェインは、シグルド=フォリアーの大声に耳を塞ぎたくなった。無論、実際に塞ぐわけもない。戦場の真っ只中で、そんなことをしている暇などありはしないのだ。
戦場。そう、傭兵集団《蒼き風》は、最前線に立たされていた。みずから志願したわけではないが、こうなることは予想通りであったし、《蒼き風》に属する傭兵のだれもが、その役割に不服ひとつ漏らさなかった。契約は結ばれ、前金ももらっている以上、どのような作戦であっても唯々諾々と従うよりほかはなかった。そして、この戦いの結果如何で報酬の上乗せ金額が変わるとあらば、もっとも戦闘が激しい最前線に配置されるほうが、傭兵としては喜ばしいことこの上ない。もちろん、戦いが苛烈になればなるほど命の危険も大きくなるが、戦闘とはそういうものでもあるだろう。
常に死と隣り合わせなのは、どの戦場でも同じことだ。
憂慮すべきは、敵がこちらに倍する兵力を有しており、こちらの後詰――本隊の到着が遅れているということだ。
歴戦の猛者たる《蒼き風》といえど、数で圧倒されればひとたまりもない。
それでも、開戦以来、戦線は保たれているのは、ルクスたち《蒼き風》がログナー軍の猛攻に対して怯むことなく戦っているからだ。その気迫が伝わっているのか、前線を構築するガンディアの兵士たちもよくやってくれている。
戦闘が始まったのは、今朝のことだ。東の空を昇る太陽が、ガンディア軍が野営地としていた丘陵地帯に淡い陰影を刻み始めた頃、北西にログナーの軍勢が現れたのをこちらの斥候が発見した。本営は混乱を極めていたが、末端の部隊は、昨夜のうちに決められていた手筈通りに機能した。
ログナー領マルスール北部の丘陵地帯。傾斜のなだらかな丘がいくつも連なり、複雑な地形を生み出している。背の低い草木が生い茂る丘で野営をしたのは、高所に陣取るという定石に従ったまでだろう。本陣は、中央の丘に配置され、カノン草原に至る北西の丘に主力部隊が集められた。《蒼き風》や、実戦経験が豊富という謳い文句の精鋭部隊である。
主力部隊が布陣した丘は二つ。北西の丘には《蒼き風》百名と五百の正規兵が登り、ガンディアの兵士たちは騎士シルヴィア=アーマインの指揮下にある。北の丘には正規兵七百名が配置され、その指揮は騎士ジクセン=ウェルディクトが取るということだった。全軍を支配するのは当然レオンガンド王そのひとだったが、直接的に采配を振るうのはアルガザード=バルガザール将軍であろう。レオンガンドは、その辺りよく心得ている。実戦経験の乏しい王が出るよりも、長年戦場で働いてきた将軍に任せるほうが、兵士たちも安心する。
前線の指揮官となったふたりの騎士の実力は未知数だったが、アルガザード将軍が任命したのであれば信用するしかあるまい。あえて疑う必要もないが。
戦端が開かれたのは、丘上に布陣した両部隊が、こちらへの接近を試みるログナー軍に対し、牽制の矢を射たからだ。高所に布陣したガンディア軍にとって、その時間帯が一番楽な戦いだった。地上から迫り来る敵部隊に対し矢を射掛けるだけで良いのだ。それ面白いように当たるものだから、俄然、勢いが出る。所詮小競り合いに過ぎないとしても、前線の士気が高まるというのは悪いことではなかった。
どうせ地獄を見ることになるのだ。
小競り合いが熱を帯び始めた頃にはガンディア軍の本陣も機能するようになっていた。将軍の指示が後方の部隊へ飛び、また前線にも届いた。
総勢二千百名のガンディア軍と、およそ四千人に近いログナー軍が本格的な戦いを始めるのに時間はかからなかった。丘の上から矢を射掛けてくるだけの相手に業を煮やしたログナーの部隊が斜面を駆け上り、ガンディア軍に襲いかかったのだ。しかし、そこにいたのが《蒼き風》の面々である。
《蒼き風》は、ログナーの急襲部隊を撃破すると、突撃隊長ルクスの号令とともに丘を駆け下り、原野に展開する敵軍に殺到した。戦線を押し上げようとしていたログナー軍は、《蒼き風》の勢いに当初こそ驚いたようだったが、こちらが寡兵だとわかると勢いを盛り返した。ルクスたちは危うく包囲覆滅されかけたものの、丘の上からの援護射撃もあって前線の構築に成功する。
やがて後方の部隊が前線に合流すると、戦はますます激しくなった。
そんな折、急報が前線に届いた。西方から迫り来る部隊あり、その数凡そ千五百。恐らく、ログナーが隠し持っていた軍勢だろう。ザルワーンとの決戦に投入する予定がこちらに変わったのだとしても、なんと絶望的なタイミングか。
元より、ガンディア軍にとっては不利な戦だった。数の上でも、心理的にも。それでも戦線を維持できていたのは、地形と、最前線の部隊の頑張りに起因するところが大きい。ルクスたち《蒼き風》の暴風のような攻めと、変幻自在の守りは、ログナーの猛攻を辛くも耐え忍び、また二人の騎士の思わぬ活躍もあって、ガンディアの精兵たちもログナーの兵士に負けぬ戦ぶりを見せた。
が、それもログナーの援軍到来によって変わった。敵の数が約三倍に膨れ上がったのだ。前線に立つだれもが、その数に気圧されたかもしれない。圧倒され、打ちのめされかけたけもしれない。
いつも飄々としているルクスでさえ、敵援軍の数には目を細めざるを得なかった。が、それだけのことではあった。自軍が不利な状況に陥るなど、年中戦場に身を置く彼らにしてみれば、日常茶飯事に等しい出来事だ。特別驚くようなことでもあるまい。元々濃かった敗色が、さらに濃くなった程度の違いしかない。
(それもそれでどうだか)
どれだけ準備万端であっても不測の事態は起こりうるが、その状況で開戦したのは指揮官の意志によるものだ。意地といってもいい。レオンガンド王がどれほどの考えで戦闘に踏み切ったのかは推測するほどの価値もないだろう。ジン曰く、王はガンディアという国を少しでも強くしようとしているらしく、今回のログナー侵攻はその現れだという。もっとも、領土拡大は先王の願望でもあり、既定路線でもあるらしいのだが。
難しいことはともかくとして、一度戦端を開いた以上、なんの実りもなしに切り上げるなど到底考えられない。本隊の到着まで持ちこたえることができれば確実に勝利できるという保障もあるまい。痛み分けでは敗北も同じだ。それなら、マルスール占領で満足しているほうが遥かに増しだっただろう――とは、シグルドやジンの考えだ。
ルクスには、そういう話は大きすぎるのだ。頭に入ってこない。というより、考えつかないといったほうがいいだろうか。他人の思考を推察するよりも技の冴えや武器防具について考察している方がよほど有意義だと彼は思っていた。
そして、一個の傭兵としてならばそれが正しいと信じてもいた。シグルドにしろジンにしろ、《蒼き風》という傭兵団のトップであり、だからこそ国家の思惑や諸国の情勢について詳しく知っておかねばならないのだ。なんの考えもなしに雇い主を探すなど愚の骨頂だということだ。
考えに考えた挙句雇われた先で戦死したとしても、それが己の考えた結果なのだから納得できる。
納得できる仕事をしよう――シグルドの口癖だった。それにはルクスも大賛成だったし、だからこそシグルドが好きなのだ。だからこそ、彼のために死ねる。
「さて、どうされます?」
「どうもこうもねえな。俺たちで行くか」
副長と団長の会話が聞こえたのは、ふたりがルクスの間近に来ていたからだ。状況の急変に合わせ、作戦を組み立てるためだろう。周囲では、青いスカーフを身につけた《蒼き風》の団員たちが、様々な武器を手に勇猛を競い合っている。敵は精強で名高いログナーの兵士たちだ。相手に不足はない。
視線は前方に向けたまま、後ろに身を寄せる。シグルドとジンの会話に割り込む形で口を挟む。
「やっぱり、そうなるんですか?」
「やけに嬉しそうだな、おい」
「どこをどう聞いたら嬉しそうに聞こえるんですか」
「さすがは剣鬼。闘争の申し子だな」
「だから!」
こちらの反応を面白がっているのであろうシグルドの言い様に口を尖らせながら、グレイブストーンの剣先を旋回させる。火花が散ったのは、目前に迫っていた二本の槍を払ったからだ。精兵というだけのことはある。わずかな隙も逃さまいとする執念。ルクスはにやりとした。ふたりの槍の使いのうち左にいた兵士に殺到し、長剣を翻してその首を切り飛ばした。透かさず右の男も袈裟懸けに切り伏せると、ついでにそのふたりの間にいた敵兵も切り倒す。周囲の敵兵が思わずのけぞるほどの早業だったが、彼はその速度に満足できずにいた。
剣を振り、刀身に付着した血液を飛ばす。血や脂がそんな簡単に取り切れるものでもないが。
闘争は所詮手段に過ぎない。剣鬼という二つ名さえ、その手段において有効だから呼ぶに任せているだけだ。しかし、恒常化した手段はもはや日常の一部と成り果てるのもまた事実だ。剣を持てば、振るわずにはいられない。
敵と対峙すれば、殺さずにはいられないのだ。
それが戦士のさだめならば、甘んじて受け入れるしかないだろう。
「西からの増援には我々が当たる! 傭兵諸君には前線の維持に努められたし!」
「あれは……」
突然後方から聞こえてきた叫び声にルクスは首を捻った。ついでに飛来してきた矢をかわす。眼前の敵は、こちらの剣を恐れてか、切っ先の届かない距離で盾を構えていた。ルクスが崩した陣形の隙は既に埋められ、強固な防御陣が作り直されている。矢は、その後方からだ。一本ではない。いくつもの矢が、こちらの前列から中列目掛けて降り注いでくる。もちろん、こちらも応射しており、まるで空中戦の様相を呈していた。
「将軍のご子息様だろう」
「任せろといってますし、ここはお言葉に甘えますか」
「剣鬼様の大暴れに期待してたんだが」
シグルドが思ってもないことを口にするのはいつものことだ。ルクスが取り合わずにいると、彼はなにを思ったのか、突如として敵陣に突っ込んだ。轟然たる勢いのまま、盾を構える敵兵に戦鎚を叩きつける。猛烈な一撃は、分厚い盾もろとも敵兵を吹き飛ばし、周囲の敵兵をも巻き込んで陣形を崩した。
「団長に続けぇっ!」
「おおっ!」
副長ジン=クレールの号令に傭兵部隊が動き出す。敵陣に開いた間隙を強引にでも押し広げるつもりなのだ。堅固な堤も小さな穴から崩壊しうる。
もっとも、相手は飛翔将軍ということを忘れてはならない。傭兵団が孤立すれば包囲殲滅されかねない。
「前線を維持するんじゃないんすか」
ルクスは、やれやれとかぶりを振ると、血気盛んな団長の背を追った。