第九百二十八話 国境を越えて(五)
黒龍の森の北端、アバード領の国境線とでもいうべき小川を突破するのは、わけもなかった。丘が遮蔽物となってシーラたちの姿を隠してくれていたし、大きく西に迂回したことで、ガンディア側の国境警備部隊に見つかることもなかった。
ガンディア領黒龍の森からアバード領ウルクサールへ。
ウルクサールは、森全体がアバードの国境警備部隊の監視下に置かれているといっても過言ではなかった。小川付近の拠点周辺だけではなく、森の各所に警備の兵が点在しており、国境の警備とは思えないほどの物々しさと緊張感がウルクサール全体を包み込んでいる。いったいなにがあったのか、といいたくなるような状況だった。
もちろん、なにがあったのかは自分がよく知っている。
つい先日、ロズ=メランの脱国を許したことによって警備が強化されているのもあるのかもしれないのだが、それよりも、シーラ派と王宮の対立による内乱が、このような状況を生み出したことは疑いようがなかった。
(俺の……せいか)
シーラは、木陰に身を潜め、息を潜めながら、そんなことばかりを考えていた。考えざるを得ない。なにもかも、自分のせいではないのか。自分さえ、さっさと王宮に出頭していれば、こんな事にはならなかったのではないか。そう想う一方で、それは都合のいい考え方に過ぎないのではないか、とも考えるのだ。王宮の出頭に応じたとして、シーラ派と名乗った集団の暴走を止めることができたのか、どうか。いや、シーラが王宮に出頭し、その結果処刑されたとしても、シーラ派は行動を止めなかったのではないか。
(じゃあ、どうすればよかったんだよ……!)
ふと、体温を感じて、顔を上げた。セツナがこちらを見ていた。彼の手が、シーラの肩に触れている。彼は、なにもいわず、首を横に振った。いまはなにも考えるな、とでもいっているのかもしれない。確かにその通りだった、いま考えることではない。いまは、国境を突破することだけに集中するべきだった。
(ああ、そうだな)
シーラは、彼にうなずくことで同意を伝えると、肩に置かれた彼の手に触れた。すると、彼は、慌てて手を退けてしまった。シーラは、どうにかして感謝を伝えたかったのだが、彼には上手く伝わらなかったようだ。もどかしいが、口頭で伝えるわけにはいかない。状況が状況だった。僅かな物音でも気づかれる可能性がある。
国境線の小川を突破した直後、身動きの取れない状況が続いていた。前方、アバードの兵士がふたり、周辺を警戒していたのだ。
(そろそろか?)
シーラは、頭上を仰いだ。ウルクサールは、黒龍の森と同じく、黒々とした木々に覆われた森だ。どこを見ても草木ばかりであり、獣道こそ数多にあれど、人間が闊歩するような道はひとつしかない。アバード南西の都市シーゼルと龍府を繋ぐ街道であり、国境警備隊の駐屯所は、その街道沿いに作られている。通常、人が通行するとなれば、街道を利用するのが当然だからだ。整備された街道というのは、皇魔の遭遇率が低い。道無き道を行くよりは、という程度のものであり、必ずしも安全とはいいがたいのだが。
しかし、森の中の道無き道を利用する人間など、そういるものではない。野盗や山賊くらいのものだろう。
街道沿いに拠点を置くのは間違いではないのだ。園周辺だけを警戒していればいいというのは、どうかと思うのだが。
(けどまあ、そのおかげでここまでこれたんだ。文句をいうのは筋違いってもんか)
シーラは胸中で苦笑すると、前方に視線を戻した。アバードの兵がふたり、緊張感たっぷりに周囲を警戒している。鎧兜を着こみ、弓と剣を携えているのは、拠点から離れていることに理由がある。野生動物はともかく、皇魔と遭遇した場合のことを考えれば、武装しないわけにはいかないのだ。
シーラたちも緊張感の中にあった。アバードへの潜入が果たせるかどうかは、この瞬間にかかっていた。目の前のふたりの兵士の目を欺くことさえできれば、そしてそのふたりが、シーラの思惑通りに動いてくれれば、シーラとセツナはこのウルクサールの黒き森を突破できるはずだった。
シーラの緊張が極致に達したときだった。
咆哮が聞こえた。森に住む動物の雄叫びや囀りなどとは断じて違う怪物染みた叫び声が、ウルクサールの空気を一変させた。大気が震え、衝撃が大地を駆け抜けた。木々がざわめいたかと思うと、鳥達が一斉に飛び立っていった。いや、鳥達だけではない。周囲に身を潜めていたらしい小動物たちも大移動を始めていた。
化物の出現は、ウルクサールの動物たちに危機感を与えたようだった。
電流に貫かれたかのような感覚の中で、シーラは、唖然とした。唖然と、セツナを顔を見合わせた。セツナも驚きに目を見開いている。爆音だった。とても、あの小さな体から発せられるような音ではなかった。想像していたものとはまったく違ったが、しかし、だからこそ効果的でもあったのだ。
「な、なんだ!? いまのは!?」
「わ、わからん! 皇魔かもしれん、拠点に一度戻るぞ!」
前方の兵士ふたりの慌てふためく声は、シーラの思惑通りに事が運び始めていることを告げていた。シーラはその場で立ち上がると、兵士たちが拠点に向かってかけ出したのを見届けて、ほっとした。
振り向くと、セツナも腰を浮かせている。
(行こう)
シーラは仕種で合図を送ると、木陰から飛び出した。兵士たちの立っていた場所を通過し、さらに奥へ進む。再び咆哮が轟き、衝撃に転倒しそうになる。まるで咆哮が衝撃波のように響いていた。間近で聞けば耳が潰れるのは間違いないほどの大音声。森の生き物が逃げ失せるのは必然であり、アバードの国境警備部隊が騒然となるのも当然だった。おそらく、ガンディアの国境警備部隊もいまごろ大騒ぎになっていることだろう。明日には龍府がその騒ぎに包まれているかもしれない。
黒龍の森に怪物が出現した、と。
三度、怪物の咆哮が轟いたころ、シーラたちはアバード国境警備部隊の厳重警戒区域からの突破に成功していた。そして、岩陰でへたり込んでいた。周囲を警戒しながらも、全力で走り抜けてきたのだ。それこそ、森に至るまでに蓄えていた力をすべてつぎ込んだと言っても過言ではなかった。
全身が休息を訴えてくるほどに疲れ果てていた。
それはシーラだけではない。むしろ、セツナのほうが疲労困憊といった有様だった。当然だろう。体力も筋力も、いまのところシーラのほうが上だ。性別の差異や年齢を考えれば、いずれ抜かれるのは明白ではあったが、現状、シーラが負けているところはない。もっとも、そんなことを勝ち誇るような状況ではないし、競い合っているわけでもないのだが。
彼は、岩陰の地べたに仰向けに寝転がっていた。外套や衣服が汚れることなど気にしてもいない。気にする余裕もないといったほうが正しいのだろう。それはシーラも同じだ。その場になにも敷かず座り込んでいる。ウェリスが知れば怒るだろう。どのような状況でも王女であることを忘れてはならない、というのが彼女の教えだった。しかし、シーラが苦境に立たされて以来、ウェリスが立ち居振る舞いについて叱責してくることはなくなった。
彼女の思い遣りが、シーラには痛いほど伝わってきていた。
(もう王女じゃないから、いいんだよな)
とはいうものの、いまから、シーラは王女として生まれ落ちたことを頼もうとしている。アバードの国王に直訴するということは、そういうことだ。王の娘として、王女として、シーラ・レーウェ=アバードとして懇願するのだ。
聞き入れてもらえるかどうかはわからない。
しかし、シーラには、シーラ派に対する王宮の強硬な態度も、ラーンハイルの一族郎党の公開処刑も、リセルグの判断とはとても思えないのだ。
リセルグは、必ずしも聡明な王とはいえない。賢君ではないだろう。賢君、名君であれば、少なくとも、シーラを王子として育て、将来、国王にしようなどとはすまい。女王でもいいはずだったし、女王が無理だというのなら、王家の血筋から男児を引き取り、王子として育て上げれば良い。ただそれだけのことだった。それだけのことで、アバードが混乱することは避けられたはずだった。シーラ派なる派閥が生まれることも、エンドウィッジの戦いという愚かな戦闘が起きることもなかったはずだ。レナが死ぬことも、セレネ=シドールが散ることも、シーラの侍女たちが命を捨てることもなかった。
リセルグさえ賢明な判断を取ることができていれば――。
シーラは、頭を振った。疲れは、思考にすら影響を及ぼす。しかも悪い方向、暗い方向に持って行きがちだ。やはり、いま考えるべきではないのだろう。セツナの無言の忠告を今さらのように有難がりながら、シーラは彼の横顔を見た。疲労困憊といった様子の横顔には汗と苦悶が浮かんでいる。
「なんじゃ、もう疲れ果てたのか」
頭上から降ってきた声の主は、緑の宝石の塊のような飛竜――ラグナだ。呆れ果てたような声音と表情は、彼が人間とはまったく別の種族であるということが窺える
「あれからずっと走り通しだったんだぞ。疲れるに決まってるだろ」
「わしはずっと飛んでおったぞ?」
「走れよ。飛ぶのと走るのじゃ疲れ方も違うに決まってんだろ」
「いーやーじゃ」
まるで駄々をこねる子供のように言い返すと、ラグナはセツナの腹の上に降り立った。小さなドラゴンは、セツナの腹の上で翼を広げると、大きく伸びをするかのような動作をした。小さな飛竜。愛嬌のある姿形からは彼の本当の姿を想像することもできなければ、彼が先ほどの大音声を発したとは到底信じられなかった。
「……しかしまあ、助かったよ。全部おまえのおかげだ、ラグナ」
セツナが、感謝を込めて、ラグナにいった。彼のいうとおりだった。ラグナがシーラの想像以上の働きをしてくれたおかげで、彼女たちはなんの苦労もなく国境付近の厳重警戒区域を突破することができたのだ。
国境を突破し、アバードに潜入するには、アバードの国境警備部隊の警戒網をどうにかする必要があった。そこでシーラが考えついたのは、小さく、あまり目立たないであろうラグナに物音を立ててもらい、警備兵の注意をそちらに集め、その隙を突くというものだった。ラグナは最初こそ乗り気ではなかったが、セツナが頼み込んで実現に至っている。そして、先ほどの大音声である。シーラとセツナの想像を遥かに越えたラグナの大声は、アバードの警備兵の注意を引き付けるには十分すぎるほどだった。皇魔さえも走って逃げ出すのではないかと思うほどに恐ろしい咆哮を耳にすれば、なんらかの対策を取るために動かざるをえない。
「ふふん。もっと褒めても良いのじゃぞ」
セツナのお腹の上でふんぞり返る小龍に対し、セツナのまなざしは柔らかい。その穏やかな視線や表情は、ラグナの言動をなんとも思っていない証左だろう。そして、彼の右手がラグナに向かって伸びた。
「ああ、感謝している」
セツナはそういいながら、ラグナの頭を撫でた。ラグナはセツナのその対応は想像もしていなかったのか、宝石のような目をぱちくりとさせた。
「な、なんじゃ、随分素直じゃの」
「疲れているからだよ」
「なるほど……疲れるのも、案外悪くはないものじゃな」
ラグナは、セツナに撫でられながら、どこかうっとりとしたような表情を浮かべた。彼はセツナの手のひらで覆えるほど小さなワイバーンであるのだが、豊かな表情からは、現在の心情がはっきりとわかった。撫でられながらもセツナの腹の上で丸まったラグナはいま、これまでになく幸せそうな顔をしている。
ひょんなことからセツナの下僕となった彼ではあるが、案外、悪くなかったのかもしれない。少なくとも、セツナとラグナの相性は良さそうだった。
「わたしからも礼を言わせてくれ。ラグナ」
シーラは、セツナの腹の上のドラゴンに顔を近づけると、囁くようにいった。厳重警戒区域を突破したとはいえ、まだウルクサールの中には違いないのだ。警戒して、しすぎることはない。
「う、うむ」
「ありがとう」
シーラが告げると、ワイバーンは照れた。
「そ、そこまで感謝されるほどのことかのう」
「ああ。ラグナがいなきゃ、ここまで上手く行かなかったよ」
「そ、そんなに褒めてどうするつもりじゃ」
「どうもしねえっての」
「ああ、なにもしないよ」
シーラは、照れくさそうにばたつく小ドラゴンを見つめながら、笑った。気分が晴れたのも、ラグナのおかげといってもいいのかもしれない。