第九百二十四話 想うということ(一)
不安がないといえば嘘になる。
いや、不安しかないといったほうが正しいのかもしれない。
ファリア・ゼノン・ベルファリア=アスラリアは、天輪宮飛龍殿の私室からの窓の外を眺めていた。ファリアを始めとする《獅子の尾》の女性陣は、飛龍殿に個室を与えられているのだ。天輪宮が領伯の所有物なのは周知の事実ではあるが、その領伯の屋敷に自分の部屋があるというのは、なんとも不思議な気分だった。
セツナは、部下のために部屋を用意するのは当然と考えているのかもしれないが、もちろん、普通のことでも当然のことでもない。部下の住居の面倒まで見る隊長など、そういるものではないし、自分の屋敷に住まわせる隊長もいない。それにこの天輪宮は、《獅子の尾》隊長としての持ちものではなく、領伯としての所有物だ。隊の部下であるファリアたちに便宜を図るいわれはない。もっとも、そんなことをいったとして、セツナには上手く伝わらないだろうし、どうでもいいことではある。
セツナは純粋にファリアたちのためを想って部屋を用意させただけのことだ。他意もなければ、深い考えがあるわけでもない。
セツナが部下想いであり、仲間想いであるというだけの話にすぎない。
(それが問題なのよね)
セツナの思い遣りの強さが、今回の出来事に繋がっているのは疑いようのない事実だ。仲間を想い、部下を想うその気持ちの強さが、情の深さが、現状を招いたといっても過言ではない。
現状。
ファリアは、自分の置かれている現在の状況を考える。
彼女はいま、天輪宮飛龍殿の私室にいる。飛龍殿の二階東側の一室が彼女の私室として充てがわれていた。右隣にミリュウの部屋があり、向かい側の部屋がマリアの私室となっている。エミルの部屋は、マリアの私室の隣、ミリュウの部屋の対面に位置する。
二階東側の部屋の窓から覗くのは、泰霊殿の独特な外観であり、飛龍殿と泰霊殿を繋ぐ通路であり、中庭だ。中庭では現在、黒勇隊の面々がゴードン=フェネックに訓示を受けていた。エンジュールの司政官と領伯の私兵団がこんなにも長い間龍府に残っていていいのか、という疑問もあるが、特に問題もなさそうではあった。エンジュールはログナー方面の小さな街だ。本来バッハリアの管轄する地域であり、司政官を派遣する必要性すらなかった。それなのにゴードンが司政官として派遣されたのは、偏に領伯となったセツナの負担を減らすためであり、それ以外のなにものでもなかった。
黒勇隊がエンジュールではなく龍府に残っているのはさらに問題がない。黒勇隊は、セツナの私兵である。ガンディア軍に所属する正規部隊ではなく、領伯セツナ・ラーズ=エンジュールのための部隊であり、その役割は平時におけるセツナの身辺警護と戦争時におけるセツナの戦力なのだ。エンジュールに留まっていなければならない理由はない。むしろ、セツナと行動をともにしているほうがいい、という考え方もある。
もっとも、セツナは黒勇隊はエンジュールの常駐戦力であり、龍府には黒獣隊を置くという考えがあるらしいのだが。
セツナは、国から派遣された役人に過ぎないゴードン=フェネックのことも大切に想っているようであったし、黒勇隊の幹部以下の隊員たちのことも大事にしている。もちろん、黒獣隊の面々もだ。彼らや彼女たちに不便がないように計らうべし、と龍府の司政官ダンエッジ=ビューネルに何度となくいっていたし、そのダンエッジ自身にも不都合がないかと聞いていた。
セツナは、領伯でありながら領地の運営を司政官に一任していることを絶えず気にしていた。領伯としての務めを果たさずして、なにがガンディアの英雄なのか――彼の懊悩は、想像に難くない。無論、ガンディアという国も、レオンガンド王も、セツナに領伯として振る舞うことを望んではいない。セツナに領地が与えられたのは、彼のこれまでの功に報いるには、ほかに方法がなかったからだ。
領伯、つまり領主としての責務はあまりに重い。セツナの身に余るのは、レオンガンドの目にも明らかだったはずだ。それでも、領地を与える以上の褒賞など、考えられるものではなかった。だから、レオンガンドは彼に領地を与え、領伯に任じた。そして、領地の運営は司政官に一任するよう伝えたのだ。セツナは、これまで通り、ガンディア最強の戦士として戦ってくれればいい――レオンガンドの想いはそれであり、セツナにも伝わっているはずだった。
それでも、セツナは――あの考え過ぎなくらい考える少年は、頭を悩ませるのだ。自分はいま、領伯として相応しい人間でいられているのか、などと、考えてしまっているに違いない。
だからだろう。最近の彼は、自分の周囲にいるひとたちのことばかり気にしていた。自分に少しでも関わりのあるひとが不幸になることを極端に嫌っているかのようだった。自分の力で解決できることならなんでもするとでもいわんばかりであり、実際、彼にはそういうところがあったし、そこが彼の魅力なのかもしれないとも想うのだ。
だが、だからといって、なにもいわずに飛び出していくのはどうなのか。いや、彼の考えはわからないではない。ミリュウのいっていたとおりだ。ファリアが相談されれば、セツナたちの暴挙に対して冷水を浴びせ、却下したに違いないのだ。もちろん、そんなことで諦めるシーラではないだろうし、セツナも、彼女の暴挙に手を貸すことを止めなかったに違いない。ファリアの忠告を無視して龍府を抜け出し、アバードを目指したことだろう。その場合、セツナとファリアの間に微妙なしこりが残ることになる。セツナは、それを嫌ったのだ。それなら、ファリアに相談せず、後で怒られたりするほうがましだと考えたのかもしれない。
(たしかに、そっちのほうがいいかもね)
ファリアは、本日数十度目のため息を浮かべて、その息の深さにうんざりした。
彼女の置かれている状況というのは、一言では言い表せられないものだった。隊長とその護衛部隊長が祖国の政変をどうにかするため国を飛び出していったのだ。軍師の後押しがあり、参謀局としてはその行動を黙認するようではあったが、ファリアとしては釈然としないものがあった。
シーラの気持ちもわからなくはないし、セツナが彼女の想いを汲んで行動するのもわかる。セツナならばきっとそうするだろうという行動以外のなにものでもない。ここでシーラを見放せば、それこそセツナらしくないと断言できただろうし、むしろそういう彼を嫌いになったかもしれない。
自分の卑しさに吐き気がして、彼女は窓を離れた。特にめずらしいこともない黒勇隊の調練を眺めていたところで、気分が晴れるわけもなかった。状況が落ち着くまで、この胸のざわめきが消えることはないだろう。そして、状況が落ち着くのはしばらく先のことになる。
龍府は、落ち着いている。
天輪宮もだ。
龍府に住むほとんどの人がこの古都の主の不在を知らないからであり、不在を知るごく一部の人間は、表面上、冷静を装っているからだ。
(それはわたしだけかしら?)
ファリアは、ふと見た壁にかかった鏡に映る自分の顔が、いつもと変わらぬ表情を浮かべていることに気づいて、少しばかり安堵した。少なくとも、不安や不満を抱いているような女の顔ではない。いつものように冷静に物事を判断し、対処する《獅子の尾》隊長補佐としての顔だ。
不意に部屋の扉が叩かれて、彼女は足を止めた。ちょうど部屋を出ようとしていた。
「はいっていい?」
ミリュウだ。
どこか恐る恐るといった風な彼女の声音に、ファリアは苦笑を浮かべるしかない。広間での剣幕が尾を引いているのだろう。彼女が悪いわけではないのに、彼女に強く当たってしまったのもまた、事実ではあるのだが。
ファリアは、扉を押し開くと、案の定ミリュウが立っていて、突然扉が開いたことに驚いていた。彼女の驚き顔を見つめながら、告げる。
「別にいいけど、わたしは外に出るわよ」
「どこかいくの?」
すぐさま尋ねられて、ファリアは返答に迷った。別段、あてがあるわけではなかった。ただ、部屋に篭っているのが馬鹿馬鹿しくなっただけだ。部屋に篭もり、同じことばかり考えていると、どうしても悪い方にばかり物事を捉えがちになってしまう。自分らしくないとは思うのだが、それもこれも彼が関わっているせいだ。彼のことを考えると、自分らしさなどどこかに放り出してしまうらしい。
「そうね。少し風に当たりたい気分よ」
脳裏に浮かんだのは、天輪宮の通路だ。殿舎間の二階通路は、風を感じるにはちょうどよい構造をしていた。
「じゃあ、あたしも一緒にいく」
「好きにすればいいわ」
いって、後ろ手に扉を締める。すると、ミリュウはファリアの左腕に腕を絡ませてきた。
「なんか冷たーい」
「そうかしら」
「うん。まだ怒ってる?」
「怒ってなんてないわよ」
「怒ってたよー」
ミリュウがこちらの表情を横目に覗きながらいってきた。広間でのことだ。確かに、怒ってはいた。しかし、それは彼女に相談は愚か、一言も話してくれなかった少年に対しての怒りであり、ほかのだれかに対して怒りをぶつけるつもりも、ぶつける理由もなかった。
「……セツナにはね」
「あたしには?」
「どこにあなたを怒ることがあるのよ? 全部セツナが悪いんじゃない」
「セツナも、悪くはないよ」
飛龍殿の廊下を歩き、泰霊殿との連絡通路に向かう。
ミリュウの声音の静かさは、いつも大騒ぎしている彼女らしくなかった。だからこそ、その言葉は真に迫り、確かなものとしてファリアの胸に響くのかも知れない。
「……困っているひとを見たら、放っておけなくなるの」
「知ってるわ」
ファリアは、多少うんざりするような気持ちで、彼女の言葉を肯定した。うんざりしたのは、自分にだ。セツナやミリュウに対してなどでは、断じてない。自分の心の在りように憮然としただけのことだ。
「本当、困ったひとよね」
そんな困ったひとを好きになってしまった自分には、困り果ててしまう。