第九百二十三話 国境を越えて(三)
鬱蒼とした森は、生い茂る木々によって頭上を遮られ、陽光はほとんど届いていなかった。暗闇というほどではないにせよ、茫漠とした影に覆われているのは間違いない。全体的に視界が狭く感じるのもその影のせいであり、乱立する木々のせいでもある。その木々と影の中を蠢く化物がいる。その数は二十はくだらないだろう。
影を貫く木漏れ日によって、それらの正体が判明した。緑色の外皮が特徴的な怪物といえば、一種しか思い浮かばない。グレスベルだ。頭部から生えた角から、レスベルやベスベルと同じく“鬼”と呼ばれる皇魔であり、人間の子供ほどの体躯しかないものの、その小柄な体に秘められた力は、人間の子供の比ではない。大人ですら力負けするほどだった。
しかしながら、レスベル、ベスベルと比べると弱い部類の皇魔であり、鍛え上げた兵士ならば対等程度には戦うこともできるだろう。だが、グレスベルの恐ろしさはその小柄さからくる敏捷性と、集団戦法を得意とするところにある。個の力に頼むことが多い皇魔にはめずらしいといってもいいだろう。もっとも、魔王軍のように統制の取れた動きをするわけではない。指揮官の命令通りに動く程度のことだ。それでも、脅威としかいいようがないのが、皇魔の恐ろしいところだった。
そんな怪物が二十程度、シーラたちを遠巻きに取り囲んでいるのがわかる。
セツナが、腰の短剣を抜きながら不満を漏らした。
「……人気はなかったんじゃなかったのかよ」
「いまも人気はないぞ」
ラグナは、セツナの頭の上でふんぞり返っている。その傲慢極まる態度は、しかし、ラグナの姿のせいで少しも偉そうには見えないのが玉に瑕かもしれなかった。
シーラも腰の剣を抜いた。ハートオブビーストを使えば難なく切り抜けられる状況だたが、アバード国内に入れば頼れなくなるということを踏まえれば、召喚武装を使わない戦いに慣れておく必要がある。セツナが黒き矛を召喚しなかったのは、シーラと同じことを考えているからかもしれない。
「皇魔がいるじゃねえか」
「皇魔は人間ではあるまい? それに皇魔は最初から発見しておったぞ」
「それを先にいえよ馬鹿」
セツナは悪態をつきながらもグレスベルの動きを警戒し、シーラの背後についた。
シーラは、剣の重量感に意識を研ぎすませつつ、背をセツナに任せるということに安心感を覚えている自分に気づいた。
セツナは、シーラに並び立つほどの実力の持ち主ではない。しかし、訓練とはいえ、一本でも彼女から勝利をもぎ取れるだけの腕を見せている。少なくとも、昨年末の頃よりは強くなっていたし、その成長速度には眼を見張るものがあるといえるだろう。そして、彼にはその実力不足を補って余りある経験があり、黒き矛という奥の手もある。最悪、黒き矛を召喚することさえできれば、どのような状況からでも挽回できるのが彼の強みであり、理不尽なところだ。シーラが彼に圧勝できるのは、召喚武装を用いない訓練だからであり、制限のない実戦ならば、話にもならないまま殺されるだろう。黒き矛のセツナとは、それほどまでに恐ろしく、凶悪なのだ。
もっとも、いまシーラの背後を護るのは、黒き矛のセツナではないのだが。
それでも、セツナを頼りにしている自分がいることにシーラは苦笑を覚えざるを得ない。
(いや、頼って当然か)
ふたりだけの旅。頼れるのは、セツナだけだ。
「馬鹿とはなんじゃ、馬鹿とは。わしはおぬしらが人間ばかり気にしておるから、皇魔はどうでもいいものだとばかり――」
「んなわけあるかよ。俺たちゃ人間だぞ。皇魔だって警戒するに決まってるだろ」
「むう……わしはドラゴンゆえ、人の子のか弱さを忘れておったのじゃ。それに我が主たるおぬしが、この程度の皇魔如きに遅れを取るとは思わなんだしの」
「……そりゃそうだな」
シーラは、ラグナの言葉を肯定せざる得なかった。ラグナのふたつの意見には、反論のしようもない。確かにドラゴンの目から見れば、皇魔など取るに足らない相手かもしれない。実際、水龍湖で戦ったときのラグナならば、二十体程度のグレスベルなど、一瞬で消し飛ばしただろう。それと、彼のセツナへの評価も妥当だ。セツナは、皇魔を圧倒するドラゴンを撃破してみせたのだ。この程度の数の小鬼など、取るに足らない相手だと思われたとしても、なんら不思議ではなかった。
そうこうするうちに、グレスベルたちがシーラたちとの距離を詰めてきていた。二十体ほどの皇魔が、人間への敵意と殺意を振り撒きながら近づいてくるのだ。子供のほどの身の丈とはいえ、人外異形のその姿には嫌悪感を抱かざるを得ない。緑色の外皮に覆われ、一対の角を持ち、眼孔からは皇魔特有の赤い光を漏らしている。皇魔は、その気配だけで、人間の神経を逆撫でにした。人間と皇魔がわかりあえないのは、ある意味では当然なのかもしれない。
「まったく、魔王とともに去ったんじゃねえのかよ」
シーラは、剣を構えながら、グレスベルの群れを見回した。集団戦法を得意とする小鬼を撃退するには、指揮官を叩くのが一番だ。ただし、指揮官は後方にいることが多い。まずは前線を崩さなければ話にならないだろう。
「魔王は軍を解散しただけだぜ」
「じゃあ、元の場所に戻った連中ってことか」
「だろうな」
「戻ってこなくていいってのに」
シーラが舌打ちすると、前方のグレスベルが表情を歪めた。舌打ちに込められた悪意に感づいたのかもしれない。が、だからどう、ということはない。グレスベルたちの殺意は、とっくに限界に達しているのだ。だから、襲いかかってきている。
巣が近くにあるのは間違いない。
「彼奴らとて、斯様な場所に居着きたくはないのじゃろうがな」
「あん?」
「だれであれ、本来あるべき世界に還りたいと思うのが、普通ではないのかの?」
「……そうだな」
セツナのラグナへの返事が遅かったのが少し気になった。が、彼のことばかり気にしている場合でもなかった。前方、六体のグレスベルがシーラに向かって動き出していた。間合いは、とっくに戦闘距離になっている。シーラも動いた。直進ではなく、右へ飛び、すぐさま左へ曲線を描く。右への誘いに乗ったグレスベルの背に抜き打ちの斬撃を浴びせ、即座に飛び退く。小鬼の豪腕がうなり、シーラが直前までいた地面を抉った。
「還る方法が見つからぬ故、仕方なしに住み着いておるだけじゃ」
「だからって一方的に攻撃されちゃあ溜まったもんじゃないっての」
「それはそれ。こちらの言い分じゃろ」
拳で地面を抉った小鬼が、そのままこちらを仰いだ瞬間、シーラは剣を旋回させた。首を刎ねる。悪鬼の体の割に大きな頭が宙を舞い、血や体液を撒き散らす。シーラの周囲のグレスベルたちが、一斉に飛び離れた。二体の同胞を瞬く間に失ったことで警戒したのだ。そのわずかばかりの間隙を利用して、セツナを一瞥する。セツナには七体の皇魔が襲いかかっていた。
「妙に皇魔の肩を持つな、おまえ」
「別に皇魔の肩を持っているわけではないわい。中立な立場からいっておるだけじゃ」
ラグナは、グレスベルと踊るように戦うセツナの頭の上に乗っかったまま、振り落とされる気配さえ見せずにふんぞり返っていた。セツナは、そんなドラゴンの様子を気にしてもいない。いや、気にするだけの余裕が無いのだ。軽口こそ飛ばしているが、彼はグレスベルの猛攻を回避することに専念していた。七体もの皇魔が間断なく攻撃を繰り出してくるのだ。セツナが反撃する機会がなかった。
「さすがはドラゴン様……視野が広い。見識が深い」
「うむ!」
「うむじゃねえよ」
「こんなときに笑わせるなっての」
「笑うようなことかよ」
「そうじゃぞ。わしは真面目な話をじゃな」
「どこがだよ」
シーラはラグナの言い分を一蹴すると、左に向かって剣を振りぬいた。手応えがあったかと思うと、ぎゃっ、という悲鳴が聞こえた。剣の切っ先が飛びかかってきていたグレスベルの胴を薙いでいる。血しぶきを上げながら落下した皇魔にとどめを刺すことは、かなわない。別角度から小鬼が迫ってきていた。前に飛び、さらに前進する。グレスベルの陣形は既に崩れた。指揮官を撃破する好機が訪れたということだ。
(あれだな)
シーラは、三体のグレスベルに守られた、ほかの小鬼に比べて大柄な皇魔を発見した。やはり、指揮官ともなると、ほかの個体とは違って多少の個性があるらしい。個性は、ほかの個体にもあるのかもしれないが、人間であるシーラには見分けのつけようがなかった。そして、見分けをつける必要性さえ、感じない。
後方から聞こえる奇声を黙殺し、草木を掻き分けながら指揮官に殺到する。護衛らしい三体のグレスベルがほとんど同時に飛びかかってくる。前方、右手、左手の三方同時攻撃。シーラは、一旦、引いた。グレスベル三体の攻撃が空を切る。シーラは飛んだ。たたらを踏んだ小鬼の頭部を踏みつけて、さらに跳躍する。グレスベルの指揮官は、他の個体に比べて大柄なだけに力に自信があったのだろう。シーラを迎え撃つ構えを見せた。
(所詮、皇魔……)
空中、シーラは右手で腰に吊り下げた投剣を抜くと、透かさず投げつけた。飛来する投剣をグレスベルが傲然と薙ぎ払った瞬間、シーラの剣がグレスベルの眉間を貫いている。抜群の手応えは、眉間から頭蓋を割り、脳髄まで達したことを示していた。咆哮が聞こえた。振り向く。グレスベルたちがシーラに向かって殺到してきていた。シーラは、剣を抜くと、すぐさまその場から飛び離れた。指揮官の体が力なく崩れ落ちるのを見届ける暇もない。
(そういうことか)
シーラは、あることに納得すると、セツナの元へ急いだ。指揮官は一体しかいないだろうし、いまの指揮官の撃破で戦闘は終ったも同じだが、セツナが負傷していないとは限らない。もっとも。
(心配なんてしちゃいないけどな)
彼女は、背後を一瞥した。彼女に殺到したかに思われたグレスベルたちだったが、指揮官の死体に向かっていたのだ。シーラがその事実に気づいたのは、皇魔たちがシーラなど眼中に入れていなかったからだ。
グレスベルたちは、指揮官の亡骸を皆で掲げると、こちらには目もくれず去っていった。
少しばかり茫然としたのは、グレスベルがここまで指揮官を頼りに行動しているという話は聞いたことがなかったからだ。
(これはまるで……)
魔王軍との戦いを思い出して、腑に落ちる。
魔王の招集を受け、軍事的、組織的に訓練された皇魔たちは、たとえ魔王の支配から解き放たれたとしても、組織的な行動を忘れないものなのかもしれない。
進路に視線を戻すと、短剣を鞘に納めるセツナと彼の周囲を飛び回っているラグナの姿が見えた。
思った通り、彼は無事だった。返り血を浴びてこそいるものの、傷を負っている様子はない。彼の周囲にはグレスベルの亡骸が三つ。あの数のグレスベルを相手に立ち回り、乱戦の中、三体も仕留めることができたのだ。十分過ぎる戦果といっていい。
シーラは、セツナの近くに辿り着くと、周囲を見回して、皇魔の影が見当たらないことを確認して、ようやく剣を鞘に収めた。それから、セツナに目を向ける。彼は、不満気な顔で、自分の手を見下ろしている。
「やるじゃねえか」
「そうか?」
「どこがじゃ」
セツナとラグナがほとんど同時に言い返してきたのには、多少、面食らう。
「……皇魔ってのは厄介でな。グレスベルほどの大きさであっても、そこらの人間よりは強いんだぜ?」
大人が束になっても敵わないのが皇魔が人類の天敵として君臨する所以なのだ。鍛え上げた戦士でなければ、立ち向かおうとすることさえ愚かしい。そして、中型以上の皇魔となると、その鍛え上げた戦士ですら、困難な相手となる。ギャブレイトのような大型の皇魔となると、手もつけられない。
黒き矛のセツナには、にわかには信じがたい話かもしれないが。
「けどなあ」
「わしを倒せるほどのものが、あの程度の雑魚に苦戦するなど、嘆かわしいにもほどがあるわい」
「黒き矛を使わずに三体も倒せたなら、上出来だよ」
「師匠なら殲滅してたぜ、きっと」
「師匠……“剣鬼”ルクス=ヴェインか」
傭兵集団《蒼き風》の突撃隊長は、銀髪の“剣鬼”として知られてもいる。剣の鬼。まさに剣術の達人である彼ならば、確かにあの程度のグレスベルなど、造作もなく倒しきったかもしれない。そう思わせるだけの技量を持っているのが、ルクス=ヴェインという人物だった。そんな彼を剣術の師と仰ぐことができるのは、幸運としかいいようがない。
「ま、理想を高く持つのはいいことだが、現実を見るのも大事だぜ?」
「わかってるよ。これがいまの俺の限界だってこともさ」
「それでも前よりはずっと強くなってるんだ。胸を張っていいぜ」
「そっか。そうか……強くなってるんだな」
「我が主ともあらせられるお方が、この程度で強くなったと満足されては困りものじゃがな」
「ラグナは一言余計なんだよ」
シーラが告げると、彼はセツナの懐に飛び込み、隠れてしまった。
彼女はセツナと顔を見合わせて肩を竦めた。