第九百二十一話 国境を越えて(一)
夜が明けようとしている。
長い夜だった。
とてつもなく長く、息苦しささえ覚えるほどに濃密な時間が流れた。空気を求めて喘ぎ続けるほどに息苦しく、ときには呼吸することさえ困難だった。それでもなんとか自分を保つことができたのは、ここで泣いてもなにも変わらないという事実を認識していたからかもしれない。泣いたところで現実は変わらない。叫んだところで、なにかが動くわけではない。悲嘆に暮れたところで、救いの手が差し伸べられるわけではない。
動かなければならない。
現実を変えるには、みずから動くしかない。
「日が昇る前に森に入りたいが」
隣を走る少年がつぶやいた。龍府を離れて数時間あまり、征竜野と呼ばれる大地を走り続けている。征竜野は、龍府から龍府の外周を大きく包囲する森に至るまでの平地一帯のことだ。ガンディアとザルワーンの最終決戦が行われたのは、征竜野南部であり、ふたりが走っているのは、征竜野北部である。街道を大きく外れているのは、街道沿いには警備の兵がいるかもしれないからだ。そして、警備兵の監視下を離れるということは、皇魔に遭遇する危険性を高めるということにほかならないが、警備兵に見咎められるよりは遥かに増しだった。警備兵に捕まれば、アバードに入り込むという最初の目的さえ達成できない。
「急ぐか」
シーラがつぶやくと、少年は小さくうなずいた。その頭の上の奇妙な生き物も、鷹揚にうなずいている。
「そうじゃな」
「おまえはなにもしないだろうが」
少年があきれたようにいった。奇妙な生き物は、少年の下僕を自認しているはずだったが、少年に食って掛かることが多かった。それでも大きな喧嘩に発展するようなことはない。むしろ、互いに気を許し合っているようなところがある。ふたりが出会ったのは五、六日前のことだ。打ち解けるには早過ぎるといってもよかったが、四六時中一緒にいれば、そうなるものなのかもしれない。
シーラ自身、少年を普通に見ていられるようになったのも、同じ屋敷に起居していたからだ。少年は、シーラにとっての主でもあった。セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルドという長たらしい名前は、ガンディアにおける彼の公的な立場、立ち位置を示してる。エンジュール及び龍府の領伯にして王宮召喚師セツナ、という意味だ。その上で王立親衛隊《獅子の尾》の隊長も務めているのが、この十八歳になったばかりの少年の肩書だった。もっとも、ガンディアでは十八歳は成人の年齢であり、大人といっていいのだが、彼の横顔はあいも変わらず少年のままだ。血のように赤い目が特徴的で、その目がシーラのお気に入りでもあった。
彼は、シーラ同様、頭巾付きの外套に見を包んでいる。腰には短剣を吊り下げており、もし戦闘になった場合は、基本的にはその短剣を使うつもりらしかった。黒き矛カオスブリンガーは、あまりに知られすぎている。そんな有名なものを召喚し、振り回せば、セツナの正体が一瞬でわかってしまうこと請け合いだ。
シーラも、ハートオブビーストを使うことはできない。アバード国内では、ハートオブビーストを知らないものはいない。その形状もよく知られている。彼女の勇壮な戦いぶりは、詩歌となってアバード国内の各地で謳われているからだ。レナ=タウラルは、シーラの詩を歌うために詩人になったといっていたほど、シーラの詩歌を作り、広めた。シーラが国民的人気を得た理由のひとつが、レナの詩にあったのは間違いない。
そういうこともあって、シーラはハートオブビーストを布袋に入れたまま、使うつもりはなかった。戦闘となれば、天輪宮で見繕った剣も用いればいい。セツナの短剣もそうだが、シーラの腰の剣も、天輪宮の倉庫から勝手に持ち出してきたものだった。天輪宮はさすが龍府の中心というだけあって、様々な物品が倉庫に収められていた。セツナの短剣も、シーラの剣も、そこから拝借している。もっとも、龍府はセツナの領地であり、天輪宮はセツナの所有物だ。天輪宮の倉庫に収められたまま放置された武器たちも、セツナの所有物だといっても、問題はあるまい。
「なにをいう。わしは応援しておるではないか!」
セツナの頭の上の奇妙な生き物が、憤然とその一対の翼を広げた。奇妙な生き物。本当に奇妙としか言いようがなかった。それが飛龍だということは一見すればわかる。長く尖った顎に一対の角を持つ頭部、宝石のような眼はともかくとして、長い首は丸みを帯びた胴体へ至り、両肩からは腕ではなく翼が生えている。飛膜――つまり、蝙蝠の羽のような翼だ。足は二本あり、鋭利な爪が見えるが、その爪が猛威を振るったところを見たことはない。長い尾の先端には可愛らしい帯が括りつけられていた。黒と白の帯は、レム=マーロウが従僕の証と言い張っていたが、もちろん、彼女の思いつきだろう。もっとも、その奇妙な生き物は、レムから括りつけられた従僕の証を余程気に入ったのか、括りつけられた日は、その帯ばかり眺めていたらしい。
その奇妙な生き物には、ラグナシア=エルム・ドラースという長たらしい名前がある。丸みを帯びた愛らしい姿には似つかわしくないのだが、シーラたちが初めて遭遇したときは、その名に相応しい威容を誇るドラゴンだったのだ。いまのこの可愛らしくも奇妙な姿は、一度死んで、転生したためらしい。そして、自分を殺したセツナを主と定めたのだ。
セツナは、彼のことをラグナと呼び、シーラたちもそれに倣っている。
「応援だけだろうが!」
「な、なに!? わしの応援が無意味じゃというのか!?」
「意味があったらそっちのほうが驚きだよ」
「むう!」
「むうじゃねえっての」
セツナは嘆息を浮かべたが、ラグナにはいまいち伝わらなかったようだった。
シーラは、そんなひとりと一匹のやり取りを横目に聞きながら、救われる想いがした。
アバードの事情を知って以来、彼女は、心が潰れそうになるほどの重みを感じていた。端的に言えば、苦しかったのだ。王都への凱旋を拒絶されて以来溜まりに溜まっていたものが一気に噴き出した、とでもいうべきか。蓄積していたものが雪崩を打って襲いかかってきたかのようであり、抗いようのない濁流の中で、彼女は空気を求めて喘ぎ続けた。
求めるのは空気だけではなかった。
救いが欲しかった。
「でも、ラグナが来てくれたのは正解だよ」
「そうか?」
「そうじゃろう、そうじゃろう」
ラグナは鷹揚に頷いたが、彼はなにも理解していないに違いない。だからこそおかしいのであり、笑みも溢れるのだ。
「ラグナがいなかったら、いまごろ沈みきってると思うからさ」
「なるほどな。賑やかしとして有用だということか」
「賑やかしとはなんじゃ! 賑やかしとは!」
セツナの頭の上で、ドラゴンが地団駄を踏む。まるで子供のような振る舞いだが、小ドラゴンに相応しい言動ではあった。水龍湖で対峙したときの圧倒的な姿からは想像もつかないし、あの姿のまま、いまのラグナのように振る舞われるのは困りものとしか言いようが無いが。
「いくらシーラのお墨付きを得られたからって、あんまり大声で騒ぐなよ。だれかに聞かれたらいろいろ面倒だ」
「さすがにこんなところにひとはいねえけど……確かに、だれかに聞かれたら面倒極まりないかもな」
夜明け前の北部征竜野に人気はない。いや、夜明け前だから人気がないのではない。そもそも、龍府の北部に人の往来など、そうあるものでもないのだ。
龍府は、ガンディア・ザルワーン地方北端の都市だ。イシカ、シルビナ、そしてアバードとの国境にほど近い場所に位置している。イシカは龍府の西、シルビナは龍府の北西方向にあり、イシカやシルビナから観光目的で龍府に訪れることがあるとすれば、西、北西の街道を使うだろう。北部征竜野を南下する理由はない。北部征竜野を南下してくるとすれば、アバードからの観光客や商売目的の人間だろうが、それは現在の情勢を鑑みれば、ありえないことのように思えた。
アバードは、国境の警戒と監視を強化しており、民間人の行き来は許可していないという。国境を命からがら突破したロズ=メランがいうのだから、間違いない。
つまり、アバードから龍府に向かう一団に遭遇することもなければ、龍府からアバードに向かう一団と出くわすこともない、ということだ。アバードが国境の監視を強化している以上、ガンディアからアバードを訪れようとする人間もいまい。
夜明け前。頭上、星々の影さえ消えようとしている。
「なにが面倒なのじゃ?」
「ふたりしかいないのに、声は三つ。おかしいだろ?」
「わしがいるじゃろ!」
「おまえはいないんだよ。いちゃいけないの」
「いちゃいけないとは酷いのじゃ!」
ラグナはセツナの頭の上から彼の右肩に飛び降りると、飛び上がって彼の耳に噛み付いた。セツナは動じもせずにラグナを一瞥する。痛くも痒くもないのかもしれない。
「ドラゴンなんて、それだけで大騒ぎになるんだぞ」
「……むう」
「だから、人前では俺の服の中に隠れてろよ」
「仕方ないのう。御主人様の命令には従うしかあるまい」
そういうと、ラグナはセツナの外套の中に潜り込み、そのまま胸元まで入り込んでいった。
「それでいい」
「ふふん」
ラグナは、襟元から頭だけ覗かせていた。
「なんで得意げなんだよ」
「本当、おかしいよ」
シーラは、彼らのやりとりを笑いながら、心の底で感謝した。セツナとラグナがいなければ、いまごろ自分はどうなっていただろう。
夜明け前の澄み切った空のような恐ろしさに、彼女は身震いした。
目的地はまだまだ遠い。