第九百十四話 シーラの決断(七)
「ファリアたちに知らせなくてよかったの?」
ミリュウがセツナに問いかけたのは、地下通路を移動している最中だった。
天輪宮泰霊殿の一室での密談を終えた四人と一匹は、夜陰に紛れて泰霊殿から抜けだした。天輪宮玄龍殿へ移動し、玄龍殿から地下通路に至る。その際、当然のことだが、ラグナには発光を止めさせていた。ラグナは自分の意思で体表を光らせることができるらしい。
地下通路に至れば、あとは北を目指して走るだけだった。地下通路は広大だ。そんな広大な地下迷宮に警備が張り巡らされているわけがなかった。それだけの人員を手配するのは、いまのガンディアでも簡単なことではない。その上、地下通路の出入り口さえ抑えてしまえばどうにでもなるのだ。地下通路内に警備を手配するよりは、出入り口を固めるほうが効率的で経済的だ。
つまり、地下通路の出入り口付近は厳重に警備されているのは間違いない、ということだ。
「ああ。本当はレムやラグナにだって秘密にしておきたかったんだ」
「残念でございますね」
「下僕の忠誠心を舐めたのが運の尽きじゃ」
「……主の気も知らない死神と小龍のことは置いておいて、だ」
「どういうことじゃ」
「どういうことでございますか」
レムとラグナがまったく同じ調子で噛みつくが、セツナは完全に黙殺していた。
「シーラの望みだからな」
「……なにもかも、俺の勝手な望みなんだよ」
「そりゃそうよね。捨てたはずの国に舞い戻って、行動を起こそうというんだもの。身勝手、自分勝手、勝手極まりないとはこのことよね」
「その通りさ」
シーラは、なにひとつ否定しなかった。
ミリュウは、彼女の潔さに目を細めた。シーラは、やはり愚かではない。なにもかも理解した上で、行動を起こそうとしている。いや、既に行動中といったほうが正しいのだろう。四人と一匹は、地下通路を進んでいる。かつてオリアンが龍府を脱出するために利用した地下通路は、龍府が災禍に見舞われたとき、天輪宮を住居とするザルワーンの要人たちが龍府の外に逃げ出すために作られたものだ。龍府内と繋がる出入り口もいくつもあるが、それは龍府外に出るまでもないときのためのものだ。その結果、龍府の地下に迷宮が生まれた。迷宮は魔龍窟にも繋がっているが、いまは関係ない上、ガンディアによって暴かれ尽くした後、閉鎖されているはずだった。
「自分勝手なんだよ。だから、だれも巻き込みたくないんだ」
その巻き込みたくないものの中には、当然のように彼女の元侍女たちが含まれているのだろう。艱難辛苦をともにしてきた元侍女たちを連れていないということは、そういうことにほかならない。それが彼女の決意の強さなのだろうが。
「だったら、あたしのセツナも巻き込まないで欲しかったわ」
「俺だって、そう思ってるよ。セツナを巻き込むつもりなんてなかった」
「とはいってもさ、シーラは俺の部下だ。いまは、黒獣隊のシーラだからな。シーラが勝手に飛び出して、アバードで行動を起こせば、俺の責任問題になる」
「だから、じゃないでしょ」
ミリュウは、口を尖らせた。セツナがそんなことまで考えて行動を起こすはずがない。もっと直情的で、直感的なのが、セツナという少年の心の有り様だ。いろいろ考えていることは知っているし、ミリュウが想像していた以上に複雑なものを抱えていることも、理解している。そのうえで、セツナはもっと単純な理由で行動を起こす性格だということを、精確に把握していた。
「ああ。放っておけないんだよ」
セツナの言葉には、ミリュウは嘆息せざるを得なかった。
「はあ。これだからこの男は」
セツナをして人誑しの天才という風潮が、ある。確かにそういう面もあるのかもしれない。セツナはこれまで、様々な人間を味方につけてきている。しかもその多くが最初は敵対していた人物であることが多く、通常、打ち解けるのも難しいような相手が多かった。エイン=ラジャールは特殊だが、彼が熱狂的な信者であることを止めないのは、セツナの人格にも惚れたということにほかならず、セツナが人誑しとしての才能を発揮した結果だということは明らかだ。ドルカ=フォームにグラード=クライドも、セツナを認めているし、ミリュウも、元敵対者のひとりだ。ミリュウも特殊といっていいが、レムという例を挙げれば、セツナに人誑しの才があるのは明白だった。レムは、明らかな殺意を以ってセツナに近づいた人間だった。が、数ヶ月の交流が彼女にセツナへの感情を変化させ、いまではセツナ一筋に変わってしまっている。ラグナもそうだ。つい数日前、セツナに襲いかかったドラゴンは、たった数日でセツナにべったりになってしまっていた。
しかし、それは緻密な計算によって成り立っているものではないということも考慮しなければならない。無意識に周囲の人間を感化していく才能があるのだ。
「ミリュウ様もこの先が思いやられますね」
「あたしだけじゃないわよ」
「こやつに惚れたのが悪いのじゃ」
「本当よねえ」
ラグナの言葉を肯定こそしたものの、悪いとは思わなかった。惚れた以上、弱点となるのは仕方のないことだ。諦めるしかない。その一点さえ諦めれば、あとは甘美なものが待っている。セツナは、他人からの好意に対しては好意で返してくれる。それが人誑しの所以なのだろうし、その結果、セツナ信者といってもいいような連中が増大するのだろうが、しかし、好意に好意を返してくれるからこそ、ミリュウも全力で好意をぶつけることができるのだ。
「言いたい放題だな」
「へっ、いわれるうちが花だぜ」
「なんなんだよ、まったく」
セツナが困り果てたようにつぶやいたが、ミリュウはいい気味だと思ったのだった。たまには、ひとの心労を考えてみてほしいものだった。
「……ま、ファリアたちは別にいいわよ。セツナの身勝手な行動だって、笑って許してくれるでしょうよ」
ファリアは、職務に忠実な現実主義者だ。セツナに対しても容赦なく厳しい言葉を吐くことができるのが彼女の強みであり、それこそ、彼女がセツナの中で特別な地位を獲得している理由のひとつでもあるのだろう。しかしながら、ファリアもまた、セツナに惚れているのは疑いようがない。セツナの行動は、最後には許してしまうものだ。
ミリュウは、隣を走るセツナの横顔を一瞥した。彼の頭の上に鎮座する小ドラゴンの発する強い光が、セツナの顔を闇の中に浮かび上がらせている。しかし、光が強すぎて、輪郭しかわからなかった。至近距離にいるというのにだ。残念だったが、ラグナの光を照明代わりに使っている以上、諦めざるをえない。ラグナの発光現象が、地下通路の暗闇を吹き払っている。
「シーラ様と駆け落ちなんてなされた日には、笑って追いかけてきそうですが」
「そりゃそうでしょ。あたしだって許さないわよ。なによ、駆け落ちって。あ、でもあたしとふたりきりでどこかに行くっていうなら、いいかな」
「よくねえ」
「そうでございます。そのときには、わたくしもご一緒させていただきます」
「そうじゃな。わしも一緒じゃ」
ひとりと一匹の反応に、ミリュウは渋い顔になった。
「なんでよ」
「御主人様の下僕壱号にございます故」
「下僕弐号じゃからの」
「はあ……先が思いやられるわ」
ミリュウは頭を抱えたくなった。この先、セツナと一緒に居続ける限り、このひとりと一匹がついて回ることは間違いないだろう。レムは、セツナと命を共有しているし、ラグナはセツナの力で転生したという。どちらも命の繋がりを持っている。命で繋がっている。簡単に切れる絆ではない。
もっとも、特別な繋がりがあるのは、自分も同じだ、と彼女は胸を張っていえる。セツナがどう想っているかは別として、だが。
「ふっ」
「セツナが勝ち誇れるようなことじゃないでしょ」
ミリュウはセツナの横顔を睨んだが、彼は意に介してもいないようだった。押しに弱いくせに、こういうときは妙に強気なのが、セツナらしいともいえる。シーラが笑い声を上げた。
「まったく、面白いよな、あんたら」
「本当よ、面白すぎだわ」
「あんたもだよ、ミリュウ」
「はあ!?」
「自覚なかったのかよ」
セツナの一言が胸に突き刺さる。
「どういうこと!? ねえ、どういうことよ!?」
「どういうこともこういうこともねえっての」
セツナは笑って取り合わなかったが、ミリュウはしばらくそのことをこだわり続けた。
「ともかく……話を戻しましょう」
「そうだな、それがいい」
「ファリアたちはともかく、軍師様には話さなくていいのかしら?」
ミリュウがここに至るまで気になっていたのは、その一点だった。軍師とはナーレス=ラグナホルンのことだ。ミリュウにとって年の離れた妹といってもいいメリルの夫である彼は、現在、この龍府に滞在中だった。しかも、ガンディアの軍師である彼が一般の旅館に宿泊するはずもなく、龍府に到着して以来、天輪宮で起居していた。当然、メリルも天輪宮に起居しており、そのことはミリュウにとって喜ばしいことだった。メリルは、ミリュウにとって数少ない、好きなザルワーン人だった。
軍師ナーレスは、ガンディアの軍事のみならず、政治にも深い関わりのある人物だ。いまのガンディアがあるのは、ナーレス=ラグナホルンがいたからだというのは言い過ぎでもなんでもないという。彼がいたからこその連戦連勝であり、順風満帆なのだ、という。無論、連戦連勝はセツナがいたからでもあり、ナーレスとセツナ、どちらが欠けても、ガンディアはここまで順調に進んでくることができなかったという論調に異論はない。
ともかく、それほどの人物が天輪宮に滞在しているのならば、意見を聞いておくというのも悪くはないと、ミリュウは想ったのだ。いや、意見を聞かずとも、一言でもいっておくべきではないか、と考えている。たとえどのようなことになろうとも、軍師にさえ話を通しておけば、どうにでもなるのではないか。
ミリュウは、どんな状況をも打開する軍師ナーレスが魔法使いのように思えてならなかったのだ。
そういった想いから発したミリュウの質問に対するセツナの答えは、意外なものだった。
「軍師様なら好きにしろってさ」
「あら?」
「なんだよ?」
「セツナって結構考えて行動してたのね」
「……あのなあ、いくら俺が馬鹿でも、この行動がガンディアに影響をおよぼすことくらいはわかるっての」
セツナは、むしろミリュウの思い込みを呆れたようだった。ミリュウは、彼に見えないように舌を出した。少しばかり、彼のことを甘く見ていたようだった。もちろん、セツナが考えていることは知っている。知っているのだが、その考えがそこまでのものとは思ってもみなかったのだ。セツナが怒るのも無理はない、とミリュウは想い、反省した。セツナが帰ってきたら、どうにかして謝ろうとも考えた。
「軍師様は、ガンディアのことは気にするな、っていってくれたよ。俺の思うままに行動していいって」
「へえ。あの軍師様がねえ……」
「なるほど。ですから、御主人様も躊躇わない、と」
「ガンディアの軍師様のお墨付きをもらったからな」
「そういうこと」
「とはいえ、暴れ回るつもりもないけどな」
「当たり前だろ。アバードで黒き矛が暴れ回ってみろ、ガンディアとアバードの関係が一気に悪化するぜ」
「そうだな」
セツナは、静かにうなずいた。
そんなことになれば、さすがのセツナもガンディアでの立場が危うくなるのは、彼だって理解しているだろう。
多大な流血を強いられたクルセルクとの戦争が終わり、ガンディアの国内情勢は、ようやく落ち着きを取り戻し始めたのだ。しかも、クルセルク戦争での大出血によって、ガンディア国民は厭戦気分の中にある。それは、この一年足らずの間に起きた無数の戦争が原因でもあるが、クルセルク戦争での損害の大きさが一番影響しているのは間違いない。何千もの兵が死に、何人もの軍団長が討ち死にした。魔王の野望を打ち砕くためとはいえ、あまりに犠牲が多すぎたのだ。どれだけ勝利を重ね、国土が広がろうとも、死んだ人間は戻っては来ない。兵を、家族を失ったものが悲嘆に暮れ、戦いに嫌気が差すのも無理はなかった。
そんな状況下で新たな戦争の火種を作れば、いかにガンディアの英雄といえども、非難されないはずがなかった。