第九百十三話 シーラの決断(六)
「どうされたのでございます? そのような間の抜けた顔は、御主人様はともかく、ミリュウ様、シーラ様にはお似合いにはなられませんよ?」
レムのどこか冷ややかな声音は、きっと仲間はずれにされていたことを根に持っているからだろう――ミリュウは、声のした方向に目を向けて、彼女の姿を闇の中に探しながらそんな風に思った。刺々しい声音は、レムらしくないといえばらしくない。彼女は、セツナの従者として文字通り生まれ変わってからというもの、ミリュウに対してさえ敵対心を見せることがなくなっていた。身も心もセツナのものとなった、というのはあながち本当のことなのかもしれない。いや、そもそも嘘をつく理由がない。セツナと黒き矛の力によって蘇った彼女は、セツナに忠誠を誓い、その忠誠心はミリュウへの敵愾心も消し去ったのだろう。
窓のない部屋の真の暗闇は、闇色の少女を完全にわからなくしてしまっていた。黒髪黒目に黒ずくめ。それがレム=マーロウという少女染みた死神の有様であり、死神に相応しいといえば相応しい姿ではあった。しかし、近距離でも姿が見えにくいというのは、少しばかり不便ではあった。隠密行動や暗殺には向いているのだろうが、セツナが彼女に暗殺任務を与えるとは思えない。
「レ、レム、いつからそこにいたんだよ?」
セツナの声に焦りが生まれていたのは、今夜の行動は、レムにも伝えていなかったということに起因するに違いない。レムに話していないということは、当然、ファリアやルウファにも話してはいないだろうし、ナーレスにも黙っているのではないか。そんな中でミリュウが選ばれたのは、彼女が天輪宮の構造に詳しいからであり、口が固いからというだけの理由だったのだろうが、だからといって嬉しくないはずがなかった。レムにも隠していたことなのだ。レムを一瞬でも出し抜けたことは、痛快以外のなにものでもない。ここのところ、レムにばかりセツナを取られている気がしていたからだ。
「御主人様がミリュウ様と連れ立ってこの部屋に入ったときからでございます」
レムのしれっとした返答には、さすがのミリュウも衝撃を覚えざるを得なかった。
「なん……だと」
「い、いたの? ずっと?」
「はい、もちろんにございます」
きっと、彼女はいつものように笑っているのだろう。満面の笑みで、こちらを見ているのだ。だが、声音は相変わらず刺々しい。怒っている。セツナに隠し事をされたのが余程不愉快だったに違いない。ミリュウには彼女の気持ちが痛いほどわかるから、優越感も一瞬にして消えて失せてしまった。同じ女であり、同じひとを想っている以上、ときに対立することがあったとしても、ときには同調することだってある。
ミリュウも、セツナに隠し事をされたら、きっと堪ったものではない。
「なんでだよ?」
「御主人様のお姿が見当たらないというので、探しまわっていたところ、御主人様がミリュウ様とふたりきりで歩いておられるではありませんか。これは……と思い、追跡した次第でございます」
「だからってなんで入ってくるんだよ」
セツナが嘆息すると、レムがずいと彼に接近したのが気配だけでわかった。そして、彼女の顔がようやくミリュウの目にも捉えられた。闇に溶ける黒髪と闇色の瞳は相変わらずだが、表情はわかる。無理をして笑っている、そんな顔つきだった。
「ついに御主人様が大人の階段を駆け上がるのかと想い、いてもたってもいられず……」
彼女はそういったが、それがレムの本心ではないということは、ミリュウには明らかだった。レムがセツナとミリュウの行動にいてもたってもいられなかったというのは本音なのだろうが、それはセツナの成長を見守るという心理ではないはずだ。そんな心理状態にあるのなら、声に刺々しさが生まれるはずもない。
もっとも、レムの本心は、セツナには伝わらなかったようだ。彼はまたしてもため息を浮かべていた。
「残念だったな」
「むしろ喜んでおるぞ、この先輩死神は」
聞き知った小ドラゴンの声は、レムの頭の上からだった。声とともに、彼の姿が闇に浮かび上がる。彼の小さな体が光を発したのだ。淡く美しい緑色の光。そのおかげで、レムの姿が闇の中に浮上し、彼女の表情も明らかなものとなるが、陰影の関係で死神そのものように見えなくもなかった。
「ラグナもいたのかよ」
セツナが呆れていった。セツナが誕生日に下僕にしたという小ドラゴンは、ミリュウにとっても不思議な存在としか言いようがなかった。ラグナシア=エルム・ドラースという厳かな名前からは想像もつかないほど愛嬌のある姿をしたワイバーン。丸みを帯びた小さな体からは、万物の霊長を名乗る伝説的な存在を想像することは、難しい。いや、姿形はドラゴンそのものといっていいのだが、そのあまりの小ささからは、人間の何倍、何十倍の巨躯を誇るというドラゴンの威容を連想することは容易では無いのだ。
ワーグラーン大陸にドラゴンが実在するという話は聞いたことがあったし、子供の頃、父に聞かされたこともあった。父は、ドラゴンと死闘を繰り広げる魔人の物語をよく話してくれたのだ。いま思えば、その魔人とはアズマリア=アルテマックスのことだったのかもしれない。アズマリアは竜殺しの二つ名で知られている。そして、オリアス=リヴァイアは、アズマリア=アルテマックスの弟子のひとりだった。
いま想えばわかることは様々にあった。
それはそれとして、そんなドラゴンのうちの一体が、セツナの従僕になってしまったという事態を受け入れるのは、時間がかかったものだ。いや、受け入れることは難しくない。しかし、理解できたかというと別の話だ。ファリアたちは平然と受け入れているが、天輪宮の使用人などは、ラグナの姿を見るたびに悲鳴を上げたものだし、逃げ惑うものもいないではなかった。小さくとも、ドラゴンはドラゴン。異形の怪物であることに違いはない、ということだろう。
「当然でございます。後輩ドラゴンが、御主人様の不在を教えてくれたのですから」
「……ラグナ、おまえなあ」
「ふと目を開けたらおぬしがおらぬのじゃぞ? 心配せぬほうがおかしかろう」
ラグナが長い首をもたげ、憤然といった。本当に怒っているのだろう。彼の体の発光度が感情の激しさを示すかのように強くなり、闇に慣れた目に痛すぎるほどだった。
ラグナは、セツナの下僕であることを示すためか、常にセツナの側を離れなかった。寝るときも一緒だったし、お風呂に入るときでさえ一緒だった。どんな時でも付きっきりというのは一時のレムを思わせたが、レムに対してほど嫉妬心を抱かずにすんでいるのは、ラグナがドラゴンだからなのかもしれない。ドラゴンと人間が常に一緒にいるからといって、過ちを犯すことなど、ありえない。だが、レムは違う。他国から派遣されていた護衛だったとはいえ、外見は美少女なのだ。誘惑されれば、セツナであっても呆気なく堕ちるのではないか。そんな漠然とした不安が、当時のミリュウを席巻したものだった。
その不安はいまは収まっているものの、完全に消え去ったわけではない。当然のことだ。レムは、セツナの従者としての立場を弁えているものの、セツナに対して明らかに愛情を持っていた。そしてそれは、ジベルから派遣された護衛時代にはなかった感情だ。ミリュウが警戒するのも当然だった。
もっとも、ミリュウが警戒したところで、セツナがその気になるかならないかの問題に過ぎず、そういう意味では安心できるのだが。
「そうでございます。後輩ドラゴンの行動に間違いはございませぬ」
「はあ」
セツナは、レムとラグナという奇妙な下僕達を前に生返事を浮かべるしかなかったようだった。セツナがレムに言いくるめられることは多々あったが、これからはラグナにも言い負かされていくのかもしれない。下僕に頭の上がらない主とは、なんとも不甲斐ないが、それがセツナといえば返す言葉もない。そして、そういうところがたまらなく愛おしいのだから、ミリュウもまた、どうしようもなかった。
ミリュウは、ラグナの光の下で勝ち誇っているレムの顔を一瞥して、彼女の頭の上に小ドラゴンに視線を移した。どういう原理なのか淡く輝くドラゴンもまた、レムの黒髪の上でふんぞり返っていた。一対の翼で腕組みなどしている。
「さっきの喜んでるってどういうこと?」
「それはじゃな――」
「そんなことはどうでもよいのでございます」
ずい、とレムがラグナの言葉を遮った。
「わたくしどもはどうするべきか、それが先決にございます」
レムの強い口調には、だれも反論できなかった。