第九百十話 シーラの決断(三)
その日の朝、ミリュウは、ファリアの胸の柔らかな感触がないことに気づいて、眼を覚ました。
(ない……いつもあるはずのものが、ない)
寝ぼけ眼をこすりながら上体を起こすと、いつもなら寝こけているはずのファリアがいなかったのだ。わずかにはだけた寝間着が妙に色っぽいとミリュウの中で評判の彼女の姿は、寝台は愚か寝室のどこにも見当たらなかった。寝ぼけながら戯れるのがここのところの日課となっていたのが、できなくなっていることに憮然とする。
「もう」
憤然とつぶやきながら、寝台の直ぐ側においてあった手鏡に手を伸ばした。手鏡は、彼女がファリアの誕生日祝いにと贈ったものであり、ファリアは大切に使ってくれていた。青を基調とし、上部に魔晶石が埋め込まれた手鏡は、闇の中で自分の顔を鏡に映すこともできたし、夜中にちょっとした明かりとしても利用できた。魔晶石を埋め込んであるだけあって極めて高価だったが、ファリアのためならば安いものだ。彼女が喜んでくれたのならなおさらだった。
鏡面に映り込むのは、自分の顔だ。ミリュウ=リヴァイア。リバイエン姓ではなく、リヴァイア姓を名乗ることにしたといって、顔つきに変化が生じるはずもない。なにも変わらない。髪は以前紅く染めたままだったし、瞳の青さに変化があるわけではない。寝起き特有のだらしない表情が多少なりとも引き締まっているということさえ、ない。
心情が外見になんらかの変化をもたらすことなどありえない。
いつもと変わらない自分の顔を見て、彼女は手鏡を元の場所に戻した。戻してから、再び寝台の上に体を沈める。布団にくるまり、目を閉じる。長期休暇の真っ只中だ。わざわざ早起きする必要もない。誰に気兼ねすることなく、眠り続けても構わないはずだった。
セツナがいないのだ。
彼女にとって世界のすべてといってもいい少年がいないということは、それだけで、日常への興味を薄れさせた。彼がそこにいるというだけで世界の色彩は変わって見える。だが、彼がいないのならば、なにもかもが色あせた。当然の道理だと、彼女は思う。頭の中を席巻するのは、いつだって彼の記憶だった。いつか流れ込んできた彼の記憶が、彼女のすべてになった。
力の逆流。
記憶の逆流。
記憶の合一。
(変なの)
ミリュウは、自分の頭の都合の良さに苦笑を浮かべた。いまでも、セツナの記憶が頭の中を埋め尽くしている。父が残したリヴァイアの知の記憶ではなく、セツナの記憶こそが、彼女の意識を取り囲んでいる。そして、そのおかげで、彼女は自分を見失わないのだ。
リヴァイアの知から得られる数多の記憶、数多の情報は、いまだ封印状態といっていいようなものだ。いつか体に順応し、解き放たれる時が来るのだろう。オリアスがそうであったように。歴代の継承者がそうであったように、だ。そして、その膨大過ぎる情報量に耐え切れず、発狂したのが歴代の継承者だ。
ミリュウもそうなるかもしれない。
だから、彼女は彼に託した。
勝手なお願いだが、彼以外には頼めないことだった。彼にしか託せない。彼にならば、殺されても構わないからだ。彼以外に殺されるなど、真っ平御免だった。本当に勝手な願いだったし、望みだ。彼の想いなど考えてもいない。自分の望みだけを押し付けてしまった。
彼の困惑した顔がいまでも脳裏に浮かぶ。
(セツナ……ごめんね)
何度謝っても許されることではないだろう。
だが、彼に頼むよりほかなかった。
彼でなければだめなのだ。
(我慢するからさ。セツナがいない間も、ちゃんとしてるからさ)
胸中でつぶやきながら、彼女は目を開いた。そうだ。ちゃんとしなければならない。布団の中から抜けだして、寝台から飛び降りると、大きく伸びをした。セツナがいない以上、自分の足で立たなければならない。自分の足で立ち、自分の意志で行動しなければならないのだ。いつも頼りきっている相手がいなくなるということは、そういうことだ。でなければ、死人のように横たわるしかない。
それでは、だめだ。
だれもいないファリアの部屋の中を見回して、その漠然とした寂しさに少しばかり呆然とする。時計の針は、十時を示していた。午前十時。五月十一日午前十時だ。
「そうか」
ミリュウは、ファリアがなぜいないのか思い当たることがあった。
セツナがいないからだ。
自室で寝間着から私服に着替えたミリュウは、天輪宮が天地をひっくり返したような騒ぎの中にあることを知った。使用人という使用人が動員され、都市警備隊までが入り乱れて天輪宮中を走り回っている。
天輪宮は、龍府の象徴ともいえる建造物群だ。泰霊殿、紫龍殿、飛龍殿、双龍殿、玄龍殿という五つの殿舎から成り立っており、広大な敷地面積から分かる通り、ひとつひとつの殿舎がとてつもなく巨大だった。殿舎ひとつで小国の王宮くらいはあるといっても過言ではないほどであり、天輪宮をくまなく捜索するとなると、一日かかっても不可能ではないかと思えるほどだった。
(さすがにこれだけの人数を動員すれば探し回れるとは思うけど)
ミリュウは、空腹をなんとかするため、紫龍殿の食堂に足を向けながら、天輪宮を駆け回る使用人たちの様子に苦笑を禁じ得なかった。彼らは、必死だ。彼らのように天輪宮で働く人間にとってみれば、龍府の領伯たるセツナほど重要な人間もいない。セツナにもしものことがあれば、仕事を失うだけではなく、自分たちの責任問題にも発展する可能性だって皆無ではなかった。もちろん、そんなことがあれば、真っ先に責任を追求されるのは、現状、天輪宮の警備にあたっている都市警備隊であり、つぎに天輪宮内部の警備を担当する黒獣隊であろう。また、従者のレムの責任も問われるかもしれないが。
食堂には、やはりだれもいなかった。午前十一時。昼食にはまだ早い上、朝食には遅すぎる時間だった。
厨房を覗くと、ゲイン=リジュールがいつもどおりの気難しい顔で包丁を研いでいた。ゲイン=リジュールは、《獅子の尾》の厨房を担当する調理人であり、セツナのために和食なる料理を再現してみせたほどの腕前を誇っている。ミリュウも、彼の手料理は格別だと思っていたし、彼の手料理を毎日食べられるというだけでも幸福だと考えていた。それだけでも、《獅子の尾》に所属している甲斐があるといっていい。
もっとも、ミリュウの場合は、セツナがいるだけで十分であり、ゲインの手料理は付属物にすぎない。
そのセツナがいないいまは、彼の手料理に舌鼓を打ち、それでセツナの不在を我慢するというのも悪くはないかもしれない。もちろん、同列に語れるものではないし、比較対照するべきものですらないのはわかっているが。
「ゲインさん、今日はなにがおすすめなの?」
「あれ、ミリュウさん?」
ゲイン=リジュールがこちらを一瞥すると、そのいかつい顔が怪訝な表情に変わった。いかつい顔をしてはいるものの、年齢的にはミリュウとひとつくらいしか変わらなかったはずだ。しかし、その顔つきのせいでとても二十代には見えず、そのことを彼なりに苦心しているらしい。
「なに?」
「ミリュウさんは探しまわらなくていいんで?」
「なにを?」
ミリュウがとぼけると、ゲインは素直に驚いたようだった。包丁から手を離し、こちらに身を乗り出してくる。
「なにをじゃなくて、セツナの旦那をですよ。皆、朝っぱらから探し回ってますぜ。かくいう俺も、さっきまで駆け回っていたんですが」
「あー、それね」
「それね……って、ミリュウさんらしくないですな」
ゲインは、ミリュウのあまりにあっさりとした反応に唖然としたようだった。
「そう?」
「へい。いつものミリュウさんなら、セツナの旦那を探し回って大騒ぎしてると思うんですが」
「あたしってそんな風に見えるんだ?」
「へい! って、いや、これは、その――」
「別に怒ってないわよ。否定もしないし」
ミリュウは、ゲインの慌てふためくさまに笑い返した。それから、彼のいっていたことを考える。確かにそうだろう。事情を知らなければ、自分もまた、使用人たちに混じって天輪宮を走り回っていたに違いない。いや、混じるどころの話ではない。率先して、捜索部隊を結成し、天輪宮のみならず龍府中をくまなく探し回ったはずだ。そうでもしなければやっていられなかったはずだ。
しかし、事情を知っていれば話は別だ。
「そうよね。不思議かもね……でも、まあ、知ってたから、さ」
「知ってた?」
「それ、どういうことか教えてくれるわよね?」
「あ」
聞き覚えのある声に振り向くと、ファリアが額から汗を流しながら、こちらを見ていた。
「ミリュウ」
凄絶な笑みは、ミリュウの背筋を凍らせるだけの威力があった。