第九百九話 シーラの決断(二)
「まったく、あなたは酷いひとですね」
エイン=ラジャールは、長椅子に腰掛けて優雅にお茶を啜っている人物を見遣っていた。長衣を着込んだ痩せぎすの男。ガンディアの軍師にして、参謀局長ナーレス=ラグナホルンそのひとである。彼は、こちらを見ると、不思議そうな顔をした。
「なにがかな?」
「最初からこうなることを見越していたんでしょ?」
「それは否定しないがね……しかし、こうも行動が早いとは、さすがのわたしでも予想できなかったな」
「嘘ですよね、それ」
アレグリア=シーンが横から口を挟んできた。参謀局第二作戦室長である彼女がこの場にいるのはある意味では当然のことだ。天輪宮のこの一室は、ここ数日、参謀局の出張所として機能していた。龍府を訪れた参謀局の幹部三人と、数名の部下たちは長期休暇を満喫する傍ら、参謀局としての仕事もこなしていたということだ。
龍府は、ガンディア王国ザルワーン地方最北の都市であり、複数の国との国境に近い位置にあるという関係上、各国の情報を仕入れるには最適の場所でもあったのだ。そして、各国から集めた情報を精査し、ガンディアの今後に役立てていくのが、参謀局の役目でもある。
『これのどこが休暇なんですか!?』
メリル=ラグナホルンが憤然とした顔を見せると、さすがのナーレスも彼女のご機嫌取りに奔走しなければならなかったようだが。
「まさか」
「いやいや、セツナ様なら即座に行動に移すと思っていたでしょ?」
「君たちはわたしをなにか勘違いしているのではないかね?」
ナーレスはとぼけた顔でいってきたが、エインはアレグリアと顔を見合わせて、ふたり揃って肩を竦めてみせた。
「局長が御自身のことを勘違いなさっておられるのでは?」
「そうですよ。局長は局長が思っておられるほど、人間っぽくありませんよ」
「酷いいいさまだな」
ナーレスが憮然とした表情を浮かべたのを見て、エインは再びアレグリアと顔を見合わせて、笑った。神のような眼を持ち、悪魔のような策謀を企てる男も、ひとにからかわれると人間らしい表情をするものだ、と想ったのだ。もっとも、ナーレスが人間らしく振る舞うのは、なにもエインたちがからかったときだけではない。彼は、愛しの妻の前でも、きわめて人間臭い表情を浮かべてみせるのだ。
「しかし、そういいたくもなりますよ」
「本当に」
ナーレスが困ったような顔をした。
「まったく、なにが不満なのかわからないな」
「……わたくしたちにも教えてくださればいいだけですよ」
「そういうことです」
「不確かな将来について話しても、仕方があるまい」
ナーレスが嘆息した。
不確かな将来を見通すのが軍師であり、参謀局の役割ではないのか、といいたかったが、彼がいっているのはそういうことではないということを知っているから、エインも口を閉ざさざるをえない。ナーレスがいっているのは、おそらくもっと単純なことだ。
「それに――」
と、ナーレスは口調を改めた。
「これでわたしの最期の仕事も上手くいくんだ。それでよしとしてくれないか?」
「……まあ、そういうことなら」
「……そういうことでしたら」
「ありがとう。ふたりなら、わかってくれると想っていたよ」
それも、視えていたのかもしれない。
(最期の仕事……か)
ナーレスは、そういった。
最期の仕事。
(最期……)
エインは、胸中で何度もその言葉を反芻した。反芻しながら、尊敬するべき上司であり、軍師としての師匠とでもいうべき男の顔を見ていた。いかにもやつれきった顔つきは、彼の体に潜む毒が、彼の命を貪り食らっている証明でもあるのだろう。しかし、その目に苦痛や疲労が現れることはない。むしろ、死が近づくほどに透徹さえ、透き通っていった。透明な目に見据えられると、心の奥底まで見透かされる気がした。実際、見透かされているのだ。自分の浅はかな考えなど、彼の眼の前では無力だということを散々思い知らされている。
ナーレスの視野の広さ、深さは、エインでは到底及ぶところにはなかった。だが、それでも後を継ぐのは、自分だ。自分と、アレグリアのふたりで、彼の後を引き継がなければならない。軍師ナーレス=ラグナホルンの後継者として、ガンディアをよりよい未来に導いていかなければならない。
そのときが間近に迫っている。
それは、彼を失うということだ。
ナーレス=ラグナホルンの死は、ガンディアにとって大きな損失となるだろう。少なくとも、エインとアレグリアが力を合わせた程度では埋めようのない穴が開くのは疑いようがない。
「アレグリア。君は王都に戻り、準備を進めてくれ。陛下には、くれぐれもよろしく頼む」
「はい」
「エイン。君は《獅子の尾》と行動をともにしたまえ。いずれ出撃の機会が来る。そのときは、君の思うままに動かすといい」
「思うまま? それも局長の思惑通りってことですか?」
「どうかな」
ナーレスは、エインの発言に対し、微笑を浮かべていた。きっと、そういう反応さえ、ナーレスの頭の中に浮かんでいたに違いない。彼は、なにもかもお見通しだった。さながら預言者のように、だ。
「あとは……アバードの情勢次第だな」
「混迷を極めるでしょうね」
「当然だ。死んだはずの姫が舞い戻るのだからな」
アバードは、ただでさえ混迷の中にある。エンドウィッジの戦い以来落ち着きを取り戻しつつあった情勢は、タウラル領伯とその一族郎党の処刑によって騒がしいものとなっているはずだ。そんな中にシーラが帰還すればどうなるものか。
それがわからないシーラではないはずであり、彼女は、祖国が混乱を極めることを理解した上で行動を起こしたに違いない。シーラは、愚かではないから、内乱を避け続けた。避け続けた末に国を捨てた。愚かであれば、内乱を煽り、派閥の対立をさらに過激なものにしただろう。いや、それ以前に、愚かであれば、ひとは彼女についてこなかっただろうが。
「……可哀想なシーラ様」
アレグリアが、ぼそりといった。彼女も、エインと同じように視えているのだ。視えているから、憐れむしかない。シーラの人生は、あまりに理不尽で、憐れだ。
「なにもかもガンディアのためだ」
「わかっております」
「それに、シーラ姫にとっては、これが最善かもしれない」
と、ナーレスはいったが、エインはそうは思わなかった。最善とは違う。ほかに道がなかっただけだ。どんなときだって選択肢は無限にあるわけではない。選択肢は有限で、ときにはひとつしかないことだってある。それは選択肢などではなく、ただの一本道にすぎないのだが、しかし思い悩んだ末の行動ならば、選択肢と呼ぶしかない。たとえ、最初からそれ以外の道がなかったとしても、だ。
シーラは、道を選んだ。
祖国を捨て、王家を捨て、名を捨て、ただのシーラとして生きる道を、選んだ。ほかに道があったわけではない。なかったはずだ。エンドウィッジで戦い、死ぬ道など、彼女の頭のなかには端からなかったのだ。そう、選択肢にすら入っていないということだ。つまり、シーラの道は、最初からガンディアに繋がっていたのだ。
そしてそのガンディアに繋がった道は、再び、アバードへ向かっている。
シーラは、姿を消した。
今朝、彼女を隊長とする黒獣隊の部下たち(つまり、彼女の元侍女たち)が、彼女の不在に気づいたのだ。そして、その後、セツナの姿も見当たらないことが判明し、天輪宮をひっくり返すような騒ぎになったのだ。それこそ大騒ぎという次元のものではなかった。天輪宮の使用人、女中を使っただけでは飽きたらず、都市警備隊、ザルワーン方面軍第一軍団の兵士たちまで総動員して、龍府中を捜索している。いまでも、だ。
そんな大騒動の中にあって、冷静な人物は数名いた。
そのひとりが参謀局長のナーレスであり、そのことから、彼がこうなることを見越した上で、ロズ=メランを天輪宮に連れてきたのだということを悟った。
部外者であるロズ=メランが天輪宮に入ることができたのは、龍府の北門に辿り着いたロズ=メランをナーレスが保護したからなのだ。ちょうどルウファとともに空で遊んでいたナーレスは、北門の騒ぎを聞きつけ、ルウファに北門まで運んでもらい、そこで傷だらけのロズ=メランと対面した。ロズ=メランは、都市警備隊の監視下に置かれていたのだが、ナーレスが名乗りでたことで、彼の管理下に置かれることになったらしい。ナーレスがなぜロズ=メランを保護したのかというと、ロズ=メランがアバードの人間だと一目でわかったからであり、負傷したアバード人が龍府を目指す理由など、ひとつしか考えられなかったからだ。
ガンディアに保護を求めたからではない。
龍府に住んでいるであろう人物になにか大事な情報を伝えるためだ。龍府に隠住む人間で、アバードにとって重要な人物となれば、ひとりかふたりしかいない。ひとりは、スコット=フェネック。こちらは重要人物というよりは、タウラル領伯ラーンハイルの友人ということで候補に上がる。彼を通じてガンディアと連絡を取ろうというラーンハイルの思惑は、シーラの行動力の前に無残にも崩れ去ったが。
もうひとりこそ、そのシーラだ。そして、ロズ=メランがシーラを探していることは、彼のしどろもどろな言動から明らかだったという。ロズ=メランとしては、シーラの生存を口外することはできない。が、どうにかしてシーラの居場所を探さなければならない。結果、言動は不自然なものとなる。
ナーレスは、彼から巧みに事情を聞き出すと、シーラが滞在する天輪宮まで案内した。
その結果、シーラが姿を消すだろうことも折り込み済みだったのは、間違いない。
そして、困っている人を見ると放っておけないセツナが、シーラに手を差し伸べないはずがないということも、見越していたのだ。
その結果、彼女に災難が降りかかるということまで、ナーレスは見切っている。
だから、アレグリアはシーラを哀れんだ。
シーラは、不幸に堕ちるだろう。