第九百五話 流れ落ちるように(四)
木剣の切っ先が揺れている。いや、揺らしているのだ。立ち止まっているときも常に切っ先を揺らして、焦点を定めさせないというのが、ルクス=ヴェイン流の基本姿勢であり、最初に叩きこまれた教えだった。
ルクス=ヴェインを師と仰ぐようになってから、実に半年以上のときが流れている。
しかし、その半年以上の間、ずっと付きっきりで手ほどきしてくれていたわけではない。王都にいる間、あるいは同じ場所にいる一定の期間しか、直接の手解きを受けられなかった。弟子入りしてから、常に王都に滞在することができたわけではないからだ。外征が続いた。ザルワーン戦争にせよ、クルセルク戦争にせよ、故あっての外征であり、必ずしも領土拡大だけを目的とした戦争ではなかった。どちらも、ガンディアの領土を守る上では必須の戦いであり、負ければ、国土を蹂躙しつくされるのが目に見えた戦いでもあった。故に彼も死力を尽くして戦った。そんな戦いの中でも、ルクスの教えを忘れなかった。
(常に緊張感を抱け。だが、緊張しすぎてはならない。過度な緊張は、筋肉に硬直をもたらす。筋肉の硬直は、反応の遅れを誘発する。皇魔や武装召喚師との戦闘においては、一瞬の遅れが、死に繋がる――)
柄を握る手に力を込める。強く握るが、握り過ぎない程度には力を抜く。その絶妙な力加減を身に付けるまでに相当な時間がかかった。そして、力加減を覚えたからといって、それでよしというわけにはいかない。必要なとき必要なだけ力を込められるよう、常に注意を払わなければならない。そして、意識しすぎてもいけない。それらをすべて無意識で行わなければならないのだ。それが武装召喚師の戦いであり、人外の領域での戦いだということだ。
(意識を集中しろ。敵の動きから目を逸らすな。敵の動きからあらゆる可能性を想像しろ。考えを縛られるな。敵の攻撃方法を限定したとき、おまえの死は確定する――)
敵は、木槍を構えている。木剣ではなく、木槍。相手の得意とする武器が木槍だった。かくいう自分も普段使う武器は剣ではなく、矛だ。長柄武器の扱いに習熟するべきだという声もあるが、いまは基本的な動作を学んでいる最中ということもあり、彼は木剣を握り続けた。おかげで、御前試合でもそこそこ戦えたという自負がある。もちろん、優勝は出来過ぎだったし、なんらかの思惑が働いたことは疑いようがない。だからといって優勝を返上するというつもりもない。彼の優勝が王宮の意図ならば、甘んじて受け入れるだけの事だった。きっと、それでいいのだろう。なにごとも、なるべくしてなるだけのことだ。
(呼吸を整え、感覚を研ぎ澄ませろ。おまえは一個の刃となる。敵の喉を切り裂き、肺腑を刳り、心の臓を突き破る一個の刃。おまえは刃だ――俺は、刃だ)
敵が動いた。右に流れるように、移動した。釣られるように、彼も右に動く。敵がこちらに飛び込んできた。槍の切っ先が地を這うような動きを見せた。見慣れた動き。想像力を働かせる。左へ飛ぶ。やりの切っ先が跳ね上がって虚空を貫くのが見えた。飛んでかわしても、後退しても、その一突きの餌食になっていたのだ。だが、避けることができた。敵が隙を見せている。飛び込むべきか。
(いや……!)
彼は、その場で足を止めると、剣を構え直した。相手は口の端を歪めて、獣染みた笑みを浮かべた。
「乗ってこねえのか。意外だな」
シーラが、木槍を構え直しながら、いってきた。狂暴な笑みは、彼女がこの訓練を心底楽しんでいることを表している。訓練用の防具一式を身につけた彼女は、戦士としての風格があった。そんな彼女が木槍を構えれば、それだけで気圧されかねない。
「乗り続けて連戦連敗だからな」
「さすがに、見慣れたか」
ふう、と息を吐くと、彼女は構えを解いた。既に十戦、剣を交えていた。連戦だ。疲れも溜まっている。訓練とはいえ、これほど真剣に戦い続ければ、筋肉も悲鳴を上げるものだ。セツナ自身、疲労を覚え始めていた。構えを解く。
「ああ、さすがに、ね」
額の汗を拭おうとしたとき、訓練室の片隅から駆け寄ってくるメイドの姿が見えた。レムだ。彼女の右肩にはエメラルドの物体が乗っかっている。彼女から手拭いを受け取ると、美少女メイドは、満面の笑顔で告げてくるのだ。
「御主人様の一勝二十二敗に御座います」
歴然たる力量差を見せつけられた気分になって、さすがのセツナも愕然とした。もちろん、わかりきっていたことではあった。数えこそしなかったものの、負けが混んでいることなど身を以て知っていたし、一度しか勝てなかったことも知っている。それでも、改めて告げられると、自分の無力さをつきつけられた気分にもなるものだ。レムの肩から飛び上がったラグナがため息などを浮かべてきた。
「たった一勝か……御主人様も形無しじゃの」
ラグナを睨もうにも、彼はセツナの頭の上に乗っかってしまっており、視界に捉えることさえできなくなっていた。彼はすっかりセツナの頭の上を定位置として認識してしまったようだ。幸いにもラグナの体重は軽い。そのうち質量が膨れ上がり、重量も凄まじいものになるのかもしれないが、そのときはそのときだ。さすがの彼も、巨大化してまでセツナの頭に乗ろうとはすまい。
「俺から一勝奪えただけでも御の字だぜ、御主人様」
ウェリスから受け取った手拭いで汗を拭き取りながら、シーラがニカッと笑った。やはりシーラには太陽のような笑みが似合っている。特徴的な白髪を隠してもいなければ、顔を隠してもいない。ここ訓練室は、余人に立ち入れる空間ではない。天輪宮飛龍殿の地下に位置し、ミリュウから聞かされなければ発見することもできなかったのではないかと思えるような場所だった。なぜそんなところに訓練室があるのかというと、天輪宮の全殿舎が建設されたあとになって訓練施設も必要だということになり、仕方なく地下に作ろうということになったらしい。その中で、天輪宮の地下にいくつもの部屋が作られていき、龍府各所に至るための地下通路が設けられたという。地下通路は、龍府にもしものことがあったさいの脱出経路として利用される予定だったといい、ミリュウは以前、その秘密通路を使って天輪宮に忍び込んだらしい。
訓練室そのものは、別段大したものがあるわけではない。地上の天輪宮とは趣そのものが異なっており、ひとの目を引くような飾り付けが施されているわけでもなければ、龍の意匠がそこかしこに見受けられるわけでもなかった。地下空間。天輪宮とは別の世界だと認識してもいいのかもしれない。
「このわしを倒したほどのものが、なぜにあの小娘に勝てぬのじゃ」
「訓練と実戦じゃ違うんだよ」
「普通逆だけどな」
「ぐぬ」
シーラの言葉には、反論の余地さえない。確かに彼女のいう通りだ。訓練なら強いが、実戦では弱いという話ならば耳にすることもあるが、逆はない。実戦で強い人間が訓練で弱いということなど、普通はありえない。もちろん、訓練では本気を出せないという人種がいることも知ってはいるが、セツナほど明確な力量差を実感できる相手もいまい。
素のセツナと黒き矛を手にしたセツナでは、力量に著しい差が生まれるのは仕方のないことだ。これでも強くなったほうなのだ。御前試合の結果を見てもわかる通り、正規の軍人と立ち合える以上の力を身につけているのだ。
(そりゃ、優勝は実力じゃないけどさ)
それでも、一流の剣士に引けを取らない程度には戦えるようになった。体も軽い、筋肉も付いている。召喚された当初と比べると、天と地ほどの差があるはずだったし、そのことはファリアも認めてくれている。着実に成長してはいるのだ。
ただ、今回の訓練の相手が強すぎただけのことだ。
シーラは、子供の頃から剣を手に取り、訓練と実戦を重ねてきている。それこそ、セツナとは比べ物にならない数の戦場を越えてきたのだ。それも、召喚武装の補助なしで戦い抜いてきた戦場も少なくはない。召喚武装無しの力量では、彼女のほうが一枚も二枚も上であり、それは木剣と木槍を構え合った瞬間に理解できた。
訓練自体は、競技試合形式で行われた。御前試合の話を聞いたシーラが、セツナと競技試合で戦ってみたいと言い出した結果、訓練を行うことにしたのだ。訓練よりも試合が良い、とシーラはいったものだが、セツナは試合よりも訓練を行いたかった。主であるセツナの意見が優先されたのは、当然のことだ。
果たして、セツナは点を取られ続けた。手数でも一撃の威力でもシーラが勝った。シーラの膂力は、その見た目からでは想像もつかないほどに強烈で、身体能力もセツナの上をいった。一勝できただけでも御の字というのは、慰めでも何でもないのだ。
「仕方ないのではございませんか? 御主人様は武装召喚師でございますもの」
「それをいうなら、俺も同じだぜ?」
シーラがにやりとする。彼女も同じだ。生粋の武装召喚師という意味ではなく、召喚武装を使う戦士という意味において、まったく同じといってよかった。もっとも、召喚武装の使い手としての時間も経験も彼女のほうが上のようだが。
実際の戦場における戦功の差は、単純に召喚武装そのものの力の差といっていい。
「あー、そういえば、そうでございましたね。では、御主人様が単純に駄目駄目だったということで解決にございます」
「にこやかにいうんじゃねえっての」
セツナは、レムの笑顔を横目に睨むと、木剣を肩に担いで訓練室の隅に向かった。訓練室は広い。そんな広い空間の真ん中に立っているのは、妙に落ち着かなかった。レムが追い打ちをかけてくる。
「不機嫌様にございますね」
「るせえ」
「しかし、一年前はもっと駄目駄目様じゃったのじゃろ? だとすれば、十分強くなったということではないのか?」
ラグナが頭の上からいってきた。従者のひとりと一匹は、どうやら様をつければなにをいってもいいとでも思っているのかもしれない。
「一年前は素人だったっていうんだ。そりゃ、十分以上に強くなってるさ」
「信じられませんが」
「本当にな」
レムとシーラの発言は、ふたりがセツナの秘密を知っていることに由来するものだ。セツナは、従者であるレムとラグナには無論のこと、私兵部隊の隊長を務めるシーラにも、自分の素性を教えている。知っておいてもらう必要があると判断したのだ。この世界の常識から外れた存在であるということを認識しておいてもらうことは、大事だ。特に、身の回りにいる人達には。
伝えたのは、このイルス・ヴァレとは異なる世界から召喚された存在であり、召喚されるまでは、剣を取って戦ったことすらない人生を送っていた、という程度の話だ。そこにミリュウが適度に肉付けしてくれている。
ミリュウは、相変わらず逆流現象の中で見たセツナの記憶をよく覚えていた。セツナの生まれ育った世界には皇魔やドラゴンのような怪物はおらず、この世界とは大きく異る風景が広がっていることもあれば、見慣れた光景を見ることもできる――というようなことまで、彼女はいっていた。確かに田園風景などは、この世界もセツナの生まれ育った世界も大きく変わるものではないが。
「……嘘はいってないからな」
「嘘ともいってねえっての。ただ、簡単には信じられねえって話」
「御主人様が異世界から召喚されたということも、召喚されるまでは実戦経験さえなかったということも、でございますね?」
「ああ。実戦経験もない人間が召喚武装を呼び出せたからといって、これほどまでの戦果を上げ、英雄と呼び讃えられるだなんて、お伽話もいいところだぜ」
シーラが呆れ気味にいった。彼女のいいたいこともわからないではない。戦闘の素人が凶悪な召喚武装を手にしただけで、熟練の戦士たちも形無しの活躍をし、あっという間に英雄と呼ばれるようになってしまったのだ。バカバカしいにも程がある、と思われたとしても、不思議ではない。もっとも、シーラの声音に嫌悪感や不快感が混じっているようには聞こえなかったが。
「……信じられんことでもないがの」
ラグナがぼそりといった。彼は、頭の上から首を伸ばして、耳元で囁いていた。
「あやつの召喚武装は異なる次元、時空とこの世界を繋ぐことができる。おそろしい力よな」
「あいつの召喚武装、知ってるんだな」
「もちろんじゃ」
ラグナがなぜか自慢気に肯定してくる。そのラグナ特有の反応を横目に見ながら、セツナは壁際に設置されていた椅子に腰を下ろした。訓練室には休憩用の椅子がいくつも用意されていた。
「そうか。そうだよな」
「なんの話だ?」
「こっちの話」
「御主人様と後輩がわたくしに隠し事だなんて、酷い話もあったものでございますね」
レムが口惜しそうにいってきたものの、彼女の態度からは悔しさは微塵も感じられなかった。彼女の過剰な演技からは、本音を見出すことは難しい。
「……あのなあ」
セツナがレムの言動を注意しようかと思ったその時だった。訓練室のひとつしかない扉が勢い良く開かれたかと思うと、なにものかが飛び込んできたのだ。
「セツナ様! 隊長! こちらにおられましたか!」
訓練室に飛び込んでくるなり叫び声を上げてきたのは、黒獣隊のクロナ=スウェンだった。
「クロナ? どうしたんだ?」
「なにかあったのか?」
「なにかあったのか、じゃないですよ!」
クロナ=スウェンは、こちらを睨んで、声を張り上げた。
「アバードから、ラーンハイル様の手のものが姫様に報せを持ってきたということです!」
「ラーンハイルの?」
シーラが椅子を倒すほどの勢いで立ち上がった。
ラーンハイルという名には聞き覚えがあった。
ラーンハイル・ラーズ=タウラル。
タウラル要塞一帯を領地とする、アバードの領伯だったはずだ。そして、シーラの無事だけを想い、行動に移した人物でもあった。
嫌な予感がした。