第九百四話 流れ落ちるように(三)
龍府は、広い。
それこそ、ガンディアの王都ガンディオンの倍以上の面積を有する大都市中の大都市だ。
クルセルク戦争のまっただ中、彼は遷都を考慮したことがある。ガンディアの支配地が増えるに従って、ガンディオンは、相対的に、首都には相応しくない大きさになってきているのではないか、という想いが膨れ上がりつつあった。このままガンディアが領土を拡大し続ければ、各地から流入する人々の数に王都が耐え切れなくなるのは、目に見えていた。
王都の人口は、この一年で激増している。
王都ガンディオンは、ガンディアという大国の中心だ。王宮があり、王家が君臨する都市である。新たに支配地となった国や地域のひとびとの中から、その中心都市に移住しようとするものが続出しても、不思議ではないことなのだ。もちろん、王都は王家のお膝元だ。安易に移住できないよう配慮されてはいる。そうでもしなければ、各地からの移住者で王都が許容しきれなくなって破裂してしまうだろう。
遷都を考慮し始めたのは、そういう事情があったからだが。
『ガンディオンはガンディアの首都であり、象徴でもあるのだ。安易に遷都などできんよ』
レオンガンドは、彼の提案を考慮するまでもなく一蹴したものだが。
レオンガンドの意見を尊重するのは軍師として当然ではあったが、彼の主張もまた、わからないではなかった。獅子の国ガンディアの首都を龍の国ザルワーンの龍府とすれば、国民から非難轟々だろう。龍府の人々もまた、受け入れ難かったに違いない。
彼はレオンガンドの意見を受け入れ、遷都を考えることすらやめた。すぐに王都そのものを巨大化するという考えに切り替え、クルセルク戦争終結後には第四城壁の建造を開始させた。幸い、カイン=ヴィーヴルが精も根も尽き果てるほどの力を使って作り上げた岩壁は撤去しきっておらず、それを元にして、ガンディオンの第四城壁が作られる運びになった。新市街ができあがれば、きっと、各地からの移住者が続々と王都を訪れ、ガンディオンは小国家群最大規模の都市となるだろう。
龍府よりも人手で賑わうのも目に見えている。
「わたしにも翼があればいいんですが」
「翼の生えた軍師殿なんて、怖くてたまりませんが」
「違いない」
ナーレスは、ルウファの歯に衣着せぬ物言いが好きでたまらず、ついつい声を上げた笑った。
彼はいま、龍府の遥か上空にいた。もちろん、ナーレスの背に翼が生えているわけではない。ルウファ・ゼノン=バルガザールと彼の召喚武装シルフィードフェザーのおかげだった。ナーレスは、ルウファの背に掴まり、肩越しに龍府を見下ろしていたのだ。
五龍塔が小さく見えるほどの高度は、古都の全景を見渡すことを可能にしてくれる。何百年もの昔に成立したという大都市は、それほどの昔に作られたとは思えないほど完璧に近く整備されていた。計画的に作り上げられているのだ。王都ガンディオンよりも何倍も精緻で、何十倍も複雑な開発計画。行き当たりばったりなガンディオンと比べること自体がおこがましいというほかないのだが。
「しかし、どういう風の吹き回しです? 空を飛んでみたいだなんて」
ルウファが不思議そうな顔でこちらを見た。実際、不思議だったのだろうし、不満もあったのかもしれない。ナーレスが彼に頼み込んだのは、彼がエミル=リジルと龍府の散策に出かけようという直前だったからだ。エミル=リジルは《獅子の尾》専属の軍医助手だが、同時にルウファの恋人でもある。ルウファにとってはかけがえのない女性であり、いずれ結婚する予定だという。
『式には絶対呼びますから』
ルウファの何気ない一言が、ナーレスの耳朶に残っている。彼とエミルの結婚式はきっと壮麗なものとなるだろう。なにせ、バルガザール家は、ガンディアの名門中の名門だ。数多の騎士を輩出し、将軍を歴任している。そしてガンディア史上初の大将軍は、バルガザール家の現当主だ。ルウファはその二男とはいえ、押しも押されぬ《獅子の尾》の副長にして王宮召喚師である。彼の結婚を祝福するものは、王宮関係者だけでも膨大な数となるだろうことは、想像に難くない。
しかし、その光景をナーレスが目にすることはないのだ。それが、少しばかり、辛い。
「じきに地の獄に堕ちる身です。天に昇る気持ちを味わってみたいじゃないですか」
「はい?」
「いえ、こちらのことです。単純に、龍府の全体図が見てみたかったのです」
ナーレスは、少しばかり慌てて訂正した。ルウファにまで、自分の死のことを伝える必要はなかった。彼にそこまで背負わせる必要はない。彼は、十二分に色々なものを背負っている。背負わせてしまった。すべて、ナーレスの独断によるところが大きい。レオンガンドの意思の与するところではないのだ。
ナーレスは、ルウファを暗殺者に仕立ててしまった。ラインス一派の殲滅は、ガンディアを正常化する上で必要不可欠なことであったとはいえ、彼の手を汚してしまったことに違いはない。ナーレスには、彼に闇を背負わせた責任がある。かといって、なにができるわけでもないのだが。
ルウファは、まったく気にしている風ではない。ナーレスに対しても、屈託なく接してくれている。以前となんら変わらない態度は、ルウファという人物の人柄を示しているのかもしれない。エミル=リジルが彼に惚れるのも、わからないではなかった。
「図面や情報だけでは、全体像は見えませんからね」
「なるほど。それで、上空から眺めて見ての感想はどうです?」
「なにもかも想像以上といったところですね」
ナーレスは、当り障りのない感想を述べながら、胸中では別のことを考えていた。
(都を移すには相応しくはなかったか)
龍府は、確かに広く、美しい都だ。古都と呼ばれるだけのことはあるし、ザルワーンという大国の首都には相応しい都市ではあるのだ。景観に不備もなければ、交通面でも大きな問題はなさそうに見える。完璧に整備された町並みは、住み慣れるまでは迷路同然だろうが、それはどのような都市でも同じかもしれない。問題は、拡張性のなさだ。これほど完璧な町並みに手を入れるのは、不可能に近い。ガンディオンのように外部に新市街を建設するというわけにもいくまい。数百年前の町並みとまったく別の市街が生まれ、その不均衡は、この古都の景観を破壊してしまうだろう。せっかくの観光都市、観光資源
をみずから手離す必要はない。
そういう意味でも、龍府一帯をセツナの領地にしたのは、間違いではなかった。奇貨も得た。その奇貨はじきにガンディアにとっての朗報をもたらすだろう。
(ひとの不幸を喜ぶのが、軍師の役割だ)
ナーレスは、自分の想像力の凄まじさに苦笑を浮かべた。そして、その想像通りに動く世界にも、苦笑せざるを得ない。視えているのだから仕方がないとはいえ、だ。
「しかし、この古都を隊長の領地にしちゃってよかったんですかね?」
「ガンディアの直轄地のままでも問題はなかったんですが、それはつまり、セツナ様の領地となっても問題はないということと同義でして」
「そうなんですか?」
「ガンディアの領土は広がり続けています。龍府のひとつやふたつくらい、直轄地じゃなくなったところでなんの問題もありませんよ」
「龍府ですよ?」
「ザルワーンの首都であったとしても、数百年の歴史を誇る古都であったとしても、いまやガンディアの一地方都市に過ぎませんよ。もちろん、価値がある都市だということは明白ですし、重要な拠点であることも疑いようがないんですが」
龍府は、ザルワーン方面最北の都市でもある。アバード、イシカ、シルビナとの国境にも近く、いずれかの国が攻め寄せてきた場合、戦場となる可能性が高く、また、いずれかの国に攻め込む場合には最重要拠点として利用されるのは間違いなかった。そのため、軍備もほかと比べれば増強されている。そのひとつが、《獅子の尾》といってもいい。《獅子の尾》は王立親衛隊、つまりはレオンガンドの親衛隊であり、その役割はレオンガンドの意思に従うことだが、セツナを隊長とする戦闘集団という側面も持っている。セツナいるところに《獅子の尾》の隊士たちが集うのもまた、必然だった。
もっとも、現状、セツナたち《獅子の尾》が龍府に集っているのは、《獅子の尾》が長期休暇に入っているからに他ならないのだが。
「故にこそ、セツナ様に相応しいというべきかもしれません」
「そういうもんですかね」
「そういうもんです」
ナーレスがルウファの言い様を真似すると、ルウファはしばらく沈黙した後、微妙な表情をした。
「……軍師殿、最近、なにかあったんです?」
「なにがですか?」
「随分くだけてきたような……」
「もうぼろぼろですから」
「はい?」
ルウファにはナーレスの冗談はまるで通じなかったようだった。ナーレスは胸中で苦笑すると、眼下を見下ろした。龍府の町並みは見飽きるほどに見渡している。
「さて、そろそろ降りましょうか」
「そうですね。なにやら北門が騒がしいですし」
「ほう」
「軍師殿にはわからないかもしれませんがね」
ルウファはそういって、小さく笑った。いかに軍師ナーレスといえど、武装召喚師の眼や耳には敵わないということが、彼にはおかしかったのかもしれない。確かに視力も聴力も常人と変わらないのが、ナーレスの限界だ。その点、武装召喚師は、召喚武装を手にしてさえいれば、常人とは比べ物にならない身体能力や五感を得ることができる。ナーレスの目に見えないものも見えるし、耳に聞こえない音も聞こえるのだ。それが武装召喚師の恐ろしいところだった。およそ通常では考えられないような方法で戦術を破壊してしまうからだ。
その強大な力をも完全に制御し、戦術に組み込むことこそ、ナーレスたち参謀局の役割であり、それができなければ戦術は瞬く間に破綻するだろう。
ひとには得手不得手がある。
武装召喚師には、確かに超人的な力があるが、彼らには戦場を支配することはできない。戦場を破壊することが精一杯だろうし、彼らの役割としてはそれでいい。それで十分だ。戦場を制御し、思うままに動かすのは、軍師の役割であり、戦術家の役割なのだ。
それに、ナーレスの目には、ルウファの目に見えないものが視えていたし、ルウファの耳に聞こえない音が、ナーレスの耳には聴こえていた。
それこそ、武装召喚師と軍師の違いといってもいい。
そしてそれによって、ナーレスは時の動きを感じた。