第九百三話 流れ落ちるように(二)
「そしてもうひとつ、予想だにしない出来事があった」
それも、つい先日のことだ。
先日、つまり五月五日といえば、セツナの誕生日だが、誕生日そのものは予想外のものではない。
彼の誕生日を祝うために各地から訪れたガンディア軍関係者も、ナーレスが予想していた人物ばかりだった。ジゼルコートからセツナの誕生日祝いにと大量の馬が届けられたのも、想定した通りだった。セツナがその返礼になにを送るのかはわからないが、それによって世間が感じるのは、ふたりの領伯の関係の良さだ。
ジゼルコートは、誕生日祝いの贈り物をすることによって、ふたりの領伯の関係が良好であることを主張したのだ。それは、ガンディアの政情を安定させる上でも重要なことだ。たったふたりの領伯だ。どちらも権勢を誇っており、ガンディアの双璧をなすといっても過言ではない。武の領伯と文の領伯と世間はいう。そして、世間はこうもいうのだ。文武の領伯が揃っている限り、ガンディアは安泰だ、と。
実際、その通りだ。
政治家として並ぶものがいないほどの手腕を持つジゼルコートがガンディアのために力を尽くしている限り、ガンディアは安泰なのだ。しかし、ここのところ、ジゼルコートの周囲が怪しいというのもまた、事実であり、それが悩みの種でもあった。
ジゼルコートには、ベノアガルドの諜報員を招き入れていたという事実がある。
アルベイル=ケルナーという偽名を使っていたベノアガルドの諜報員の正体は、不明のままだ。ジゼルコートに問い質したところで、ベノアガルドの人間である以上のことはわからないの一点張りだった。本当に知らないのかもしれないし、知っていてなにかを隠しているのかもしれない。あるいは、ジゼルコート本人ではなく、周囲の人間が関わっているのかもしれない。いずれにせよ、ジゼルコートの周囲には、常に監視の目を光らせておく必要があった。
「それ、わかりますよ!」
「ドラゴンのことですよね?」
「あー、俺がいおうとしたのにー」
「いいじゃないですか、たまには」
「たまには、っていつもじゃないですか!」
「いつもって、そうでしたっけ?」
「……そう。ドラゴンのことだ」
ナーレスは、ふたりのやり取りに笑い声を上げたくなるのを我慢して、肯定した。ふたりは、鏡写しのようでありながら、ときには姉弟のような口喧嘩を始める。仲が良いのだ。切磋琢磨する間柄ならばあるまじき仲の良さかもしれないが、ナーレスは、ふたりにそのような関係を求めてはいなかった。無論、才能を刺激し合い、互いに伸ばし合うのは歓迎なのだが、かといってその結果、険悪な関係になられても困るのだ。ふたりには、今後のガンディアを背負ってもらわなければならない。
軍師は、前線には立たない。後方にあって、兵士たちの命を使って勝利を掴むための策を練り、実行させる。実行に移すのは、前線の兵士であり、将である。自然、身を切る思いで戦う将兵と軍師の間には溝が生まれる。軋轢が生じることだって、ありうる。そういうとき、ふたりの軍師まで啀み合っていれば、どうなるものか。ふたりまでも足の引っ張り合いを始めれば、国が立ち行かなくなるのは目に見えている。
だから、ふたりには、仲のいい姉弟で在り続けて欲しいのだ。
「セツナ様からの説明によれば、ラグナシア=エルム・ドラースという名前だそうですね。長過ぎるからラグナと呼んでいるそうですが」
アレグリアが笑ったのは、セツナの名前もまた、長過ぎるからだろう。セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルド。今後、セツナが活躍を続ければ、さらに長くなるかもしれない。長くなりすぎて、短くなるという可能性もある。たとえば、ザルワーン方面一帯の領伯となれば、セツナ・ゼノン・ラーズ=ザルワーンとなるからだ。もっとも、そんなことがあるとしても、随分先の話にはなるだろうし、ザルワーン全域を彼の領地にするということはなさそうではあるが。
(そこは陛下の判断次第だ)
ナーレスの死後のことは、レオンガンドが上手くやるだろう。彼は、人の意見に耳を貸す天才だ。自分が持っていないものを他人で補うことができる。彼は賢君にはなれないかもしれないが、名君にはなれるだろう。
「元はもっと巨大で、水龍湖の森を半壊させるほどの力を持っていた、とか」
「転生竜ともいっておられたな」
「なにがなんだかよくわかりませんけどね」
「たしかにな」
ナーレスは、エインの言い様に声を上げて笑った。確かに、彼の言うとおり、なにがなんだかよくわからない存在ではあった。ドラゴン。ワイバーン。転生竜。何万年もの昔から何度となく転生を繰り返してきた存在であり、圧倒的な力を持ちながらもセツナに敗れたために彼の下僕と化した怪物。信じられない話ではあったし、ナーレス自身、耳を疑い、目を疑ったものだった。しかし、現実に小さな竜の姿をした怪物は存在していて、それは人語を解するだけの知能を持っていた。口も達者であり、人間と口論を交わす程度には語彙も豊富だった。そして、そのドラゴンが本来、凄まじい力を持っているというのは、セツナのみならず、ファリアやルウファの証言でも明らかだった。そんな怪物がセツナの下僕となったのだ。不思議なこととしか言い様がないのだが、かといって喜ぶしかないのもまた、事実だ。
「いずれにせよ、セツナ様の元には多大な力が集っている。《獅子の尾》だけでも十分すぎるくらいの戦力となった、ということだ」
「なるほど、だから参謀が必要なんですね」
「だからといって、どうしてエイン室長なんですか」
アレグリアがめずらしく不服を口にしたのは、彼女もまた、セツナという人材に並々ならぬ感心があるからにほかならない。彼をどのように運用すれば最も効率よくてき戦力を殲滅できるか。彼ほどの戦力を余すところ無く使うにはどうすればよいのか。アレグリアを含め、参謀局の人間は、そんなことをよく考えた。セツナほど研究材料にうってつけの人材はいないのだ。もっとも、アレグリアとエインがセツナに関心を抱いているのは、ふたりが参謀局の人間だからということでもなさそうではあったが。
「以前も説明した通り、そこは得手不得手の問題だ」
ナーレスは、アレグリアの目を見て、告げた。
「君は防戦に長けている。セツナ様率いる《獅子の尾》は極めて攻撃的な部隊だ。君の手には余るかもしれない」
エイン=ラジャールは、違う。
彼は、セツナの殺戮に魅せられた人間だ。自分の同僚が殺されていく中で、黒き矛のセツナという人間に魅入られ、狂気に堕ちたのが、エインという少年だった。彼は、セツナの熱狂的な信者になった。それこそ、セツナ自身が唖然とするほどの熱狂ぶりであり、セツナ研究で彼の右に出るものはいないと行っていいだろう。そして、セツナの運用に関しては、エインには既に実績があった。ザルワーン戦争において、エインは黒き矛のセツナという重要戦力を巧みに操り、バハンダールを陥落せしめ、魔龍窟の武装召喚師たちを撃退している。また、ザルワーンの守護龍をセツナとクオンのふたりだけに任せきることになったのも、エインの発言によるところが大きいという。
セツナのことならば、彼に任せるのが良いとナーレスは判断した。
「そんな君だからこそ、見識を広める上でも、ガンディア軍全体の指揮を取ってみてもらいたいのだ」
「……それこそ、わたくしひとりの手には余るのでは?」
アレグリアが弱気にいった。彼女は、臆病だった。臆病故に知恵が湧き、防衛のための戦術が無数に湧くというのがアレグリア=シーンという人物の特性といってもよく、だからこそ、彼女には前線ではなく、後方を任せたいと考えるのだ。前線には、無謀なほどの蛮勇を持つエインこそ相応しい。もっとも、勇敢すぎて死なれても困るのだが、セツナの側に配置している限り、彼が無意味な死を遂げることはありえないだろう。そういう意味でも、エインはセツナの側に置いておきたかった。
「君には、大軍を指揮する器がある。安心したまえ」
とはいったものの、エインにその才能、器がないかというと、そうではない。ふたりともに備わっているのだ。だからこそ、ふたりをして軍師の後継者に任じた。性質の異なるふたりに同じだけの器が備わっているということには、喜びを禁じ得なかった。ふたりならば、ナーレスの役割を見事に引き継いでくれるだろう。そうなれば、ガンディアの将来は安泰というほかない。
「はあ……」
「ガンディア軍の将来は、アレグリア室長の活躍にかかっているわけだ」
「エイン室長、他人事みたいに言わないでくださいよ」
「だってー、俺は、《獅子の尾》専属ですし」
「……君は、《獅子の尾》専属ではあるが、参謀局の所属であることに変わりはない。アレグリア君の必要に応じて、参謀局に戻ってもらうこともある」
「それはわかってますけど」
「ならばいいさ」
ナーレスは、エインの口ぶりに微笑を返した。エインがたじろぐのを見てから、アレグリアの表情を見る。ふたりとも、きょとんとした顔で、こちらを見ていた。なぜ、そんな顔をしているのかも、わかる。ナーレスがあまりにも優しい表情をしているからだろう。ナーレス自身、腑に落ちないところがある。
どうして、こうまで慈しみの情が湧くのだろうか。
ふと、つぶやく。
「……君たちには苦労をかけるな」
「なにをいうんですか」
「そうですよ。この程度、苦労でもなんでもありませんよ。局長のこれまでに比べたら、なんてことありません」
「わたしのこれまで……か」
アレグリアの言葉を反芻する。
これまでの人生を振り返れば、艱難辛苦の連続だったのは疑いようがない。そのことをアレグリアはよく知っている。アレグリアは生粋のガンディア人で、ナーレスについてはエインよりも詳しい。もっとも、ナーレスはこれまでのことをエインにも伝えていたし、参謀局にとって必要と思われる情報は、文書にして残していた。その文書を読み返すだけで、だいたいのことはわかるだろう。軍師の後継者には最低限の文章からなにもかもを読み取れるだけの想像力も必要だ。
(これまで……)
胸中で、再び反芻する。
これまでの人生。ガンディア王家に忠誠を誓い、ガンディアのためだけに才知を注ぎ、魂を焼き尽くすつもりで戦い抜いてきた。そのことに後悔はない。あるとすれば、毒を盛られたことに気づけなかったことだが、それさえも悪いことばかりではなかった。毒を得、命が限られたからこそ、後継者の育成に時間を割くことができたのだ。これがもし、ナーレスが健康体のままザルワーン戦争を終え、ガンディアに復帰していたとすれば、状況は大きく変わっていたことは疑いようがなかった。エインやアレグリアを重用こそすれ、参謀局の立ち上げには思い至らなかったかもしれない。
ナーレスは、残された時間の少なさから、自分の使命を知ったのだ。自分がガンディアのためにできることとはなにか。明確なものになった。ひとつは、情報の保存、共有。ナーレスが軍師として、戦術家として考え抜いてきた戦術、策を保存することで、ガンディアの将来にとって重要な意味を成すだろう。ひとつは、後継者の選定と育成。自分の死後、自分の代わりを勤め上げられるだけの人材を探しだすことこそ、最大の懸案事項だったが、幸いにも後継者はふたりも見つかった。そのふたりを育成し、また軍師としての成果を保存し、将来的に役立てるために、参謀局を立ち上げた。
なにもかも、死を感じたからできたことだ。
ナーレスは、ふたりの後継者を見つめながら、言葉を続けた。
「これまでは、わたしの時代だった。だが、これからは、君たちふたりの時代だ」
「局長?」
「突然、どうしたんですか」
「突然ではないよ。ずっと、こうだった」
ザルワーンの土牢の中にいるときから、だ。
死を身近に感じていた。
「何度もいってきただろう。わたしには時間がない、と。あれから半年以上。よく持ったほうだ。本当に、よく持ってくれた。この体も、この命も、持ち堪えてくれた」
ナーレスは、自分の手を見下ろした。病的なまでの青白さからは生気を感じ取ることはできない。いかにも死者の手だった。これを生きている人間の手だと言い張るのは無理があるのではないかと思うほどであり、死神の化身に抱かれているのではないか、などと妻に笑われた。笑わなければやっていられなかったのかもしれない。それくらい、この手もこの体も、病んでいる。死に蝕まれている。
実感がある。
「あと、一月も生きられるものかどうか」
告げると、エインもアレグリアも言葉を失ったように硬直した。そんなふたりを愛おしく思うのは、やはり、死期が目前に迫ってきているからだろう。でなければ、ここまで他人を愛せなかったのだ。
「なに、ガンディアには君らがいる。君らは、わたしの自慢の部下だ。君らがいる限り、ガンディアの将来は安泰だ。なんの心配もない」
欺瞞でも何でもない。
彼は、心からそう信じていた。わずかばかりの不安を払拭するためにに、これまでの時間をふたりのために割いてきたのだ。彼らに軍師ナーレス=ラグナホルンを継承させるために、残された時間の大半を割り当てた。
「それに、まだ一月あるのだ。死ぬまで、走り続けてみせるさ」
あと一月足らず。
できることといえば、限られている。
だが、できることがあるということは、幸福以外のなにものでもない。
まだ、走ることができるのだ。