第九百二話 流れ落ちるように(一)
「まさかシーラ姫がセツナ様を頼ってくるとは想いもよりませんでしたよ」
「それ以前に、アバードがそこまでのことになっているだなんて」
「まあ、そうだろうね」
ナーレス=ラグナホルンは、彼の部屋に集まった部下たちの反応に微笑を浮かべた。
ナーレスは、龍府に到着してからというもの、天輪宮飛龍殿の一室を自分の部屋のように扱っていた。無論、龍府の支配者たる領伯から貸し与えられた部屋だ。好きなように使っていいし、自分の部屋のように使ったところで、だれも文句はいえないはずだ。たとえ一日中部屋に閉じこもっていたとしても、なんら問題はない。もっとも、そんなことができる身分でもないのだが。
単純に時間がない。
時間さえあれば、妻とふたりきりの時間をいつまでも満喫していたかったが、あいにく、そういうことを許される状態にはなかった。
王都への凱旋から今日に至るまで、十二分に満喫したともいえるのだが。
(もう少し、遊んでいたかったというのが本音だが)
とはいえ、ただ遊ぶだけではない。彼は、メリルを連れて歩き回ることによって脳が活性化されるらしいという事実をつい最近発見したのだ。脳が活性化されることにより、戦術や策が無数に沸き上がった。妻との時間を満喫しながら軍師としての仕事も捗るのだ。まさに一石二鳥とはこのことであり、だからこそ、彼はメリルを連れてどこへでもいった。
そして、ガンディアの将来にとって必要な策、戦術であれば文書化し、記録に残した。
それが彼の休暇の過ごし方だった。
その休暇もそろそろ終わらなければならない。レオンガンドから与えられた日数はまだまだあったが、休暇日数を消費している間に死んでしまっては、笑い話にもならない。
故に、彼は折よく龍府に集まっていた参謀局の面々を自室に招集したのだ。折よく、とはいうものの、参謀局の幹部たちが龍府に集まることは、ナーレスにとっては想定の範囲内の出来事ではあった。《獅子の尾》専属となったエイン=ラジャールは無論のこと、ガンディア軍専属のアレグリア=シーンが、セツナの誕生日を逃すはずはなかった。
ふたりとも、重度のセツナ信者だった。
(それはわたしも同じかな)
ナーレスは、机を挟んで対座するふたりの顔を見ながら、胸中で想った。彼もまた、セツナという少年に魅了されている。もちろん、セツナの人格などに魅了されているわけではない。彼と黒き矛の実力、圧倒的戦闘力にこそ、魅力を禁じ得ない。
セツナほど、軍師や戦術家にとって重要な題材はなかった。
黒き矛のセツナという圧倒的戦力をどうやって封殺するか――参謀局の幹部が集まって話し合うことがあるとすれば、それだ。セツナをどう扱うか、どう運用するかは、大した問題ではない。どう扱おうが、どのように運用しようが、順当に成果を残すのがセツナという存在だ。もちろん、ガンディア最大の戦力である彼の運用方法についての議論も面白いのだが、彼らの頭をうならせるのは、いつだってその対策だった。
ガンディア軍の現有戦力で、どうすればセツナを沈黙させることができるのか。
そんなことばかりを考えているのが、参謀局なのだ。
「だろうね、って局長はわかってたんです?」
エインが驚いたような顔をした。今年十七歳になる少年は、その年齢からは考えられないほどの才知を持っている。ナーレス自慢の部下のひとりだが、彼の才能を見出したのは、残念ながらナーレスではない。彼をログナー方面軍の軍団長に引き上げ、才能を周知させたのは、右眼将軍アスタル=ラナディースだった。アスタル=ラナディースといえば、ログナーが誇る女傑にして飛翔将軍と謳われた人物だ。ザルワーンに入り込むべくログナー制圧に尽力したナーレスにとっても印象深い人物であり、ガンディア復帰後の彼を歓迎したひとりが、アスタルだった。アスタルにとってナーレスは最悪の敵であり、故に最善の味方になると踏んだようだ。
エイン=ラジャールを参謀局に引き入れたいと打診したとき、アスタルは手を打って喜んだものだった。自分が見出した才能がナーレスに認められたことが嬉しかったのかもしれないし、エインには軍団長よりも戦術家のほうが合っているということを知っていたからかもしれない。いずれにせよ、アスタル=ラナディースが、エインの才能を見抜き、その力を周囲に認めさせるため、軍団長に推薦したのはガンディアの将来にとって重大な出来事だったのは間違いない。
エインほどの才能であっても、一兵士、一部隊長の身ではどうすることもできない。結局、その才能は数多の人材の中に埋もれてしまっただろう。
「ああ」
「ああ、って。どういうことなんですか?」
今度は、アレグリアが怪訝な顔をした。アレグリア=シーンもまた、ナーレスにとって自慢の部下のひとりだった。こちらは、ナ―レスが才能を見出したといっても、問題はない。彼女をガンディア方面軍第四軍団長に推薦したのは、ほかならぬナーレスだったからだ。最初に注目したのは、類まれな剣術の使い手だったからだが、次第に彼女の部隊の運用法に目を奪われていった。巧みな指揮は、彼女に戦術家としての才能があることを匂わせ、報告書に記された情報量の多さ、わかりやすさは、彼女の才能に確かな裏付けがあることを伺わせた。そういったことから、ナーレスは彼女を第四軍団長に推薦したのだが、これが当たった。
ザルワーン戦争におけるガンディア方面軍第四軍団の活躍といえば、ナグラシア防衛戦しかない。ナグラシアは、ガンディアとの国境付近に位置するザルワーンの都市であり、ザルワーン戦争においてはガンディア軍の補給路として機能した重要拠点だった。万が一ナグラシアが落とされでもすれば、ガンディア軍は立ち行かなくなったかもしれない。それほどの重要拠点をアレグリア率いる第四軍団に任せたのは、正解だった。
アレグリアは巧みな戦術で、ザルワーン軍の襲撃からナグラシアを守りきり、ガンディア軍の勝利に大いに貢献した。彼女を参謀局に入れることに問題はなかった。
そんなふたりの才能と対峙するのは、ナーレスにとってこの上なく幸福だ。ふたりの部下。ふたりの才能。ふたりの後継者。彼は、自分が持ちうるすべてを、エインとアレグリアに継承させようとしている。ふたりだけのために時間を割くのもそのためだったし、三人で顔を突き合わせて議論を戦わせるのも、ふたりの思考力を鍛えるためだった。
ナーレスによって鍛えられたふたりは、ガンディアの将来にとってなくてはならない人材となるだろう。どちらも軍師としての才能に満ち溢れている。だが、性格も性質も異なるふたりには、ナーレスのすべてを受け継ぐことはできまい。
だから、ふたりの担当を分けた。
攻撃的な戦術を得意とするエインには、《獅子の尾》とともに最前線に赴かせることで、その才能を存分に発揮させることにした。彼は将来的に外征の要となるだろう。
臆病で、防戦を得意とするアレグリアには、ガンディア軍全体を担当することで、視野を広げさせることにした。彼女は将来的に国土防衛の要となるだろう。
後継者をひとりに絞る必要は、なかった。特にエインとアレグリアの関係が上手くいっているのなら、わざわざ競わせ合うことはない。得意分野を伸ばし、不得意な部分は補い合えば良い。そういうことを無意識的にできるのが、エインとアレグリアの良さであり、彼らを後継者に選んだ理由でもあった。まったく色彩の異なるふたりだが、故に馴染み、支え合うことができている。
「視えるんだよ。不思議とね」
「見えるって、なにがです?」
「まさか、アバードの混乱がシーラ様の身の危険に繋がることまで、見えていたんですか?」
「ああ。視えていたよ」
ナーレスが肯定すると、後継者たちは茫然として、互いの顔を見やった。そんなふたりを見ていると、実によく似ているのがわかる。性別、年齢、性格、性質、なにもかも異なるというのに、その挙措動作はまるで鏡合わせのようだった。ふたりなら、なにごとも上手く乗り越えていくだろう。そう予感させた。そして、予感は確信となる。確信が、安堵を生む。
「なにもかも、視えていた。アバードが門戸を閉ざしたときから、こうなることはわかっていた」
「だから、セツナ様に龍府を推したんですか?」
「ああ、そういえば、そんな話もありましたね」
エインが問えば、アレグリアが手を打つ。ふたりの後継者の反応が一々面白くて、ナーレスは笑みを隠し切れない。笑うようなことではないこともわかっているのだが。
「……そうだよ。シーラ姫がアバードから脱出したとして、頼れる国があるとすればガンディアくらいしかない。かといって、ガンディア政府に伝があるわけでもない彼女には、ラーンハイル伯の知人であるスコット=フェネックに匿ってもらう以外にはない」
「そこまで……」
「わかっていたっていうんですか……」
「さらにいえば、だ。セツナ様が龍府の領伯となれば、その長期休暇を利用して龍府を訪問することも想定の範囲内の出来事だ。そして、シーラ姫も、セツナ様になら接触するだろいうということも、ね」
たとえば、セツナ以外の人間が龍府の領伯になったとしていたら、シーラは姿を隠したままだっただろう。そのまま、別の機会が訪れるのを待ち続けていたに違いない。それがどれほど辛いことであったとしても、信頼の置ける相手以外には姿を見せることなど出来るわけがないのだ。
つまり、シーラはセツナを信頼しているということだが、彼女がなぜそこまでセツナを信頼しているのかまでは、ナーレスにはわからない。ナーレスに視えたのは、彼女の行動だけであり、心の奥底まで覗き見れるわけではない。そして、そんなことができるのならば、ナーレスはもっと積極的に行動しただろう。
「とはいえ、予想外の出来事もあったが」
「予想外の出来事?」
「シーラ姫が出てくるのが、早かったということだよ」
「なるほど」
「もう少し、悩んでから行動すると想ったいたんだが、どうやら相当追い詰められていたらしい」
そういってから、追いつめられるのも当然だろう、とも思い直した。
シーラは、もっとも信頼していた祖国に裏切られたのだ。