第九百一話 彼女の宿命(四)
「父は、星を掴むような夢を持っていたわ」
彼女の声音は、穏やかだった。
これまで、ミリュウが自分の父親を語る際、憎悪や殺意がむき出しにされていたものだが、いまは鳴りを潜めている。
「本当に、馬鹿げているくらいに遠い星を掴もうとしていたのよ。手を伸ばしたって、背伸びしたって、飛び上がったって、だれかの背に乗ったって届かない星を、精一杯、掴もうとしていた」
ミリュウは星空を見上げたようだった。今夜、夜空は晴れ渡っていて、数多の星々が綺麗に見えていた。ただ、通路には屋根があるため、ミリュウの位置から見えるのかはわからない。
「父は、リヴァイアの血の呪いを克服しようとしたのよ。呪いを克服し、ただの人間に戻ること。それがレヴィアから受け継がれてきた願いだったから、望みだったから、それを叶えようとした。そのためならどんな犠牲も厭わなかった。他人だけじゃない。自分自身さえも研究材料にして、解剖した。そうでもしなければやっていけなかったんだと想う。そうでもしないと、狂ってしまいそうだったんだと想う」
ミリュウの声は、苦しそうに揺れていた。
「リヴァイアの血の継承はね、知の継承でもあるのよ」
「知……」
「そう、知。レヴィアから続く血の継承者の記憶もまた、受け継ぐことになるの。膨大な量の知識、数多の記憶、無数の光景、様々な感情……そして、絶望。血が肉体に順応していくたびに、知もまた、体に順応していく。血と知の順応。肉体は、不老不滅になるわ。肉を切り裂き、骨を砕き、脳を破壊し、心臓を潰しても、死ななくなる。死ぬほどの痛みを感じでも、死ねなくなる。肉体が損壊したとしても、復元してしまう。恐ろしい呪いよね。そんな呪いをかけられる聖皇っていったいなにものだったのかしらね」
ミリュウの疑問は、セツナの疑問でもある。
レヴィアたち六将が聖皇を裏切ったのも故あってのことなのだろうが、そのひとつが、聖皇の常軌を逸した力だったという可能性も大いにあった。聖皇は、大陸統一を成し遂げた人物だ。異世界の神々を召喚し使役したという。神の力が圧倒的だということは、セツナは身を持って知っている。そんな絶対的な力を持つ化け物たちを召喚し、平然と操っていたのだとすれば、聖皇自身が強大な力を持つ存在だったとしか考えられない。そもそも、不老不滅の呪いをかけられるという時点で、規格外というほかない。
神に等しい力を持っていたのではないか。
でなければ、他人を呪っただけで不老不滅の存在にすることなどできるわけがない。
「……でも、精神は、違う」
彼女は、頭を振った。つらく、苦しそうな声なのは、変わらない。
「肉体は不老不滅でも、心は、常人と変わらなかった。心まで強靭なものになっていたのであれば、きっとレヴィアは死ぬ方法を探したりもせず、不老不滅の呪いが受け継がれることもなかったのよ。でも、そうではなかった」
ミリュウの言葉がセツナに訴えかけるのは、聖皇の呪いの凄まじさとリヴァイアの血族に課せられた運命の重さだ。想像するだけで胸が締め付けられるほどに苛烈で、壮絶だった。
「レヴィアは二百年、生きたわ。二百年生きて、周囲との時の流れの差に絶望した。絶望が、彼に死ぬ方法を探させた。つまり、呪いを解く方法ね。でも、彼が探し出せたのは、問題の解決を先送りにする方法でしかなかった。それが、血の継承者による殺害。レヴィアは曾孫の手にかかって死んだわ。そして、曾孫が血を受け継いだ」
人間は、長寿を願う。短命よりも長命を、望む。五十年では足りない。百年、いや、百五十年、二百年――もっと、もっとと願い、欲しがる。だが、それが現実化すれば、レヴィアのように想うのかもしれない。親しい友や仲間、家族が死んでいく中で、自分だけが生き続けるのだ。最初のうちは、それでも堪えられるだろう。しかし、それが数百年も続けば、常人には耐えられないかもしれない。
死ぬことを望むかもしれない。
そこまで考えて、疑問が生じる。
「オリアスが、ミリュウにやらせようとしていたことだよな」
「ええ。そうよ」
「でも、だとしたらおかしくないか?」
「……うん」
「オリアスは、呪いを克服する方法を探していたんだよな? だったら、どうして、問題を先送りにする方法を取ったんだ?」
セツナの問いに、彼女は目を伏せた。しばらくして、口を開く。
「探しだせなかったのよ」
「でもさ、不老不死、不滅なら、時間はいくらでもあるだろ」
「ええ。あるわよ。時間なら、たっぷり」
「だったら……」
「でも、普通の人間には、耐えられないのよ。たった数十年でも、ね」
ミリュウの声は、深く、重く、水底に沈み込んでいくかのようだった。それを聞いているセツナの意識さえも、遥か水底に落ちていくかのような感覚を帯びた。
「レヴィアの代から受け継がれてきた膨大な量の記憶が、頭の中を埋め尽くしていくのよ。そこには数多の知識もあって、それが様々な面で手助けになることもある。けれど、他人の記憶、他人の感情、他人の想念によって意識を塗り潰され続けたら、それは地獄よ」
セツナの記憶の逆流によって大きく影響を受けたミリュウが言葉にすると、きわめて強い説得力があった。彼女も、地獄を味わったのかもしれない。しかし、彼女は狂わなかった。それは、狂うほどの情報量ではなかったということなのかもしれない。狂わなかったとしても、影響を受けているのは確実だった。
彼女は、逆流現象の結果、セツナに依存するようになってしまった。逆流現象など起きなければ、彼女がここにいなかったかもしれないのだ。
「父も、普通の人間だった。普通の、呪われた人間だったのよ。それでも超然としていた。そうするほかなかったから、そう振舞っていただけ。馬鹿よね。強がっていたのよ、ずっと」
セツナが見たオリアス=リヴァイアといえば、征竜野の戦いでの圧倒的な姿だった。鎧型の召喚武装を身に纏った彼は、《蒼き風》を始めとするガンディア軍を相手に凄まじいまでの力を見せつけていた。その戦いの中からは、彼が狂っているかどうかなどわかるはずもない。ひととなりがわかるような戦いでもなかった。
「強がって、苦しくないふりをしていた。ずっと苦しかったはずなのにね。でも、そうでもしなければやっていられなかったんだと想う。数多の記憶、無数の声に意識を蝕まれていく中で、それでも自分を見失わないようにするには、ほかに方法がなかったのよ、きっと」
ミリュウは、オリアスの気持ちさえも理解してしまったのかもしれない。だから、憎悪や殺意が消え失せたのかもしれない。彼女はいった。記憶を受け継いでしまった、と。記憶を受け継いだということは、オリアスの感じていた苦痛や悲哀をも理解できたということではないのか。だから、彼女は、自分の身に起きたことのように語るのだ。
「父は、そんな中で解決策を探し続けた。呪いを克服する方法を、呪いを解決する手段を、探し求め続けた。でも、自分自身が狂っていくのを止められないこともわかっていたから、発狂し、壊れる前に、自分を殺す手段も用意していた。それがあたし」
彼女は、どこか自嘲気味に笑った。ひどく空疎な笑みは、彼女の心情のほどを伝えてくるかのようであり、セツナは胸を締め付けられる思いがした。
「父にとっての最終手段だったのよ。あたしを使って、自分自身の生を終わらせるのは。本当なら、自分の研究成果によって呪いを克服し、普通に死ねることを望んでいた。でも、できなかったから、解決手段が見つからなかったから、狂っていく自分を止めるための手段を用いるほかなかった」
「既に狂っていたのか……?」
「それはわからない。あたしが天輪宮で遭ったときは、狂っているようには見えなかった。でも、そう見えただけかもしれない。父の意識はとっくに狂気に支配されていたのかもしれない」
ミリュウは遠くを見ていた。おそらく、記憶の中の父の面影を見ていたのだ。天輪宮で見たオリアンの顔を思い出していたのだ。
「父は、解決策を見つけることはできなかった。それでも、呪いの克服のためにできることはやったのよ。それが、記憶の召喚。父は、自分で解決策を見出すことに固執しなかったわ。というより、できなかった。時間がないものね。いずれ狂ってしまうから。そのときになってからでは遅いから、あたしのような手段を用意する一方で、別の手段も用意した。それが、記憶の封印。レヴィアの呪いによって受け継がれる記憶を別の場所に封印しておくことで、継承者への負荷を減らそうと考えたのよ」
「記憶の封印……」
「父は、自分が受け継いできた記憶の大部分を魔方陣に封印したのよ。そうすることで、つぎの継承者――あたしが発狂するまでの時間は稼げる。父の研究成果だけでも受け継げば、発狂するまでに解決策が見つかるかもしれない。見つからなくとも、また、記憶を封印し、つぎの代に託せばいい。そうやって、何百年でも時間をかけていけば、いずれは呪いを克服することができる。それが父の望み。父の願いだった」
「その記憶を継承してしまった……?」
「うん……父は、記憶の封印装置にある仕掛けを施していた。それは、自分の死後、リヴァイアの血族のみに解放できる仕掛けだったの。なぜそんなことをしたのかもわかっている。もし、何百年経っても解決策が見つからなかった場合、記憶の源流を辿りたくなるものがいるかもしれないから、封印した記憶を紐解く手段を用意していた。まさか父も、あたしが、呪われた血を継承することもなく、記憶だけを継承するだなんて考えもしなかったでしょうね」
彼女が自嘲気味に笑った理由は、セツナには想像もつかない。そもそも、いま、彼女がなにを考えているのかさえ想像の範疇にはなかった。膨大な記憶を受け継いでしまった彼女は、もはやセツナの知っている彼女ではないのかもしれない。そんなことはない、とは言い切れない怖さが、彼女の言動に見て取れた。
「記憶だけを継承してしまった。数百年に渡る記憶。ただそれだけを。でも、それでよかったのかもしれない。あたしが死ねば、この記憶は消えてなくなる。あたしと一緒に、ね」
「ミリュウ……」
「……いまは、まだいいのよ。受け継いだ記憶の大部分があたしの手の届かないところにあるわ。でも、時が経ち、記憶が体に順応していけば、どうなるかわからない。膨大な量の情報が頭の中に流れ込んでくれば、あたしだって、自分を見失うかもしれない。これまでの継承者のように、父のように、発狂するかもしれない」
ミリュウの目が、闇の中でもよく見えた。わずかに揺れている。濡れている。泣いているのだ。苦しんでいるのだ。しかし、セツナはいま、彼女に触れることさえできなかった。そんなことをすれば、彼女の決意を台無しにしかねない。覚悟を踏みにじってしまう。
「そのときは、お願い」
彼女は、静かに、しかし確かな声で告げてきた。
「あたしを殺してね、セツナ」
「そんなこと……」
「できるはずがない、なんて、いわないでよ。あたしは、狂って、壊れて、化け物に成り果てるなんてごめんだから、さ。そんな姿をセツナに見せたくないもの。もちろん、理性があるうちに死ねたら、って想うけど、でも、死ねないと想うんだ」
ミリュウが悲しそうに笑った。死ねない。死ねるはずがない。だれだってそうだ。自分の命を終わらせるなんてこと、そう簡単にできるわけがない。彼女の気持ちは理解できる。理解できるからといって、納得できるかどうかは別問題だ。
「だから、俺に殺せっていうのか」
声が、拳を握った手が震えていた。
できるわけがない。
わかりきったことだ。
(できるわけがないだろ、そんなこと)
でも、いえない。その言葉は、彼女に封殺されてしまった。できるわけがないのに、そういえない。胸が詰まる。苦しい。空気を求めた。それでなにが解決するわけでもない。問題を先送りにできるわけもない。彼女は目の前にして、セツナのことを見つめている。セツナが覚悟を決めてくれることを、望んでいる。
「ごめんね」
「なんで謝るんだよ。なんで、なんでさ」
「ごめん……」
「謝るなよ。謝らないでくれ」
謝るなら最初からそんなことを頼むなよ――とは、いえなかった。彼女の思いが痛いほど伝わってくるから、これ以上の言及はできなかった。
そして、約束も、できなかった。