第八百九十六話 五月五日・セツナの場合(十五)
「騒々しい一日だったな」
セツナは、頭の上に置いていた小龍を片手で掴むと、ワイバーンが身動ぎするのも構わず、そのまま寝台の上に腰を下ろした。それから、ワイバーンを枕の上に置く。小飛龍は、まるで伸びをするように翼を広げた。竜の口からあくびが漏れる。ドラゴンもあくびをする生き物らしいということは、これまでの彼の行動で判明している。ドラゴンという極めて強大な力を持った生き物でありながら、どこか人間臭い言動が見受けられる彼のことだ。あまり参考にはならないかもしれない。
「ほんにのう」
ラグナシア=エルム・ドラースと名乗る飛龍は、枕の質感が気になったのか、長い首を巧みに折り曲げて頬ずりしていた。
セツナは、そんな不思議な生き物を見ているとどっと疲れを覚えるとともに、ここが異世界なのだということを思い知らされもした。彼は、どう見たところで化け物だ。人外異形の怪物であり、神話や伝説にでも出てきそうな外見をした存在だ。現在こそその本来の姿から万倍もかけ離れた愛嬌のある外見をしているものの、彼が力を蓄え、成長した暁には、一時は黒き矛を圧倒し、武装召喚師と死神の連携をも耐えぬいたあの狂暴な姿へと変貌するのは疑いようがない。
そんな怪物が目の前にいて、普通に口を利いているという現実を目の当たりにすれば、ここが自分の生まれ育った世界とはまったく異質の世界であるということを実感せざるを得ない。
もちろん、そんなことは百も承知だ。一年近く、この世界の空気を吸い、生きてきた。数多の化け物を目の当たりにし、あの世界には在らざる光景、ありえない戦いを乗り越えてきた。ラグナよりも余程巨大なドラゴンと死闘を繰り広げ、神と名乗る存在とも接触した。わかっているのだ。この世界は自分の生まれ育った世界ではない。異世界。イルス・ヴァレと呼ばれる天地。ワーグラーンと呼ばれる大陸。小国家群と呼称される地域。ガンディアという国。龍府という都市。
そんなことはわかりきっている。
それでも、ドラゴンという存在に対しては、特別な目で見てしまうのがセツナなのだ。それは、生まれ育った世界で得た数多の知識が抱かせる感情であり、しかたのないことでもあった。そして、ドラゴンがこの世界でも特別な存在だということは、龍府への道中、ファリアの説明によって明らかになっている。
ファリアがドラゴンについて解説してくれている間、ラグナはふんぞり返っていたものだ。
「一番騒がしかったのはおまえだよ」
セツナが告げると、ドラゴンは枕に埋めかけていた頭をもたげ、こちらを見上げてきた。宝石のような目が愛くるしいといえば、愛くるしい。
「わしがなにをしたというのじゃ」
「なにもしなかったとでもいうのかよ」
「むう」
「むうじゃねえ、むうじゃ」
「御主人様は不機嫌様じゃの」
ワイバーンは翼を広げると、一足飛びに枕からセツナの膝の上に跳躍した。そして、まるでご機嫌取りでもするかのように太腿に頬ずりをしてくる。セツナは、そんなラグナの反応に嘆息するよりほかなかった。
人間を見下す事この上ないのがラグナなのだが、彼はなぜか、セツナの下僕と成り果てていた。戦い、負けたからというのだが、どうにも腑に落ちないところがある。
「おまえ、本当にいったいなんなんだよ」
つぶやいて、セツナは背中から寝台に倒れこんだ。真夜中。魔晶灯の光に照らされた室内で、寝台の天蓋の内側だけが、宇宙の闇のような暗がりを生んでいる。ラグナが再び翼を広げたのが音でわかる。彼が飛膜を広げると、りいんという耳心地のいい音が鳴った。飛翔するための力かなにかを発散している音なのかもしれないし、別の理由で発生する音かもしれない。いずれにせよ、普通の生物が発生させるような音には聞こえなかった。
「いうたじゃろう。万物の霊長ドラゴン。その中でも天を支配するものワイバーン。そして転生竜。そしてラグナシア=エルム・ドラース。それがわしじゃ。おぬしのせいで生まれたての赤子同然の力しかないがのう」
天蓋の暗闇を、ラグナシア=エルム・ドラースなどという長たらしい名前の小龍が泳いでいく。エメラルドのような鱗と外皮は、それそのものがわずかに発光しているらしく、その淡い光の美しさに一瞬目を奪われた。セツナは無意識に両腕を伸ばし、両手で飛龍の体を包み込んでいた。ラグナは特に抗う様子も見せない。包み込んだまま、目の前まで持ってくると、ラグナの大きい目もまた、光を放っているように見えた。受光ではなく発光。他の生物とドラゴンの違いのひとつなのかもしれない。
「俺のせいっていうなよ。おまえが襲いかかってきたからだろ」
「あ、あれは仕方がなかったのじゃ。わしにはおぬしのような人の子を襲う趣味などありはせぬ。だいたい、生物の頂点に君臨する我らドラゴンが、おぬしらのようなか弱い存在に手を出してなんになるというのじゃ」
ラグナは傲然と言い放ってきたが、彼に襲いかかられたのは事実以外のなにものでもない。確かに、彼の言にも一理ある。ラグナは、セツナが黒き矛の力の大半を解放しなければ倒せなかったほどに強力で凶悪な存在だった。そんな存在が人間や他の生物への干渉を良しとしていれば、人類が大陸の支配者のように振る舞うことなどできなかっただろう。皇魔よりもドラゴンを天敵と認定しているか、とっくにドラゴンによって滅ぼされているかのどちらかだ。
ラグナは、何百年、何千年も生きている転生竜だという。武装召喚術が開発され、流布された現在とは異なる数百年の昔ならば、ラグナだけで人類を滅ぼし尽くせたかもしれない。
だが、人類の歴史は続いている。むしろ、ドラゴンの存在のほうがあやふやだ。実在しているのかどうかさえ不明で、人類の脅威として認識されている風でもない。それもこれも、ドラゴンが人類やほかの生物をか弱い存在と認識し、手を出してこなかったからに他ならないのではないか。
「じゃあなんでだよ」
「それはじゃな……」
「わたしが命じたからだよ、セツナ」
「うおっ」
背後から聞こえた声に、セツナは意識が真っ白になるほどの衝撃を覚えた。見ると、手の中の飛龍まで驚いている。
「び、びっくりさせるでないわ!」
「セツナはともかく、なぜおまえまで驚く」
理解できないとでもいうような声は、どこか艶めいていた。聞き知った女の声。十数時間前、ワイバーンをけしかけてきた魔人の声だ。怒気を発する飛龍を抱えたまま左を見ると、布団の中から赤い髪の魔女が上体を覗かせていた。ずっと隠れていたのか、ゲートオブヴァーミリオンの力で布団の中に転移したのか。いずれにせよ、心臓に悪いことこの上なく、セツナは彼女を睨んだ。無論、彼女はセツナに睨まれた程度で動じるような相手ではないが。
アズマリア=アルテマックス。
「わ、わしも驚くことだってあるわ」
「……気を抜いていたな?」
「む……」
「ふふふ……ラグナシア=エルム・ドラースほどのドラゴンをわずか数時間で手懐けるとは、さすがはわたしのセツナだ」
アズマリアは、いつものように笑いながら、布団の中から這い出してくる。燃え盛る炎のような紅蓮の髪が、セツナの鼻先で揺れた。魔人の顔が、寝台に仰向けに寝転がったセツナの先にあった。
「だからあんたのじゃねえって」
「そこに拘るな」
「拘るね」
「……まあ、いい」
「よくねえよ」
「それでは話が進まんぞ?」
魔人は笑う。その傲然たる笑みは、アズマリア=アルテマックスに相応しいものかもしれない。ふとそんなことを思ったのは、彼女のことを決して嫌ってはいない自分を認識してしまったからだ。
もちろん、彼女がしてきたことは許せるものではない。ファリアの父を殺し、母を奪ったという事実は、セツナにアズマリアへの猜疑心を抱かせ、敵意さえも覚えさせるものだった。
そもそも、アズマリアを味方と認識することは不可能に近い。最初の出逢いからそうであったように、セツナは彼女によって窮地に追い込まれてばかりだった。王都では皇魔をけしかけられ、エンジュールでは異形の戦士との戦いを強いられた。そして今日、龍府では、ワイバーンとの戦いを仕向けられている。
信用のできる人物では、ない。