第八百九十五話 五月五日・セツナの場合(十四)
泰霊殿は、天輪宮の中心部といっていい。
紫龍殿、飛龍殿、双龍殿、玄龍殿という龍の名を冠する四つの殿舎とは異なる名称からもわかるように、泰霊殿は天輪宮の建物群の中でも特別な位置づけにあるという。かつてはザルワーン国主と国主によって許可を得たものだけが立ち入ることが許された空間であり、神秘と謎に包まれた領域でもあったらしい。
龍府の中にある聖域とでもいうべき領域は、セツナが領伯となり、天輪宮の主となったいまでも、神秘性を失っているわけではなかった。セツナとセツナの許可を得た人間以外立ち入ることができないというのは、五竜氏族が支配した時代の風習を継承したということになっている。
そんな泰霊殿の広間には、セツナ以外に複数の人間が屯していた。《獅子の尾》の隊士たちが勢揃いであれば、セツナのひとりと一匹の従僕もいる。領伯近衛・黒獣隊の面々もいれば、領伯近衛・黒勇隊の幹部たちも顔を揃えていた。エンジュール司政官ゴードン=フェネックは、龍府司政官ダネッジ=ビューネルとの会合のためにこの場にはいなかったが。
本日付で《獅子の尾》専属となったエイン=ラジャールと彼の三名の部下もいるし、参謀局のもうひとりの室長、第二作戦室長アレグリア=シーンの姿もあった。彼女は、部下を連れて来ていない。
アレグリア=シーンといえば、ザルワーン戦争で頭角を現した軍団長のひとりだ。彼女が素晴らしい戦術で敵軍を撃退したナグラシア防衛戦はいまでも語り草となっている。そこに戦術家としての才能を見出したナーレスによって参謀局への転属を打診された彼女は、迷うことなく参謀局に移ったらしい。軍団長として采配を振るうよりは、後方で戦術を構築するほうが性に合っているというのがその理由だという。
「はあ……」
そんな彼女が、エインとミリュウのやり取りを見やりながらため息を浮かべているのが、セツナには気がかりでしょうがなかった。セツナが彼女を気にかけるのは、アレグリア=シーンがエイン=ラジャールに負けず劣らずなセツナ信者だという話を聞いていたからだ。それがただの噂話であったとしても、そんな話を耳にすれば、気にならないわけがない。
「アレグリアさん、どうかしたんですか?」
セツナがマリアに小声で尋ねたのは、マリアがアレグリアと親しいということを聞いていたからだ。アレグリアがセツナ信者だという話も、マリアから聞かされたはずだ。
マリアはアレグリアの頭を撫でながら、苦笑を浮かべた。
「この子、ガンディア軍勤務だからさ」
「なにか問題なんですか?」
セツナが問うと、アレグリアが目線を向けてきた。どこか物憂げなまなざしには、得も言われぬ色気がある。
「わたくしも、《獅子の尾》勤務が良かったんです」
「そうなんですか?」
セツナは多少の驚きを以って、アレグリアを見た。彼女は、少しばかり気恥ずかしそうに目線を落としている。その恥ずかしげな態度がまた、色っぽい。マリアがそんな彼女をからかうようにいった。
「アレグリアも隊長殿に惚れてるからねえ」
「え?」
といって反応したのは、ミリュウだが。
アレグリアが慌ててマリアに反論する。
「あ、あの、マリア姉さん、そういうことではなくて、ですね?」
「隊長殿の側で働きたいって、ずっといってたじゃないか」
「そ、それはそうなんですが」
「そうなんだ?」
「そうなんですよ、隊長殿。この子、寝ても冷めてもセツナ様、セツナ様ってうるさいのなんの」
「マリア姉さん、もう、やめて……」
真っ赤になった顔面を両手で覆うアレグリアの様子は、幼い少女のようですらあった。そんなアレグリアを愛おしそうに見つめるマリアの目はいかにも優しい、マリアがアレグリアを実の妹のように可愛がっているという話は、本当なのだろう。
そんなふたりを遠目に眺めるのが、ミリュウだ。
「……参謀局はなに、あたしのセツナをどうしたいわけ?」
「まあ、参謀局にしてみれば、セツナ様をどう運用するかについて議論を交わすのは、日常茶飯事ですから、自然、セツナ様のことばかり考えるのも仕方ないかと」
エインが当然のように言うと、アレグリアがものすごい勢いで頷き、エインの部下たちも首肯して同意を示した。
「なるほど……そういうことなら仕方ないわね――ってなるか!」
ミリュウは叫び、足刀を繰り出してエインの胴を狙う。だが、エインはそれを完全に見きっていた。
「甘い! その程度、予測の範囲内ですよ!」
後ろに飛んでかわしたエインの動きは、とても戦術家の身体能力には思えない。彼は元々、ログナーではアスタル=ラナディースの親衛隊の隊士だったのだ。飛翔将軍の親衛隊が非力な少年に務まるはずもなく、彼の身体能力が実戦に耐えうるものだということは明らかだった。アスタル=ラナディースは彼の参謀局入りを残念がったというのだが、それは彼女が彼の実力を知っていたからなのだろう。
もっとも、ミリュウのような生粋の武装召喚師に比べれば一段も二段も劣る動きだ。ミリュウが本気を出せば一瞬で終わるだろうことは、セツナの目にも明らかだった。もちろん、こんなところで本気で戦うほど、ミリュウは愚かではない。ただ、戯れているだけだ。
「くっ、やるわね……さすがは未来の軍師候補!」
「ふふふ……これが将来ガンディアを背負って立つ男というものです」
「残念、ガンディアの将来を背負って立つのは、あたしのセツナよ!」
「残念ながら、セツナ様は俺のものです!」
「なにをー!」
「なんですー!」
鋭く繰り出された拳が空を切り、薙ぎ払うような蹴撃が天を舞う――まるで演武でも始めたようなふたりを遠目に見遣りながら、セツナはだれとはなしに問いかけた。
「えーと……あいつら、なにやってんだ?」
「さあ?」
レムが首を横に振る。さすがの彼女でも理解不能といった様子だった。
「なにやら、宿命の対決じみてきました……!」
「室長が楽しそうなので問題はないんですが」
「わたしも混ざりたいな……」
エインの三人の部下たちは、エインとミリュウの攻防に興奮気味だったが。
そんな様子を見たからか、レムが、セツナの前に出る。
「……なるほど、理解しました」
「なにがわかったんだ?」
「わたくしも混ざれ、ということですね?」
「なんでそうなる」
「さあ?」
レムがこちらを見て、にこりと笑った。いつもの笑顔だが、今日の笑顔はいつも以上に輝いて見えることが多い。こういう騒々しさが彼女には楽しいのかもしれない。彼女のこれまでの人生を振り返れば、こういう大騒ぎとは無縁だったのも頷けることだったし、いまこそ精一杯楽しもうという彼女の考えもわからなくはなかった。
だからセツナも彼女に好き放題させるし、なにかを押し付けようとも思わなかった。彼女を再蘇生したのはセツナだ。責任がある。
「はいはい、大騒ぎはそこまで」
ファリアが、ミリュウの足とエインの拳を受け止めた。唖然とするふたりに対して、彼女は半眼を向けた。
「もう夜中よ。良い子は寝る時間でしょ」
「良い子って」
「あら、あなたたち、悪い子なの?」
「子供じゃないっていってるのよ」
「あら、悪い大人? なら、成敗しないとね」
ファリアは、ふたりの手足から両手を離すと、軽く構えてみせた。仰天したミリュウがファリアに駆け寄る。
「ファリアどうしたのよ」
「眠たいのよ」
ファリアがひどく冷ややかな声で告げる。確かに、彼女の顔には疲れが見えていた。ファリアやミリュウたち《獅子の尾》の面々は、セツナが起床するより早く行動を開始していたのだ。それもセツナの誕生日を祝うためであり、セツナはそのことを思うたびに感動を禁じ得ない。
「ああ、そういうことね。ごめんなさい」
「じゃあ、お開きということで……いいわよね、セツナ?」
「なんで俺に聞くんだよ?」
セツナが問い返したのは、単純に疑問に思えたからだ。すると、ファリアがあきれたような顔になるのだから、セツナとしてはたまったものではない。
「今日の主役はセツナでしょ」
「そうそう。それに、この地の支配者様だもの。意向を伺わないと、後でなにされるかわかったものじゃないわ。なにされてもいいけど」
「ミリュウ」
「あ、はい、ごめんなさい。もう寝ます」
「よろしい」
ファリアとミリュウのやり取りはいつもの如くであり、日常が戻りつつあることを実感として認識する。誕生日会という大騒ぎはこれで終わるのだ、少しばかり寂しくもあったが、しかし、嬉しさや喜びのほうが大きい。今日という一日で、セツナは多くのものをもらっている。物品だけではない。想いも、だ。
「わかったよ、お開きってことで、よろしく」
「領伯様もそう仰られておりますので、皆様、今夜の宴はこれにて終了ということでお願い致します」
ファリアが恭しく告げたことで、誕生日会の二次会とでもいうべき騒ぎは幕を下ろした。《獅子の尾》隊士一同を始め、泰霊殿の広間に集まっていた人々は、各人に用意された部屋へと散っていった。セツナも自室に向かった。部屋の前までレムがついてきたが、部屋に入る前に別れた。
途端に、静寂が訪れた。誕生日会の喧騒も、二次会の大騒ぎも、いまや昔の話のように思えた。
ふと時計を見ると、午後十一時も半ばを過ぎていた。
五月五日もじきに終わる。
長く、騒がしい一日だった。