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第八百九十三話 五月五日・ルシオン(五)

「だからといって、兄上まで黙られるのもどうかと想いますが」

「……ああ」

「こういうときにこそ、兄上は率先して民の前に出るべきです。皆、兄上のことを父上、母上の次に敬っているのですから」

「カールのいうとおりだぜ。兄上は将来のルシオンを背負っていかなきゃならないんだからな」

「わかっている。わかっているとも」

 ハルディールも、ハルカールも、ハルベルクが次期国王になることを了承している。むしろ、ハルベルクでなければならないと思っているようなところがある。ふたりとも、兄に甘えているのだ。昔からそうだったし、それを悪いとは思わなかった。ハルベルクになら任せられるという信頼があるからにほかならない。信頼されているという確信は、力になった。

 いまは、力が必要だ。

 ルシオンを今日まで導いてきた偉大なる国王が、その生涯を終えようとしている。

 ハルワールの死は、国難となるだろう。

 ハルワールという指導者を失ったルシオンは、一時的に纏まりを失うはずだ。いかにハルベルクが臣民の支持を得ているとはいえ、英雄的指導者の喪失という衝撃は、きわめて強烈だ。混乱が起き、そこに付け入るものたちが現れるのもまた、火を見るより明らかだ。

 特に南が騒がしい。

 ウリド・ウラム、ウォズンといった国々が、ルシオン領土への侵攻を日々企んでいるという話が、ハルベルクの耳に入ってきている。かの国々は、おそらくハルワールの身に何かが起きているということまで掴んでいるはずだ。

 ハルワールが倒れ、半年余り寝所に籠もったままだということについては公表していない。情報統制は徹底していて、国民は愚か、多くの軍人、文官も知らないはずだった。王宮内で仕事に従事している人間の過半数も知らないだろう。国王の寝所がある区画だけが、この絶対的なまでの沈黙に包まれている。

 同盟国であるガンディアにさえ伝えていなかった。情報はどこから漏れるものかわかったものではない。細心の注意を払う必要があった。

 それでも、情報は漏れているだろうという確信がある。

 どれだけ秘匿したところで、一時のクルセルクのように国境を完全に封鎖し、情報を完璧に制御することができなければ、どこからともなく漏洩するものだ。各国の諜報員や工作員が王宮内に潜んでいるという可能性も皆無ではない。無論、王宮で働く人間の身辺は常に調査しているし、他国の工作員を検挙することも少なくはないのだが、それで万全かといわれると首をひねるところだ。

 情報を制御することは、きわめて難しい。

 そして、一度漏洩した情報を堰き止める手立てはない。

(国難……か)

 ハルベルクの脳裏に浮かぶのは、隣国であり同盟国であるガンディアのことだ。ガンディアは一年以上前、同じような国難に遭い、国土の一部を失っている。獅子王シウスクラウド・レイ=ガンディアが死に、その喪に服している最中にログナーからの侵攻があったのだ。ログナー軍は、見事バルサー要塞を陥落せしめ、ガンディア制圧の橋頭堡を築き上げた。

 歴史にもしもはないが、もしも、ログナー軍がバルサー要塞を拠点としてガンディア制圧に乗り出していれば、ガンディアはどうなっていたのだろう。ガンディアだけではない。ルシオンも、どうなっていたものかはわからない。ルシオンはガンディアの同盟国だ。国土の北部に防衛戦力を割く必要が生じ得ないのは、ルシオンの北側にガンディア領土が横たわっているからである。逆もまたしかりで、ガンディアは南の護りをルシオンの存在に頼っていた。

 そのガンディアがログナー・ザルワーン軍に敗れ去っていれば、ルシオンもたちまち攻め滅ぼされていたかもしれない。

 そんな仮定を考えるだけ無駄なのはわかっているが。

 考えたくもなるほど、ガンディアの躍進というのは順調で、奇跡的といってもいいほどのものだった。

 しばらくして、ハルベルクは話を切り出した。

「……ひとまず、義兄上に連絡を取ろうと思うのだが」

 室内には、ハルベルクとふたりの弟しかいない。広い部屋の片隅で三人の男が顔を突き合わせるように話し合っているのだ。傍から見れば、少し奇異な光景かもしれない。しかし、ハルベルクたちにとってはごく当たり前の光景だった。特にこの一ヶ月は毎日のようにこうして話しあう時間を設けている。ルシオンの今後について話し合うのだ。どれだけ時間を費やしても、なんの問題もなかった。

 卓の上に出されたお茶は、いつの間にか冷めてしまっている。ガンディアからルシオンに贈られたもので、南方産のお茶らしい。ガンディアには、南方の国レマニフラから度々贈り物が届けられる。中でもお茶が多いらしく、ガンディアはそのお茶を友好国に配り回っているらしい。レマニフラは、ガンディアの同盟国であり、また王妃ナージュの出身国でもある。レマニフラがガンディアに度々贈り物を届けるのもうなずける話ではある。

「レオンガンド陛下に?」

「もしものときのために、協力を取り付けておく必要があるのでな」

 もしものときのため、といったとき、ハルディールもハルカールも少しばかり沈鬱な目をした。覚悟はしていても、実際に話題にするとなると、刺さるものがあるものだ。

 もしものときとはつまり、ハルワールの人生に幕が閉じたときのことだ。

「どのような?」

「幸い、ルシオンはガンディアに数多の貸しがある」

 ハルベルクがそういっただけで、ふたりの弟は納得したようだった。

「なるほど」

「レオンガンド陛下が了承してくださるかどうか」

 ハルディールもハルカールも、ハルベルク同様、ハルワールの薫陶を受けて育った。聡明な父から多くのものを受け継いできたのだ。察しが良いのも当然だったし、だからこそ、ハルベルクはふたりの弟を信頼し、話し合うに足ると判断していた。

 ハルベルクは、レオンガンドのひととなりについては、ルシオン人の中でもっとも詳しいと自負していた。幼い頃からよく遊んだ仲だ。彼が“うつけ”を演じていたころもよく話し合ったものだし、だからこそ、レオンガンドとともに歩もうと想ったのだ。同じ夢を追い続けようとしたのだ。いつしか夢を忘れ、現実に追われるような日々を過ごしていたが。

「義兄上は情の深いお方だ。理性よりも感情で動くことのほうが多い。それは義兄上の美徳であり、弱点でもある……が」

 情が深いのは、なにもレオンガンドに限った話ではない。

 ガンディア王家の人間は皆、必要以上に情け深い人々ばかりだった。レオンガンドの父でありハルワールの親友であったシウスクラウドも、シウスクラウドの妃にして現在の大后グレイシアでさえも、そうだった。理性よりも感情を優先しがちなところがある。そしてこの場合の感情というのは、怒りや憎しみよりも、愛や慈しみといったものが大部分を占めており、故にこそガンディア王家は国民から敬愛されるのだ。これがもし、怒りや憎しみの感情に振り回されるような特徴であれば、国民からの支持も得られなかったかもしれない。

「この場合、そこを利用できる、と」

「利用というのは少し違うが……まあ、そういうことだ」

 ハルカールのいいようには多少の引っ掛かりを覚えたものの、ガンディア王家の性質を利用しようとしていることに変わりはない。

「ともかく、明日にでもガンディアに使いを出そう」

「明日にでも、ですか」

 ハルベルクの性急さにハルカールが驚いたようだった。ハルベルクは元来、何事にも急ぐような人間ではないということをよく知っているのだ。急がないということは、鈍いということと紙一重であり、そのことで弟たちや家臣たちをやきもきさせたことがあるのもまた、事実だ。だが、今回ばかりはそういってもいられない。

 ハルベルクは、弟達の目を見据えて、告げた。

「早ければ早いほうがいい」

「父上はそれほどまでに……?」

「……ああ。危うい」

「覚悟していたことではありますが……しかし」

「ああ……辛いな」

 ハルベルクは静かにうなずくと、椅子に背を預け、瞑目した。瞼の裏に浮かび上がるのは、痩せ衰えた父の姿であり、豪奢な寝台の中でゆっくりと、しかし確実に死に向かう男の有様だった。残された時間は少ない。ハルワール自身が理解できるほどに、その時間はわずかばかりのものとなってきている。

 父は死ぬ。

 そのあまりに非現実的な事実を目前に控え、ハルベルクは、苦しみを抱えるしかなかった。そして、自分以上に苦しんでいる妻のことを想った。リノンクレアもまた、ガンディア王家の特性を強く受け継いでいる。情け深く、他者への愛と慈しみに溢れた彼女は、ハルベルクの妃となって以来、義理の父となるハルワールを実の父のように慕い、敬い、愛していた。その愛情の深さは、実の家族であるハルベルクたち以上かもしれない。

 ガンディア王家の血とはそれほどまでに強烈で、美しいのだ。

 だからこそ、彼もまた、苦悩しているのだが。

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