第八百九十二話 五月五日・ルシオン(四)
バルベリドは、屋敷にいた。
屋敷内の訓練室でひとり汗を流していた。筋骨隆々の肉体は、彼が白天戦団長だという事実を裏付けるものといってもいいのかもしれない。
「術法研究棟を見に行っていたそうだな」
「はい。気になったもので」
「気になるか」
「はい」
バルベリドは、ハルレインに対して、厳格な父として振る舞った。義父と養子の関係なのだから当然のことだ。義理の父ともあろうものが彼に対してのみ口調を改めれば、なにかあるのではないかと勘ぐられる可能性がある。正体は、隠し通さなければならない。髪を染めたのもそのためだったし、屋敷の外を出歩くときは、仮面をつけていた。目元を覆う仮面は、醜い火傷の痕を隠すために身に着けている、と偽っている。そして、その火傷が原因で、バルベリドに引き取られたという物語が出来上がっていた。つまり、ハルレインは、元の父親に虐待を受けていた、という話になっているらしい。それはどうでもいいし、自分の正体を隠すためならばどんな嘘だって構わなかった。正体が明らかになることだけは、避けなければならない。
「武装召喚師になりたいそうだな」
「……よくご存知で」
「城内の出来事で知らないことはない。でなければ、白天戦団長など務まらんよ」
彼は、笑いもせずにいった。壁にかけていた手拭いを取ると、代わりに木剣を壁にかけた。バルベリドは、ルシオンが誇る剣士のひとりでもあった。尚武の国ルシオン。その精鋭軍団の指揮官は、並大抵の実力者では務まらないのだ。
そしてそれはそのままルシオンの王族の価値観でもあった。ルシオンの黎明期から今日に至るまで、ルシオンの王族とは、戦いとなればみずから戦場に出て指揮を取るものであり、王族みずから敵陣に切り込むことで全軍の士気を昂揚させるのが常套手段として知られている。ルシオンの王族は、戦えなければ王族の一員ではないとさえいわれるほど峻烈だった。
ルシオンには三人の王子がいる。ハルベルク、ハルディール、ハルカール。ハルベルクが勇猛な戦士だという話は、他国にも知られた話だ。ガンディアの戦いに駆りだされるのは、いつもハルベルクだからだが、かといってハルディール、ハルカールがハルベルクに劣っているかというと、そうではない。むしろ、ハルディールは、剛勇ではルシオンで並ぶものがいないといわれるほどだったし、ハルカールは弓の名手として知られている。
しかもハルディールは二十一歳、ハルカールは十九歳という若さだ。
剣の腕も確かで指揮能力に優れたハルベルクとともに、これからのルシオンを盛り立てていくだろうことは、疑いようがない。
「いまから学んだとして、おまえが実戦で役立つようになるのは十年、二十年先になる」
「そうなるでしょうね」
才能があれば話は別だ。が、自分に武装召喚師としての才能があるとは、とても思えない。それは、武装召喚術に限った話ではない。銀騎士に学んだ剣術も、ハルベルクにはまるで通用しなかった。結局、実戦と訓練は同じではないということだ。数多の死線を潜り抜けてきたハルベルクと、安穏たる訓練所で剣を学んできただけの彼では、剣を交える前から勝敗は見えている。それでも戦いを挑んだのだから、愚かなものだ。
敗れ、生かされた。
「十年、二十年先のことを見据えれば、それも悪くはないか」
バルベリドの発言は意外なもので、ハルレインはきょとんとした。
「義父上、それでは?」
「ああ。構わん」
「あ、ありがとうございます……!」
彼は、思いもよらぬバルベリドの言葉に、心が震える想いがした。感極まって視界がにじむ。目頭が熱を帯びていた。こんなことで感動してしまうほど、心が緩んでいる。それもそのはずだ。ある意味で一度死んでいるのだ。心のタガも外れよう。
ハルレインの反応が予想外だったのか、バルベリドは少し困惑したようだった。厳格な顔が多少、緩んでいる。
「なに、礼をいわれるほどのことではない。それに王宮召喚師殿には弟子志願者が殺到しているそうだ。その中にめずらしい物が好きな白天戦団長の養子がいたとしても、なんの不思議もない。ただそうなると、王宮召喚師殿が受けてくれるかどうかはわからんがな」
「それは……確かに」
「わたしから強く推薦しておくとしよう」
「義父上……!」
「わたしも、殿下のためならば身命を賭すつもりでいるのだ。おまえの気持ちは痛いほどわかる」
バルベリドが、右手を彼の肩に置いた、
「ともに、忠を尽くすのだ」
「はい」
彼は、力強く頷いた。
これが新たな人生の幕開けだと思った。
これまでは余生に過ぎなかったのだ。はからずも得た余生。残り火のようなか細い命は、すぐにでも燃えて尽きるものだと想っていた。しかし、セイラーンでの穏やかな日々は、彼に新たな可能性を芽吹かせた。新たな人生を歩むという可能性だ。
自分の命を救ってくれた大恩あるハルベルクのために、この人生を費やそう。
彼は、決意の中でバルベリドの目を見つめた。
白天戦団長の目は、戦友と見るそれだった。
王宮の一角は、静寂に包まれている。
沈黙といってもいい。
王宮内を包み込む空気そのものが凍り、硬直してしまったのではないかという錯覚さえ抱くほどに静かで、だれもが言葉を発することを拒み、物音を立てることすら恐れている。
そんな状況が、年明けからずっと続いていたという。
「兄上がいない間も、ずっと、こうでしたよ」
ハルカールが、その涼やかな目をことさらに細くした。
ハルカール・レウス=ルシオン。ルシオン国王ハルワール・レイ=ルシオンの第三子である彼は、ハルベルクの二番目の弟に当たる。彼は、今年で十九歳になる。その若さに似合わぬ落ち着きぶりがハルワールによく似ているといわれることが多い。弓の腕も父譲りだと騒がれており、その腕前は既にルシオンで並ぶものがいないほどだった。ハルワールいわく、自分よりも余程優れているというのだが、ハルカールは、まだまだ遠く及ばないと謙遜していた。
「仕方がないだろう。皆、父上のことを尊敬しているからな」
ハルディールが、ハルカールを一瞥した。ハルディール・レウス=ルシオン。ハルワールの第二子、つまりハルベルクの一番目の弟ということだ。ハルカールに比べると、筋力が優っていることが外見からも明らかだ。顔つきは、ルシオン王家の血を色濃く受け継いでいるが、体格は、ハルワールも羨むほどのものであり、ルシオン王家にはいなかった種類の人間だということで知られた。その類まれな体格こそ、彼の剛勇を支えるものであり、その剛力と勇壮さは、ルシオン王家の中でも白眉といっていい。
「父上がお倒れになられたのだ。沈黙もするさ」
「ああ、そうだな」
ハルベルクは、ハルディールの意見を肯定すると、小さく息を吐いた。クルセルク遠征からの帰国以来、こうして三兄弟で顔を突き合わせて話しあうことが多くなっている。それもこれも、彼らの父にして、偉大なる国王ハルワールが倒れ、寝所から一歩も出られない日々が続いているからだ。病ではないという。
老いによるものだとも、いう。
だとすれば、快方に向かわないのも無理のないことだ。
寿命が尽きようとしているのだ。
ハルベルクは、クルセルクからの帰国以来、その事実と向き合い続けてきた。ハルワールが倒れたという話を聞いた当初こそ動転し、目の前が真っ暗になったものだが、一月以上も経過すれば、受け入れることができるものらしい。
ハルベルクは、父の死を覚悟し、その上でルシオンの将来と向き合わなければならなかった。