第八百九十話 五月五日・ルシオン(二)
ひとが死ぬ。
ひとつの命が終わる。
ただそれだけのことだ。
だが、ただそれだけのことが周囲に与える影響というのは、その人間の成してきたことと大いに関係があるのだろう。
死ぬものがなにも成していなければ、周囲の人間や事物になんら影響をあたえることはない。ただ、ひとりの人間が死ぬというだけのことであり、そのことを悲しむものさえいないことだって十分に有り得る話だ。
その点、自分は恵まれているのだ、と彼は感じざるを得ない。
「わたしはなにも成さなかった」
だが、多くの人々が、彼の命の終わりを嘆き、悲しんでくれているらしい。
そのことは、なにも成し遂げられなかった人生の終わりを実感する彼にとって少しばかりの慰めとなった。
「そんなことはありません」
彼の嘆息に対して投げかけられる力強くも優しい声にも、ハルワールの心を安んじるに足る力があった。ハルベルク・レウス=ルシオンの声。息子の声。慈悲深く、情に厚いハルベルクは、ハルワールの三人の子供の中でもっとも彼の性質を色濃く受け継いでいるといっていいのだろう。性質だけではない。その立場と役回りも、受け継がせてしまった。
つまり、ガンディア躍進の一助を担うという立場であり、役回りだ。
ハルワールはシウスクラウドを支え、子のハルベルクは子のレオンガンドを支えた。シウスクラウドは大望を果たせず、ハルワールもまた、道半ばに死のうとしている。だが、ハルベルクは違う。レオンガンドの野望を叶えるため、力を尽くしてきた。いくつもの戦場で戦果を上げ、レオンガンドをして感嘆の声を挙げさせたのがハルベルクだ。
自慢の息子だった。
「そなただけよな。そのように、わたしの言葉を否定するのは」
ハルワールは、久方ぶりに笑った。闇に覆われかけた目ではハルベルクの顔をしっかりと見ることさえもかなわないが、それでも、彼は我が子の顔を見ようとした。闇の中、ハルベルクの姿は影のように揺らめいている。
ハルワールには、三人の子がいる。ハルベルク、ハルディール、ハルカール。皆、男児だった。子宝にも恵まれたということであり、そういう点では、幸福だったといわざるを得ない。王たるもの、後継者の数は多ければ多いほどいい。たとえ後継者が無能揃いだとしても、周りの人間がしっかりしてさえいえれば、国が悪い方向に向かうことはない、ルシオンは、そうやって歴史を積み重ねてきた。次期国王さえいれば、なんの問題もないのだ。
「たとえ尊敬する父であっても、偉大なる王であっても、間違ったことをしているのならば否定し、正しい方向に向かわせるのが子の務め、臣下の務めだと、父上に教わった次第です」
「よく……覚えているものよな」
「父上の教えこそ、わたくしのすべてでございますので」
ハルベルクの言葉には、淀みがない。その場しのぎの嘘ではないということだ。故に胸を打ち、心に響く。心に響く声は、幾重にも後悔を生む。彼ほどの人物をなぜ、もっと自由にさせてやれなかったのかと考えさせる。彼の人生を縛ってしまったのは、ほかならぬハルワール自身だ。
ガンディアに尽くすことが、いつからか、国是となってしまっていた。
「……そなたの声は、よく響く。よく、聞こえる。そなたの声だけよ。そなたの声だけが、わたしの耳に残るのだ」
ハルワールはつぶやいたが、ハルベルクはなにもいってこなかった。なにもいえなかったのかもしれないし、いうべき言葉が見つからなかったからかもしれない。いずれにせよ、ハルワールは、息子の声だけが自分に現実感を与えてくれているという事実を再確認したに過ぎない。
日に日に増大する暗闇の中、彼は星空ばかりを見ている。天蓋の内側に広がる宇宙。数多に輝く星々は、彼に自分の人生について考えさせるのだ。
彼の人生は、ひとりの男に捧げられた。
シウスクラウド・レイ=ガンディア。
ガンディアの若き獅子王と呼ばれた彼は、過去の英雄豪傑に並ぶほどの風格を持ち合わせながら、英雄になれなかった。
英雄になれぬまま病を得、倒れた。その病は、ザルワーンの国主マーシアス=ヴリディアの盛った毒が原因だとだれもが睨んでいたし、実際、その通りだったようだ。
シウスクラウドは、ザルワーンに挑み、敗れたのだ。
彼が病に倒れ、再起不能に陥ったことで、ハルワールの人生は終わったも同然だった。シウスクラウドという光を見失ったのだ。あれほど輝いて見えた世界は、途端に彩りを失い、影と闇に覆われてしまった。この世はなぜかくも残酷なのか。運命とは、なにゆえ、こうまで無残なのか。ハルワールは天を睨んだが、シウスクラウドの病状が改善されることもないまま、時間ばかりが過ぎていった。
英気を失ったハルワールの心を慰めたのは、息子たちの成長であり、中でもハルベルクの瞳の中に映る光は、彼に希望を抱かせた。希望は、心の支えとなり、彼を今日まで生かしてくれていたといっても過言ではない。そういう意味でも、ハルワールはハルベルクに感謝していた。ハルベルクがいなければ、ハルワールはとっくに死んでいたかもしれない。その場合、無念のまま死んだということになる。
自分の成してきたことが意味を成さぬまま死ぬというのは、無念以外のなにものでもない。
だが、いま死ぬのならば、自分の成してきたことに多少の意味があったのだと思える。
少なくとも、ガンディア、ミオンとの三国同盟は無意味ではなかった。ガンディアがこれほどまでに国土を広げることができたのは、ルシオン、ミオン二国との同盟があったればこそだ。ガンディア一国では、ログナーを制圧するのが精一杯だったに違いない。
ガンディアは、いまや小国家群随一といっていいほどの大国となった。それもこれも、ハルワールがシウスクラウドのために整えた舞台を、彼の息子ハルベルクが維持し、より良い環境に整えてきたからに他ならない。ハルベルクと、ガンディアの王女リノンクレアとの結婚も、ガンディアとの同盟をより強固なものとするためのものだった。ふたりの結婚によって、両国の紐帯はより深く、強くなった。
ルシオンという国自体、強くなった。ハルベルクがリノンクレアのために組織した白聖騎士隊は精強であり、たった数年でルシオンの華として知られるほどになった。ハルベルクとリノンクレアは、ルシオンに様々な面で好影響を与えていた。
それもこれも、ハルワールが成してきたことといっても言い過ぎではあるまい。
彼は、天蓋に広がる宇宙を見遣りながら、自分を納得させるように考えて、胸中で首をひねる。
(だが……)
だが、そのために犠牲を払ったのも、事実だ。
「ハルベルクよ、そこにいるのか?」
「はい。父上。わたくしはここにいます」
「ならば、よい」
ハルワールは、自慢の息子の涼やかな声音に満足した。満足したが、同時に引っかかりを覚えるのもまた、事実だった。ハルベルクの言動が引っかかるわけではない。自分の人生に疑問符が生じるのだ。自分と、彼の人生に、疑問を投げかけるのだ。
もっと、ほかにやりようがあったのではないか。
「わたしがこれから話すことは、遺言だと想って、聞け」
「なにを仰るのですか」
「いや、わたしの時間が残り少ないのは、自分自身が一番よくわかっておる。そなたの目にも明らかであろう。いわずともわかる。気遣いは無用ぞ」
「父上……」
「ハルベルクよ。わたしは、わたしとして懸命に生きようとしたつもりだ。わたしにできることをやりつくそうとしたつもりだ。だが、振り返ってみると、わたしの成したこととは一体何だったのだろうと、想うこともある」
星々の中に瞬く小さな光。それが自分の人生だ。大小数多の星の海で小さく輝いている。本当に小さな光。それでは、誰かを照らすことなどできない。その点、隣の巨星はどうか。太陽のように大きく、力強く燃える星。それこそ、シウスクラウドだ。彼は、太陽となって数多くの星を照らした。照らされた星は、それぞれが命尽きるまで燃えた。燃えざるを得なかった。
シウスクラウドという星とは、そういうものだった。
「わたしは、シウスクラウドに光を見た」
光を見たものは、その命が尽きるまで、光を追い続けるしかない。光を追い、光に焦がれる中で、燃えて、尽きる。そういったものたちを数多に見てきた。自分もまた、そうなるものだと思っていたし、それでいいとさえ想っていた。
光とは、それほどまでに魅力的で、熱狂を生むものなのだ。
「故に、わたしはシウスクラウドにすべてを捧げた。わたしの力のすべて。わたしの人生のすべて。わたしの命のすべて。なにもかも、惜しげも無くくれてやった。たとえ夢破れ、道半ばに倒れたとしても、そこに後悔はなかっただろう。たとえ国が滅びたとしても、だ」
ハルベルクが息を呑んだのがわかる。なんとはなしに、だ。既に死期が目前に迫り、鈍りきった感覚の中ではわかるはずもないのだが、ことハルベルクの事に関しては手に取るようにわかった。彼の声だけがよく聞こえるのと同じようなものだ。不思議な事だが、疑問は生じなかった。親子とはそういうものなのかもしれない。
「わたしはやれることをやりきったのだ、と胸を張って、死ねただろう」
だが、現実はどうか。
胸を張って、死んでいけるものだろうか。
そう考えた場合、首を横に振らざるをえない。
後悔がある。
苦い想いが、ハルワールの心を締め付けている。
「しかし、実際はそうではない。わたしは、このままでは胸を張って死ぬことなどできぬ。後悔の中、のたうちながら死ぬよりほかはない」
「父上、なにを馬鹿げたことを――」
「聞け。聞くのだ。わたしは、そなたに伝えなければならぬ」
ハルベルクが怒声を発したのは、ハルワールの自虐とも取れる発言が許せなかったからだろう。ハルベルクにとってハルワールとは尊敬するべき父親であり、偉大なる国王なのだ。そんな人物がみずからを卑下することなど、認めることはできまい。
(シウスよ、わたしはよい息子を持ったぞ)
それだけは、シウスクラウドに対しても自慢できることだろう。
ただそれだけ。
だが、それだけに後悔が残る。
「わたしは、既に終わったはずの夢と役目をそなたにまで引き継がせてしまった。シウスクラウドを支援し、彼の活躍の場を整えるという役割を、別の形で継承させてしまった。そなたの人生を縛ってしまった」
シウスクラウドのための舞台は、レオンガンドのための舞台となった。
本来ならば、シウスクラウドという英雄の風貌を持つ男が再起不能に落ちいったときにすべて破却するべきだった。そうすれば、少なくとも、ハルベルクの人生までも縛ることはなかったはずなのだ。
「そのことが悔やまれてならぬ」
「恐れながら、父上」
ハルベルクは、言葉のわりにははっきりとした口調で告げてきた。
「わたくしは、これまでの人生を悔いてはおりませぬ。わたくしは、ハルベルク・レウス=ルシオンとして、精一杯に生きてきたつもりです。人生を縛られたなど、考えたこともありませぬ」
「……それが縛っているというのだ。ほかの道を考えさせなかったことこそ、わたしの業以外のなにものでもあるまい」
「……ですが!」
「よいのだ。それで、よい。わたしにはわたしの、そなたにはそなたの想いがある。それだけのことだ。わたしはわたしの想いとして、後悔しているだけのことなのだ。その後悔までそなたに背負わせようとは想わぬ」
それこそ、人生の継承そのものだ。
「ただ、これだけははっきりと伝えておかねばならぬのだ」
「……はい」
「わたしが死ねば、ルシオンの王位を継承するのはそなただ。それは揺るがぬ。重臣たちも、そなたの弟たちも、既に納得済みのことだ。そなたはルシオンの国王となる」
既定路線でもある。
現国王ハルワールの第一子であるハルベルクが第一王位継承者なのは当然のことであり、第一王位継承者に不都合がなければ、該当人物が王位を継承するのは必然としか言いようがない。そして、ハルベルクが王位を継承することに不満を持つものは、ひとりとしていないだろう。ルシオンの王子としてガンディアの外征に付き従うことの多いハルベルクだが、戦闘に率先して参加する姿勢は軍人からの信頼を集めるだけでなく、卒のない政策力は文官たちの人望を集めている。ルシオン国民から反発の声が上がることなど、ありえない。ハルベルクは王子妃リノンクレアともども国民に人気があった。
彼が王位を継げばルシオンはより良い国になるだろう。だれもがそう囁き合っているに違いない。ハルワールにはわかる。そしてそれは必ずしも間違いではない。少なくとも、夢も希望も見失ったハルワールが頂点に立つ国よりは、遥かに良い国になるのは、疑いようがない。
「……はい」
「国王となったそなたを縛るものは、なにもない。好きにせよ」
「父上……?」
ハルベルクが、困惑したように声を上げてきたが、ハルワールはなにもいわなかった。なにかをいえば、それが彼の指針となる。これまでがそうであったように、きっとそうなってしまう。だから、これ以上彼の思考に影響するようなことはなにひとついうわけにはいかなかった。
「伝えたぞ。それがそなたへの遺言だ。重臣らにもいい含めてある。ルシオンの今後は、ハルベルク次第だとな」
告げて、一方的に話を打ち切った。
ハルベルクに縋られないためでもあったが、疲れてもいた。
衰弱しきった体には、たったこれだけの会話すら堪えるのだ。
(あなたもこうだったのか? シウス)
ハルワールは、二十年近くの長きに渡って病床で戦い続けた友のことを想い、涙した。じきに逢える。そのときには、長年の戦いを労ろう。
彼は、ゆっくりと目を閉じた。