第八十八話 黒と黒
――ここはどこだ?
前方には敵がいる。何百、何千もの敵が、その無防備な姿を晒している。憎きガンディアの兵士たち。忌まわしい。汚らわしい。脆く、惰弱なものたち。にもかかわらず、爪を研ぎ、牙を剥いて襲いかかってきた。一人残らず殺してしまわなければ、彼らに真の安寧は訪れない。彼らのような弱者には、死こそが永遠の安らぎなのだ。
――ここはどこだ?
月が遠い。星明かりさえ、彼の視界に映らない。いや、輝いているのはわかる。闇に撒かれた数多の宝石が、淡い光を発しているのは認識できる。しかし、光は届かない。視界が暗い。暗い癖に広い視界は、敵とそれ以外のものを捕捉している。夜行性の動物たち。あるいは息を潜めて機会を窺う皇魔たち。
――ここはいったい……。
敵の密集地。行軍に疲れ、夜営しているのだ。無数の篝火がその場所を大々的に示していたが、それも致し方のないこと。もし火を焚かなければ、周囲に潜む化け物どもがうなりを上げて彼らの血肉を貪り食らっただろう。大量の火と、無数の監視の目が、辛うじて化け物どもの接近を阻んでいる。
――いや、そもそも俺は……。
監視の目。当然だろう。夜営とは敵国の領内だ。常に周囲を警戒し、監視し続けなければならない。敵は人間だけではないが、もっとも警戒すべきは敵軍の奇襲、夜襲の類だ。敵はどこに潜んでいるのかわからないのだ。これほど大袈裟に火を焚けば、大軍の夜営中であることを世間に喧伝しているのと同じなのだ。夜、月明かりに照らされているとはいえ、その炎の群れはあまりに目立ちすぎる。
――俺はなにをしていた?
監視の目が光るのは、前方五百メートル以上先だ。ここまでは届かない。煌々と輝く篝火の明かりが届くかどうかの微妙な位置に立っている。しかも木陰だ。月光も星明かりも、彼の姿を映し出さない。誰にも捉えられない。動物も、植物も、皇魔さえも彼の存在に気づいていない。が、そんなことはどうでもいいのだ。相手が気づいていようといまいと、捕捉されようとされまいと、関係なかった。
――そうだ。俺は。
ゆらり、と歩き出す。木陰を抜け出し、野営地を目指す。ログナーの国境付近。国境を越えた先はガンディアだ。つまり、敵はガンディアの軍勢ということになる。周囲にはなだらかな平原が広がっており、遮蔽物はほとんど存在しない。周囲から丸見えのこの場所で夜営をしようと言いだしたのはどこの誰だか知らないが、間違いなく失策といえる。とはいえ、皇魔対策に火を炊かねばならぬ以上、どのような地形であろうと敵から居場所が丸見えなのに相違ない。
――負けたんだ。あの男に。セツナ=カミヤに。
どくん。心臓が跳ねる。彼は胸に手を当て、心音がいつも以上に静かなことにこそ驚いた。意識は冷ややかで、感覚は冴え渡っている。身体に異常はない。あの武装召喚師との戦闘で付けられた傷跡が消え去ることはないが、痛みはなくなっていた。不思議なほどにすっきりとした気分だった。長い間頭を悩ましていた慢性的な痛みが取れたような、そんな感覚。
――でも、生きている。
それはおかしなことだと考えざるを得ない。生死を賭けた戦いの果て、完膚なきまでに敗れ去ったはずなのだ。圧倒的な力の差を見せつけられ、死を覚悟した。それが戦いというものだ。勝負は一瞬。勝敗は決定的となり、彼の命は露と消えるはずだった。だが。
――殺さなかったんだ、あいつは。
それは屈辱でしかない。彼に対する最大限の侮辱といっていい。武装を破壊しただけで、もはや脅威にはならないと踏んだのだろう。心を折ったとでも思ったのかもしれないが、だとすれば見込み違いも甚だしい。あるいは、敗者である彼を哀れんだのか。どちらにせよ、彼はセツナ=カミヤを憎悪した。無力な己への怒りも、すべて、あの少年への憎しみに変わった。
「だから、ここにいる」
ようやくすべてを思い出して、ウェイン・ベルセイン=テウロスは、足を止めた。木陰を出てどれだけ歩いただろう。眼前にはガンディア軍の夜営地。いくつもの視線が彼に突き刺さっていた。視線だけではない。無数の殺気が、彼に注がれている。見張りの兵士たちが、何かしらの武器――恐らくボウガンの類だろう――を構えながら、月光と篝火の明かりとで闇に浮かび上がったウェインの様子を見守っていた。
ただ警戒を強め、攻撃は愚か警告さえ発してこなかったのは、こちらの状態が状態だからかもしれない。服も鎧もボロボロで傷痕も生々しい。その上生気もない。幽鬼のように見えても不思議ではなかった。
ただ、手には武器を持っている。あの少年への報復のために、彼が異世界から呼び寄せた召喚武装。穂先が螺旋を描く長大な槍。漆黒の槍。それは、欲深きものとみずから名乗っていた。
槍が、金切り声を上げた気がした。いや、槍がけたたましい音を立てたのは事実だ。手が無意識に槍を掲げ、穂先が回転したかと思うと、飛来してきた矢を弾き、視界に火花が散った。金属音が耳に残る。それでお、矢を放った兵士の叫び声を聞き逃さない。
「敵襲だ! 全軍に通達せよ!」
ばたばたと慌ただしく数人の兵士が飛び去っていくのを見届ける。部隊長と思しき男が的確な指示を飛ばし、できる限りの防衛網を構築していく様を見ているのは、愉快なものではあった。とはいえ、いつまでも待っていられるものでもない。牽制に飛んでくる矢が鬱陶しくなりつつもあった。飛来する矢のことごとくは、回転する槍の穂先で弾き返して見せるのだが。
ウェインは、ずっしりとした槍の重みと回転による振動を感じながら、一歩また一歩と歩き出した。敵の構築した防衛網を突破するのに勢いや気構えはいらない。いまや、そのようなものは無用の長物に成り果てた。
そうする間にも前方に集まる敵の数が増大し、飛んでくる矢の数もまた増えていく。夜間に関わらず精確な射撃は、天と地の光に晒されたウェインが格好の的になっているからにほかならない。しかし、それでも彼には当たらない。前方に突き出した槍の回転は加速する一方であり、螺旋状の穂先の高速回転が生み出す大気の渦は、飛来する矢を巻き込んでは粉々に砕いて撒き散らすのだ。破壊音が耳障りだが、それは仕方がない。
「武装召喚師か……!」
悲鳴のような叫びを聞いたとき、彼は、地を蹴って跳躍していた。槍を右手だけで振りかぶり、敵集団の頭上へと至る。いくつかの矢がウェインの体を掠めた。大した手傷ではない。そもそも、痛みは感じない。眼下、夜営地の全域が大騒ぎになっているのがわかった。それほどの高度。身体機能は人間の限界を越え、その跳躍力は尋常ならざるものとなっていた。
化け物じみている。まるであの少年のようだ。彼は冷ややかに笑った。怒りと憎しみの果てに望んで得た力は、結局、セツナ=カミヤと同種のものに過ぎない。破壊と殺戮だけを振り撒く混沌の権化。
(だがいまは、それを享受しよう)
セツナ=カミヤを殺す。そのための力だ。どのように凶暴で極悪なものであっても、いまはそれを振り回すしかない。彼は、むしろ感謝していた。セツナのように圧倒的な力を振るうとはどういうことなのか、我が身を以て思い知ることができるのだから。
切っ先を眼下の敵へ向け、全身で落下する。槍の穂先が逃げ遅れた兵士の頭頂部に突き刺さり、頭蓋を貫いた。高速回転する穂先は、兵士に悲鳴を上げさせる暇すら与えなかった。脳髄を掻き乱し、頭も、首も、胴も貫いて、肉片や骨片、体液をこれでもかと撒き散らす。着地。返り血が、ウェインの全身をどす黒く染め上げた。
矢が、右の耳たぶを抉った。痛みはなかった。どうやら、痛覚は機能していないらしい。それはいまのウェインにとっては好都合ではあったが。
ウェインは、周囲の敵兵が仲間の無惨な死に方にも負けず、矢を放ってきたことに笑みさえ零した。切っ先を巡らせ、自分を包囲する敵を一瞥する。揺らめく火影の中、ガンディアの兵士たちの顔色はわからない。怒りとも恐れとも付かぬまなざしは、人間に向けるようなものではない。
(そうか。これが……)
ウェインは、ボウガンを構えた前方の兵士に飛びかかって槍で薙ぎ倒すと、周辺の敵兵もまとめて槍の回転に巻き込んだ。甲高い悲鳴のような轟音を上げる槍は、ものの見事に兵士たちを飲み込み、でたらめに粉砕していく。元型さえわからなくなるほどの破壊は、彼の望みを叶えるには十分なのかどうか。
相手は化け物。
黒き矛。
ただの暴力では物足りない。ただの破壊では届きようがない。もっと、もっと力がいる。圧倒的な力が。戦場を蹂躙し、戦局を覆す、理不尽で不条理な力が。
槍を振り回し、突き入れ、叩きつける。螺旋を描く力の本流が、ただ無慈悲に虐殺していく。降り注ぐ矢の雨も、殺到する刀槍の森も、ランス・オブ・デザイアを手にしたウェインの前では無力だった。ただのひと振りで矢は砕け散り、刀槍は肉体共々ばらばらになった。
敵軍から悲鳴が聞こえた。相手が何者なのか、ようやくわかったのだ。彼は笑わない。ただ槍の意志の赴くままに手を伸ばし、体をそらし、踏み込み、飛び退き、舞い踊るように殺し続けた。
どれくらいの時間戦っていたのだろう。気がつけば日が昇り、辺り一面の惨状が照らし出されていた。惨たらしい死体もあれば、元型を留めていないものもある。それはもはやただの血痕と肉片であり、とても人間業には思えない代物ではあったが。
風が運ぶ血の臭いに慣れてしまうほどに返り血を浴びた彼は、少なからず意識を失っていたことに気づき、茫然とした。全身に張り付いた血のせいか、むせ返るような死臭のせいか、呼吸が苦しい。ふらついて、槍を地面に突き立てた。
(戦闘?)
かぶりを振る。戦闘と呼べるようなものは起きなかった。こんな一方的な戦いは、ただの虐殺でしかない。そこに勝利もなければ、達成感もなかった。あるのはただ、虚ろな意識。なにもない。なんの感情も沸かないのだ。怒りも悲しみも喜びも、後悔も。
槍に貫かれるか巻き込まれた敵兵は、一瞬にしてただの肉塊と成り果てていった。抵抗も反撃も無駄だった。頑強な鎧を着込んでいようと、盾を構えていようと、この槍の前では素肌を晒しているのも同じだった。
ただ破壊し、殺戮する。
それだけのことだ。それ以上でもそれ以下でもない。
虚しさだけが影を落とす。元より、ウェインの望みはこんな殺戮ではない。セツナ=カミヤを殺す。そのためだけに力を求め、ここに立っている。
「あれ……?」
ウェインが首を傾げたのは、前方に人影が見えたからだ。この地で夜営していたガンディアの軍勢は、彼の手によって壊乱している。全滅こそ免れ、この場所から撤退した連中が、わざわざ殺されに来るとも思えなかった。
日は高い。
晴れ渡った空の下、吸い寄せられるようにウェインは人影を凝視する。顔を見ずとも相手がわかった。槍が震えている。倒すべき敵の出現に歓んでいる。
それはウェインも同じだ。力が充溢する。さっきまでの虚無感が嘘のように、感情がうねり、うなりを上げる。どす黒い怒りの炎が逆巻き、彼の身も心も焼き尽くさんがばかりだった。
「早かったじゃないか」
黒き矛を手にした少年が、肩で息をしていた。血のように紅い眼がこちらを見据えている。感情の揺らぎはない。
少年が来るのはわかっていた。いや、ここに来るように仕向けたといったほうが正しい。漆黒の槍を振るい、暴れ回っていればきっとこちらの存在に気づく。そして、向かってくるだろう。
槍と矛は引き寄せ合うのだから。
「セツナ=カミヤ」