第八百八十八話 五月五日・ニーウェの冒険(八)
「うん。わかった」
揺れる馬車の荷台で、ミーティアが小さくいった。
ニーウェは、真っ先に猛反発してくると予想していた少女の反応の素っ気なさに肩透かしを食らった気分だった。
「わかったんだ?」
ニーウェが説明したのは、彼の旅の目的についてだ。たったひとりで出発した理由も話している。
彼は、大陸小国家群の中心に向かうつもりだった。大陸小国家群の中心には、ガンディアという国がある。一年前まで弱小国のひとつに過ぎず、帝国では話題にさえならないほどの存在感しかなかったが、ここ半年ほど、小国家群の情勢について語るとなれば、真っ先に名が上がる国になっていた。
ガンディアは、この一年で大きく躍進している。いまにも歴史の闇に飲み込まれそうな程度の勢力しかなかった国は、たった一年でその国土を数倍に膨れ上がらせた。小国家群の中では大国といっていいような国土は、ガンディアの今後の膨張を容易に想像させるものだ。国土が膨れ上がれば、国力、戦力も増大する。周囲の小さな国々を飲み込むのも容易いこととなる。弱小国などはガンディアと戦って攻め滅ぼされるのを避けるため、進んで頭を垂れるかもしれない。ガンディアの勢力がますます膨張し、強大化していくのは、だれの目にも明らかだ。
中央でもガンディアと交渉を持つべきではないか、という声が上がりつつあるらしい。神聖ディール王国やヴァシュタリア共同体が動き出す前に接点を持つことで、出し抜こうというのだろうが、帝国がそう考えているということは、神聖ディール王国やヴァシュタリア共同体も同じようなことを考えているに違いなかった。
もっとも、ニーウェの冒険は、帝国の意図とはまったく関係のないものだ。中央の意図を率先して行うつもりもない。むしろ、真逆といってもよかった。
ニーウェは、ガンディア躍進の要因と接触するために、大陸小国家群の中心に向かおうとしていた。
「うん、まったく納得出来ないってことがわかった」
ミーティアが、ひどく覚めた目線を投げかけてきた。彼女が心の底から怒りを感じているときの表情だった。彼女の怒りは炎となって燃え盛るのではなく、凍てつくのだ。絶対零度の如く凍てつき、研ぎ澄まされた刃となって吹き荒ぶ。暗殺者の王であった彼女に相応しい感情表現ではあるのだが。
(恐ろしい顔だ)
普段の可憐な表情からは想像もつかない凄まじさがある。そして、そういう少女だからこそ、ニーウェは彼女を側に置いている。なんの力もない少女を側に置いておくほどの余裕は、ニーウェにはなかった。
「わたくしもミーティアに同感です。理解はできましたが、納得はできません」
ミーティアの隣で、シャルロットも厳しい顔をしていた。彼女は、ミーティアとは違った怒り方をする。ミーティアが氷ならば、シャルロットは炎だ。しかし、すぐに炎となって燃え上がるわけではない。シャルロットは、感情を制御することに長けた人物だった。怒りも哀しみも平然と抑えつけ、常に冷徹に振る舞う。それがシャルロット=モルガーナという剣士なのだ。しかし、そんな彼女が一度燃え上がらせれば、だれの手にも負えなくなるのだ。ミーティアでさえ恐怖に震えるほどだ。
幸い、いまの彼女は、怒りを制御できているようだったが。
(いつまでも保ちそうにないな)
ニーウェは、シャルロットの膝上に置かれた手がわずかに震えている様子を見て取って、そう認識した。いつ怒りを爆発させるか、わかったものではない。そして、彼女が一度でも怒りを爆発させればもうおしまいだ。ニーウェも最終手段を取らなければならなくなる。それをすると、今度はミーティアの怒りを買いかねないから、あまりしたくはないのだが。
「そうですよ。俺たち、そんなに信用出来ないんですか?」
ランスロットはというと、荷駄の上に突っ伏したような姿勢でこちらを見ていた。女性陣に比べてだらしのない格好ではあったが、仕方のないことだ。彼の召喚武装ライトメアは、凄まじい火力、制圧力を誇るのだが、その分消耗も激しい。特に先ほどの戦いでは必要以上に爆撃を行っていたのだ。彼が疲労し尽すのも無理はなかった。が、ランスロットらしくない戦い方でもあった。彼は、無意味に力を浪費するような戦い方は好まなかったはずだが。
(いろいろ大変だったんだな)
ニーウェは、ランスロットの心労を察した。きっと、怒り狂ったふたりを宥める際に生じた精神的抑圧感を、ライトメアをぶっ放すことで解消しようとしたのかもしれない。そして精神的抑圧感は解消され、すっきりはしたのだろうが、今度は精神力を消耗しすぎてしまったようだ。
「違う。そういうことじゃない」
ニーウェは、三者三様の怒り顔を見比べながら、静かに告げた。胸中で付け足す。
(信頼しているからさ)
たった三人の気の置けない部下たち。たった三人だ。何千、何万の配下の中で、この三人だけが、ニーウェが心を許すことのできる人物だった。部下でないのなら、ニーナを含めることもできるが、彼女は別格だ。同列に並べることは、どんなことがあってもできるものではない。
故に、三人。
(たった三人)
それでも、恵まれているといわざるをえない。
彼の父、現皇帝シウェルハイン・レイグナス=ザイオンなどは、信の置ける部下などひとりでもできれば御の字だ、と何度もいっていた。何百万の配下を持つ皇帝でそれなのだ。皇帝の何分の一、なん十分、何百分の一の配下しか持たないニーウェが、三人もの信頼できる部下と巡り会えたのは、奇跡といってもいいのかもしれない。
そんな三人を大切に思うのは、当然のことだ。そして、その三人を自分の身勝手に巻き込んで失うことなどあってはならない。そんなことがあっては、死んでも死にきれない。
自分は、死ぬかもしれない。
ニーウェは、そう思うことがある。
黒き矛を打倒し、セツナ=カミヤを殺すのが、ニーウェの冒険の最大の目的だ。そのためにガンディアに赴く。黒き矛のセツナは、ガンディアの英雄なのだ。ガンディアにさえ辿り着くことができれば、彼の者の居場所は自ずと知れるだろう。故にガンディアを目指す。そして、セツナを探しだし、殺す。彼の者を殺し、黒き矛を破壊することさえできれば、エッジオブサーストは最強の存在となるだろう。そして、ニーウェの運命を切り開くことができるのだ。
だが、それは死と隣合わせの旅路となる。
黒き矛は、少なくともエッジオブサーストと同等の力を持っていると見るべきだ。最低でもエッジオブサーストと同程度。エッジオブサーストよりも凶悪な力を持っていたとしても不思議ではないし、むしろ、そのほうが妥当というべきかもしれない。エッジオブサーストと黒き矛で力を二分しているとは、考えにくい。
エッジオブサーストは、黒き矛の力の断片に過ぎない。
勝てるかどうかというと、五分五分ですらない。
そんな戦いに大切な人たちを巻き込みたくはなかった。だからひとりで行くのだ。ひとりで、すべてに決着をつける。
自分の全存在をかけて、戦うのだ。
「じゃあ、どういうことなんです?」
「そこんとこ、ちゃんと説明してくれないとね」
「そうです。殿下の言葉で、説明してください」
三人に詰め寄られて、ニーウェはどう答えるべきか迷った。散々迷った末、正直な気持ちを告げるしかないと想い、口を開いた。
「……皆を失いたくないんだ」
告げると、三人は少しばかり呆気にとられたようだった。
「なにを仰られるのです?」
「そうそう。俺達を失いたくないって、そんな嬉しい事いわれても、納得できるかどうかっていると……」
「できないよねえ」
シャルロットにせよ、ランスロットにせよ、ミーティアにせよ、どこか困ったような表情でニーウェを見ていた。彼らの反応にこそ、ニーウェは戸惑いを覚える。
「できるわけがない。そもそも、わたくしたちは、殿下のためなら死ぬことも厭いません」
「うんうん、シャルロットさんはいいこというね。その通りです」
「ぼくは死なないけどね」
ミーティアだけは、ふたりとは違ったことをいった。もっとも、ふたりを馬鹿にしているわけでも、ふたりと異なる想いを抱いているわけではないのは、その表情からもわかる。むしろ、ふたりとまったく同じ気持ちだからこその一言に違いなかった。
「ニーウェと添い遂げるまではさ」
「な、なななな、なにをいっているんだ!」
「なんだよー、シャルだって同じ気持じゃないのー?」
「違う、わたしは純粋に!」
「純粋に殿下を愛しています?」
「ち、違っ!?」
シャルロットが顔を真赤にするのは、ミーティアにからかわれたときか、ニーウェが最終手段に出たときくらいのものであり、きわめてめずらしいものといってよかった。厳粛で高潔な騎士を標榜するシャルロットにとっては無念の極みではあるのだろうが。彼女が時折見せるそういう表情こそ、ニーウェの心を和ませてもくれるのだ。
「あのふたりは置いておいて、ですね」
「ん」
「俺は、ついていきますからね。殿下がなんと仰られようと、たとえ殿下が俺を解任したとしても」
「ランスロット……」
ニーウェは、ランスロットのまなざしの真剣さに胸を打たれて、返答に詰まった。すると、ミーティアがランスロットの横から顔を覗かせ、ニーウェの視界を占領した。大きな目が爛々と輝いている。
「もちろん、ぼくもついていくからね」
「わたくしもです」
シャルロットがミーティアの顔を押しのけて、ニーウェに自分を主張する。シャルロットらしくない行動も、こういう状況ではしかたのないことかもしれない。そうでもしなければ、ミーティアの影に隠れてしまう。
「ミーティア、シャルロット……」
ニーウェは、三人の部下のそれぞれの想いの熱さになんともいえない気持ちになった。ただ、彼女たちの名前を口にすることしかできない。そして、それでいいのかもしれない、とも想った。なにもいえなくとも、伝わる想いがある。なにもいわなくとも、想いは、伝えられる。
それがニーウェと三臣の間で結ばれた絆の証だ。
ニーウェは、三人に旅の真の目的を話した。
黒き矛のセツナを倒し、その力を我がものとすること。
それこそが、ニーウェの冒険の真の目的であり、全存在をかけることの意味。