第八百八十三話 五月五日・ニーウェの冒険(三)
コールエンド街道のエンシエル寄りに、彼は立ち尽くしていた。
コールエンド街道は、ザイオン帝国領北西に位置する辺境都市群最大の都市エンシエルとその付属都市とも呼ばれるコールドールを結ぶ街道のひとつだ。二都市を結ぶ街道はほかにもいくつかあるが、そのどれもが大きな曲線を描くか、複雑な軌道を描くものであり、旅を急ぐ上では無用の長物としか言いようがなかった。それらは帝国の国是である内政の充実による産物といってもよく、利用されない街道群の一角といってもいい。そういった不必要な街道もまた、内政を充実させる上では必要だったといえばそれまでだが。
その点、コールエンド街道は違う。コールドールとエンシエルを直線で結ぶこの街道を利用しないものがいないはずもなく、ニーウェもまた、よく利用した。コールドールは演習で利用することの多い都市でもあったからだ。
「まだコールエンドシールにも辿り着いてないんだけど」
ニーウェは、腰に帯びた二本の剣を左右の手で抜きながら、馬車の前に居並ぶ化け物たちを見回した。口の端に笑みを刻むのは、その化け物たちが発する特有の波長のせいで昂ぶってしまっているからだろう。
人外異形の怪物たち。
総称して皇魔と呼ぶ。
五百年の昔、大陸統一を成し遂げた聖皇ミエンディア・レイグナス=ワーグラーンは、神々を召喚したといわれている。その神々がこの世界に降臨した際、引きずられるようにして出現したのがこれらの化け物どもと呼ばれている。神々が聖皇の神、転じて皇神と呼ばれるのに対し、この化け物どもは人間にとって不愉快極まる外見を持ち、人間に敵対し、悪意と殺意を振りまいたため、聖皇の魔、転じて皇魔と呼ばれるようになった。
また、皇魔は、人類の天敵だといわれている。
か弱い人間にとって、強大な力と圧倒的な生命力、繁殖力を誇る怪物の存在は、天敵というほかなかったのだ。多くの人間にとって対抗手段はないに等しく、分厚い城壁に囲われた都市や要塞に隠れてやり過ごすしかなかった。壁のない町や村は皇魔の群れに襲われ、為す術もなく滅ぼされたという。そういう歴史の積み重ねが、大陸の現状と作り上げたといっていい。
それでも、立ち向かったものたちはいるし、歴史上、そういったものたちは勇者と呼ばれた。勇者たちは、歴史に名を残す程の成果を挙げてもいる。しかし、皇魔を根絶することは絶望的といってよかった。皇魔の増殖力は人間の想像を絶するものであり、どれだけ徹底的に巣を潰そうともいつの間にか巣を作り、眷属を増やしているのが皇魔という化け物だった。
帝国がどれだけ内政に力を割き、国土の維持に努めようとも、皇魔の巣を根絶することができなかったという事実からも、皇魔の繁殖力、増殖力の凄まじさがわかるというものだろう。
そんな化け物の対抗手段のひとつを、ニーウェは持っている。
しかし、彼は、前方で自分をまず最初に倒すべき敵と認定した化け物たちを睨みながら、呪文を唱えようともしなかった。武装召喚術を発動するには、時間が必要だ。呪文を唱えるということは、隙を作るということにほかならない。無論、詠唱しながら戦うことも不可能ではない。だが、完全に殺すつもりでいる相手と剣を交えながら術式を構築するということができるのは、それこそ一流の武装召喚師であり、彼のような半人前の武装召喚師ができる芸当ではなかった。
だからこそ、彼は通常兵器を携行しているのだ。
ニーウェは、自分の分というものを知っている。どれだけ絶大な力を持つ召喚武装を呼び出すことができるとはいっても、武装召喚師としては半人前であることに違いはない。半人前の武装召喚師ほど、自分の力を過信しがちだ。
(力に酔ってはならない……)
イェルカイム=カーラヴィーアは、毎回のようにいってきたものだった。その言葉はニーウェたち弟子への教えのようでもあるし、自戒のようでもある。イェルカイムほど優れた武装召喚師は帝国領にいないのだが、それは、彼が己の力を完全に制御できているからこそ登れる高みに違いなかった。ニーウェが彼のような武装召喚師になるためには、さらに五年、十年と修練するしかない。それでも辿りつけないかもしれないと思うのは、ニーウェは力に溺れることがあるからだ。
皇魔が吼えた。
神経を逆撫でにするような奇声に、ニーウェの背後の馬が棹立ちになったようだった。一瞥する。馬車馬は、こちらの目を見ると、途端に落ち着きを取り戻す。特別なにかをしたわけではない。ただ、睨んだだけだ。
再び、皇魔に向き直ったときには、皇魔の群れそのものが動いていた。人外異形でありながら、人間のような五体を持つ化け物ども。全身を体毛に覆われ、狼を思わせる頭部を持つことから、獣人、特に人狼と呼ばれることも少なくはない。口の中に覗く鋭い牙も、指先に輝く爪も、獰猛な狼を想起させた。
しかし、人間に対する敵愾心の強さ、殺意の凄まじさは、皇魔特有のものだ。眼孔から溢れる赤い光も、それらが皇魔であるということを如実に示している。
ウォスブレフという呼称される皇魔は、帝国領土の広範に渡って生息する皇魔であり、大陸小国家群やヴァシュタリア共同体勢力圏、神聖ディール王国領内には見受けられないといわれている。
ワーグラーン大陸は、広大だ。その全土に数多の皇魔が巣食っているのだが、地域によって生息する皇魔が異なるのは、当然といえば当然なのかもしれない。
獣人と総称される皇魔は、狼のような外見的特徴を持つウォスブレフ以外にも猫のような外見的特徴を持つキュレティ、熊のような外見的特徴をしたビフブレフなどがいる。どれも人間の特徴と獣の特徴を併せ持つために獣人と呼ばれることがあるのだが、実際には人間でも何でもない。人語を解することもなければ、人間と交渉するということもないのだ。皇魔は皇魔であり、人間にとって害悪以外のなにものでもないということだ。
その害悪そのものである化け物が二十体、ニーウェと馬車の進路を塞いでおり、そのうち三体がこちらに向かってきている。
(ウォスブレフが二十体か。厄介だな……)
ニーウェは、御者台の従者に目線を送ると、彼が反応するのを待つこともなく左に飛んだ。猛然と突っ込んできた狼男の豪腕が空を切り裂き、鋭い爪が舗装された道路を抉る。血のように紅い眼光が、間一髪で避けたニーウェを睨み、唸り声を発する。しかし、ニーウェには、その一体だけに構っているほどの余裕はない。馬車が街道を外れるのを横目に見ながら、別のウォスブレフの飛び蹴りを辛くもかわす。凄まじい脚力から繰り出される蹴撃は、まともに喰らえばただでは済まない。それはどんな皇魔の攻撃に対してもいえることだが。
それこそ、皇魔が人類の天敵と呼ばれ、恐れられる所以だ。
ニーウェは、腰に帯びた二本の剣を抜くと、刀身が陽光を浴びて輝くのを見た。研ぎ澄まされた刃が、それだけで皇魔たちの警戒心を高める。皇魔もまた、この大陸に住み着いてから数百年という長い年月を人間とともに過ごしてきている。人間の武器がいかなるものなのか、ある程度は知っていたとしても不思議ではない。
なにより、皇魔には人間に匹敵する知能があるということは、長年の研究の結果明らかなのだ。皇魔たちは人間との戦いの中で様々なことを吸収し、学習している。だから、何百年経ったいまでも皇魔の優位性は変わらず、人間が圧倒的に不利なのだ。
(それでも、俺は負けないさ)
油断でも余裕でもなく、ただ厳然たる事実として、ニーウェは確信している。なぜなら、彼は、通常兵器の扱いにも長けているからだ。両手から伝わる重量は、通常兵器と召喚武装の使い勝手の違いを明確にしているが、それによってニーウェが一方的に不利になるということはない。
二十体のウォスブレフが、一斉に、しかしばらばらに動き出した。ニーウェを中心とした円を描くように、ゆっくりと陣形を構築する。ニーウェは、皇魔たちが自分の思い通りに動いてくれていることに笑みを隠さなかった。彼らウォスブレフは、目の前の敵を殺すことに全力を注ぐ。二体以上の獲物がいる場合、近いほうの獲物から攻撃するのが、ウォスブレフという皇魔の生態だった。それも、帝国の長年に渡る研究成果であり、そういった情報を頭に叩き込むことも、武装召喚師として一人前になる上で必須といってよかった。
だが、二十体もの皇魔を同時に相手にするのは、さすがのニーウェでも骨が折れるだろう。負けるとは思っていないが、苦戦を強いられる可能性はある。そしてなにより、こんなところで時間を食いたくはないというのが、彼の本音だった。
地を蹴る。皇魔は既に動いている。前方の狼男は、飛んで後退した。ニーウェを引き付けようというのだろう。左右と後方の殺気が、人狼どもの目論見を明らかにしている。ニーウェは、あえて皇魔の策に乗った。全力で踏み込み、後退する人狼との間合いを詰める。荒い鼻息が聞こえた。飛ぶ。視界が流転する。宙返り。青空が覗き、街道の先にエンシエルの町並みがぼやけて見えた。そして地上。数体のウォスブレフが、ニーウェのいた場所で交錯している。そこへ、光の束が突き刺さり、閃光とともに爆音が鳴り響いた。大気が激しく震え、余波がニーウェの体をさらなる上空へ吹き飛ばす。
皇魔の断末魔が聞こえた気がするが、爆音の盛大さは、ニーウェの聴覚を一時的に麻痺させるほどのものであり、断末魔など聞こえるはずもなかった。