第八百八十一話 五月五日・ニーウェの冒険(一)
「俺は、いくよ」
ニーウェ・ラアム=アルスールは、エンシエルの市街を囲う城壁を遠方に見遣りながら、だれとはなしにつぶやいた。
つぶやいた言葉は風に紛れ、消えるだろう。決してだれかに届くことはない。ましてや、彼方の城壁に守られた都市の深奥にいるであろう愛するひとに届くことなど、絶対にあるはずもなかった。
もっとも、彼がしたためた手紙は、確実にニーナの元に届いているはずだ。手紙が届いていれば、彼の想いも無事に伝わったことだろう。ニーナは頑固で融通の効かないところもあるが、ひとの想いを汲み取る力はだれよりも優れている。彼が十九人もいる兄や姉の中で、ただひとりニーナを愛しているのは、彼女だけが彼のことを理解してくれていたからにほかならない。他の十八人のほとんどが敵であり、敵ではないものも無関心な部外者に過ぎなかった。本当に家族といえるのはニーナという姉と、ニーウェが父の関心を失った後に遠ざけられた母だけだった。
母は、皇帝シウェルハイン・レイグナス=ザイオンの側室のひとりだ。シウェルハインには七人の室がおり、正室のミルウーズを第一皇后とし、彼の母ニルサーラは第七皇后という立場にあった。皇帝の后の中ではもっとも若い彼女は、ニーウェ以外にもニーナ、ニノン、ニージュといった皇子、皇女を皇帝との間に設けている。シウェルハインはもっとも年若い彼女に愛を注ぎ、彼女もまた、シウェルハインの愛に応えたのだ。
しかし、そんな愛が極端な形で終わりを迎えたのは、数年前のことだ。
ニーウェらニルサーラの子供たちが帝国領における辺境に飛ばされたのと同時期であり、つまるところそれは、シウェルハインがニーウェへの関心を失ったことに起因するのは疑いようのない事実だった。
そしてそれは、ニーウェが皇帝の後継者争いへの興味を失い、自分を見守ってくれていたただひとりの姉のためだけに時間を費やし始めたきっかけともなった。
三年。
ニーウェとニーナがこの帝国領北西の地域に飛ばされてから経過した年数のことだ。三年、彼は中央から隔絶された地域での日々を過ごした。中央では、彼と姉、それにふたりの兄を除いた十六人で後継者争いを続けており、血を見るということも少なくはなかったらしい。そういう情報を耳にするたびに、むしろ中央から隔絶された地にいることは幸福なのではないか、と思わないではなかった。
実際、幸せな三年だった。
帝国の政治に振り回されることもなければ、皇帝の顔色をうかがう必要さえもない。皇后らの派閥争いに眉を顰めるような日々も、兄弟たちのくだらない自慢話や足の引っ張り合いを見ることもなかった。ただ、毎日自分を鍛えることに時間を費やすことができた。
力が欲しかった。
強くなりたかった。
力がなければ、強くいられなければ、愛するひとひとり護れない。厳然たる事実は、彼に過酷な鍛錬を強いた。過酷だが、苦痛ではなかった。少しずつ強くなっているという実感は、喜びとなった。彼の喜びは、最愛のひとの喜びともなった。彼女が笑ってくれるのならば、どのようなこんなんだって乗り越えられる。そうやって、ニーウェはこの三年を越えてきた。
大陸暦五百二年五月五日。
彼は、今日を持って十八歳になる。
十八歳。特別な年齢ではない。帝国においては、十六歳が成人の年齢とされる。つまり、十八歳とは成人して二年が経過したというだけに過ぎない。だが、それでも、十八歳というなんの変哲もない誕生日が、決して忘れることはないであろう特別な日となったのは間違いなかった。
彼は、今日、帝国領から抜け出し、大陸小国家群に向かうつもりだったのだ。
ニーウェ・ラアム=アルスールは、エンシエルに別れを告げると、荒野に等しい進路に向き直った。もちろん、歩いていくわけではない。徒歩で大陸小国家群まで行こうとするなど無謀以外のなにものでもなかった。
馬車を用意している。一頭立ての馬車で、荷台には食料や着替えがある程度積んであった。もちろん、旅費も潤沢にある。長旅なのは間違いないのだが、どの程度の用意が必要なのかわからなかったため、詰め込めるだけ詰め込んでいる。もしそれでも足りなくなれば、現地調達するしかない。そのための旅費だ。
その旅費も、後継者争いから外されたとはいえ皇帝の血を引く皇子であり、アルスールの統治者であり、闘爵である彼にとっては大した金額ではないといえばそれまでだが。
御者を務めるのは、ニーウェが皇帝の不興を買いアルスールに飛ばされた際、帝都での日々を捨て、彼に同行してきた人物であり、名をシグナー=サントといった。ニーウェは、そうまでして自分を主と仰ぐ彼を信頼し、多くの場合、常に側に置いた。さすがにニーナとふたりきりのときは遠慮させたが、それ以外では彼を遠くに追いやるということのほうが少なかった。そんなシグナーもまた、ニーウェの信頼に応え続けている。
馬車に乗って最初に向かうのは、コールドールである。
コールドールは、エンシエルの西に位置する都市であり、エンシエルから大陸小国家群を目指すならば、通過しなければならない都市のひとつだった。
ザイオン帝国第七方面軍が管轄する領域は広い。
帝国領北西の都市エンシエルを中心に、アルスール、コールドール、ウェールシェイルなど、多数の都市や街をその管轄とした。その中でもアルスールはニーウェの支配地であり、特別な思い入れがないわけではなかったが、第七方面軍が管轄する都市の中でもっとも南東に位置する都市でもあり、これから大陸小国家群に向かおうという彼の進路からは正反対の位置にあるといっても良かった。それはつまり、彼がこの旅路においてアルスールに立ち寄ることはないということだ。
それはそれとして、エンシエルから大陸小国家群を目指す上で通過する必要のある都市は、コールドール以外にもいくつかある。
まず、コールドール。エンシエルの西に位置するその小都市は、ニーウェにとっては慣れ親しんだ都市のひとつでもあった。
ニーウェは、個人的な力だけを得ることに固執してはいなかった。むしろ、ニーナの補佐を務めるためには大局的な視野を持ち、軍集団を自在に操ることのできる能力を必要とした。そのため、軍事演習を行うことが多く、その際第七方面軍の管轄地全体を戦場に見立てて、大規模な演習を行うことも少なくはなかった。そういう場合、エンシエル近辺の都市を防御拠点と定めることが多く、自然、コールドールやウェールシェイルといった都市に親しみを覚えるようになった。
コールドールを抜ければ、つぎはウェールシェイル、そしてサンディオンという都市がある。それらの都市を越えて、ようやく第七方面軍の管轄地から抜け出すことができるのだ。そして、帝国領内における辺境にして、国境の防衛を司る第七方面軍の管轄地から抜け出すということは、帝国領から抜け出すということにほかならない。
サンディオンを西に抜ければ、大陸小国家群最東の国マシュガとの国境に至ることができるのだ。
通常、帝国軍人が大陸小国家群と呼ばれる領域に足を踏み入れることはない。ザイオン帝国始皇帝ハイン・レイグナス=ザイオンの遺言によって、帝国は国土の維持にこそ力を注ぐべきであり、わずかでも他国への侵攻を企てるべきではないということが国是となっているからだ。
数百年、その国是を守り続けている。
そう考えると異常なことのように思えるが、大陸の四分の一を国土としていることを思えば、これ以上の国土を不必要とした始皇帝の考えもわからなくはなかった。いま現在の国土さえ持て余しているというのが帝国の現状だ。いかに数百年、内政にのみ力を注いでいるとはいえ、広大な大地を完全に支配するということは、人間の手では不可能に近い。
それでも、帝国は歴史上、ただの一度も内部分裂することも、国家解体の憂き目を見ることもなかった。大陸の四分の一を支配下に収めたまま、数百年もの間その国土を維持し続けているのだ。それもこれも、国土拡大の野心を抱かず、領土の維持に全力を注いでいるからだという考えが正しいのかどうかは、ニーウェにはわからない。
ただひとついえることは、ニーウェは帝国の歴史始まって以来、初めて国是を破る人間なのかもしれないということだ。