第八百八十話 五月五日・帝国
五月五日が彼女にとってもっとも特別な日だということは、彼女の周囲の人間ならばだれもが知っている。周囲の人間だけではない。総督府での仕事に従事している人間ならば、知っておかなければならないことのひとつとして、知らしめられていた。そして、だれもが熟知しているからこそ、その日の総督府を圧倒的な緊張感が包み込んでいた。
ザイオン帝国第七方面軍総督府。
帝国領の中でも辺境と呼ばれる地方都市エンシエルの一角を成す軍事拠点は、その日、皇女ニーナ・ラアス=エンシエルを総督に頂いてから三度目の五月五日を迎えていた。つまり、皇女ニーナが第七方面軍総督に任命されて三年が経過したということになる。
三年もの年月をこの辺境の都市で過ごしたことに対しては、彼女も複雑な感情を抱かざるをえない。中央から遠ざけられて三年。つまるところそれは、彼女が、皇帝の後継者争いから完全に外されてしまったことを示している。いや、彼女だけではない。彼女の大切な弟もまた、次期皇帝候補ではなくなってしまっている。
ザイオン帝国は、ひとりの人間を頂点とする巨大な国家だ。大陸の四分の一を版図としているのだから、その巨大さは小国家群の弱小国家とは比べ物にならない。比較するだけ馬鹿馬鹿しいといってもいい。弱小国家など、第七方面軍の数部隊で制圧できるはずだ。
それほどまでに巨大で強大な国家を統べる人間のことを、皇帝と呼ぶ。
帝国の礎を築いたハイン・レイグナス=ザイオンが始皇帝を名乗って以来、その後継者は皇帝を名乗るようになった。皇帝とは、帝国全土を手中に収めるもののことだ。皇族の中で後継者争いが起きるのは必然であったし、血で血を洗うような闘争にまで発展することがあるのは、帝国の歴史が証明している。
彼女の父にして現皇帝シウェルハイン・レイグナス=ザイオンもまた、熾烈な後継者争いを勝ち抜いて皇帝の座に着いたというのだから、帝国と後継者争いは切っても切れないものなのだ。次期皇帝を皇帝の一存で決められるのならば話は別だが、現実はそうではない。皇帝は権力の頂点に君臨し、帝国の意思を決定するのも皇帝そのひとであるのだが、次期皇帝を決めるのは皇帝ではなかった。無論、最高権力者である皇帝の意見も取り入れられるものの、参考程度といったところだという。
なぜそのようなことになったのかは、歴史を振り返れば一目瞭然だ。三代皇帝ソールハインは、聡明な統治者として知られている。善政の限りを尽くしたといわれ、中でも帝国領の各地に国民のための病院を建てたことは、ソールハイン最大の功績とされている。
そんな人物も年を取れば、耄碌するものだ。彼は、次期皇帝(つまり四代皇帝)に壮健な長男や次男ではなく、生まれたばかりの皇子を選んだ。当然、長男と次男は不満を抱く。いや、家臣万民が、ソールハインの選択を不審に思った。その皇子が、ソールハインの寵愛した若い側室との間に生まれた子供だったことも、不信を招いた理由のひとつだろう。
当時、皇帝の権力は絶大だった(いまでも絶大であることに変わりはないが)。
ソールハインは、皇子の皇位継承に反対するものをひとり残らず処断した。長男、次男を含めて、一人残らずだ。その中には有能な人物が多数いた。いや、有能な家臣ほど、ソールハインの決定に疑問を呈したというべきだろう。優秀な人材が激減した帝国は、果たして暗黒期を迎えるのだが、ソールハインは帝国の暗黒期を見ることもなく崩御。皇帝の決めた通り、幼少の皇子が四代皇帝となり、イミルハインと名乗ったが、実権を握ったのは彼の母イスターシアだった。
思いも寄らず絶対的な権力を得たイスターシアは、思うままに力を振るい、帝国の暗黒期を加速させた。ついには国是を破り、大陸統一に乗り出そうとまで言い出したイスターシアに対して、それまで彼女に付き従っていた者達までもが反発、イスターシアはそれらをソールハインのように排除しようとしたが、成長したイミルハインの手によって止められる。イミルハインは、イスターシアから権力を取り上げると、次期皇帝を選ぶのは皇帝の独断によるものではならないと宣言し、みすからも皇帝の座を天に返した。
いわゆる、“イミルハインの宣言”によって、皇帝の選出には皇帝の意思がそれほど尊重されなくなったということだ。そして、“イミルハインの宣言”以降の歴代皇帝の業績を鑑みるに、イミルハインの選択は正しかったのだろう。少なくとも、イスターシアのような暴君が出現することはなく、帝国は数百年に渡って安穏たる歴史を紡ぐことに成功している。
もっとも、その“イミルハインの宣言”によって、後継者争いが加熱し、ときとして血を見なければならないような状況に陥ることもあるのだが。
そして、その後継者争いの加熱が、ニーナと彼の弟ニーウェ・ラアム=アルスールにまで及んだ結果が、ふたりの辺境への赴任であり、三年に渡る第七方面軍総督としての勤めであった。
とはいえ、中央での後継者争いから外されることは、必ずしも悪いことばかりではない。次期皇帝候補から外れるということは、立ち居振る舞いを気にする必要もなければ、言葉を選ぶひつようもないということだ。どのように振る舞おうとも、そのことで執拗に追及されたり、言葉ひとつを取って責め立てられるようなこともない。ある程度自由気ままでいられるというのは、皇室という世界に窮屈さを感じていた彼女には、喜ばしいことといえる。
さらにもうひとつ、中央との隔たりによって生じた喜ぶべき状況といえば、今日という特別な日を独占することができるということであり、それだけで彼女はすべてを許すことができた。
愚かな兄弟たちのくだらない権力闘争の余波によって辺境に飛ばされた結果、彼女は真に幸福を掴むことができたのだ。ニーナは、ただそのことだけでこの暇で退屈でどうしようもない日々を乗り越えることができたし、中央から届く後継者争いの最新情報に対しても苦笑いを浮かべることでやり過ごせるといっても過言ではない。
とはいえ。
「弟君の到着が遅れているようですな」
当然のように姿を見せた幼馴染みの部下に対して、ニーナは、眉根を寄せることで自分の感情を示したのだが、彼はまったく理解していないようだった。彼には、ニーナの心情に対してなんら配慮しないというところが、昔からあった。他人の感情を考慮しないということが研究者としての資質の現れだというのならば、そんなものは焼き捨ててしまえばいいと思わないではない。もちろん、そんなことを考えてしまうのは、今日が五月五日だからに過ぎない。これが昨日か明日ならば話は別だ。通常ならばなんとも思わないようなことだ。
しかし、今日は違う。今日は特別な一日だった。皇女としての多くの権限を奪われたいま、この一日だけを楽しみに生きているというのは言い過ぎにしても、それに近い感情を抱いていることを否定することはできない。そして、五月五日以外の楽しみというのも、今日という一日と大いに関連のあることなのだ。
ニーナの屋敷は、第七方面軍総督府の敷地内にある。総督本邸とも呼ばれる巨大な建造物は、小さな要塞にも見えるような外観をしており、彼女の好みに合っている。本邸に入ることが許されるのは、彼女が特別に許可した一部の人間と総督本邸付きの使用人、そして連絡将校くらいのものであり、それ故、普段から軍事拠点内にあるとは思えないほどの静寂に包まれていた。
そして、彼女が現在いるのは、本邸一階の広間であり、広間は、今日のこの日のためだけに盛大に飾り付けられていた。ニーナの指示による飾り付けは、そのほとんどが彼女の趣味に合わないものだ。だが、彼女の趣味に合わせた場合、今度は祝うべき当人の趣味に合わなくなる。彼女は、迷うこともなく、自分の趣味を排除した。自分の好みを押し付けて嫌われるなど、想像するだけで寒気がした。彼に嫌われては、生きていける気がしなかった。
そんな彼女の好みとはまったく正反対といっていい派手な飾り付けが施された広間に、彼女の趣味を体現するような人物が佇んでいた。研究者という立場を明確化する白衣のような単純さこそ、ニーナの趣味に合った。総督本邸の要塞染みた外観が好みなのも、それと同じような感覚だった。
だが、だからといって、この場にいていい存在ではない。
「……イェルカイム」
「はい?」
「なぜ貴様がここにいる?」
「暇なもので」
イウェルカイム=カーラヴィーアは、春風にでも撫でられているかのような涼やかな表情で告げてきた。ザイオン帝国が誇る知性は、ニーナ率いる第七方面軍をただの地方軍から帝国軍の中でも特別な地位に押し上げるだけの才知を発揮し、ニーナに対して凄まじいまでの貢献を果たしているのだが、こういう時に限って、その知性は微塵も働かなかった。
「暇潰しならば研究室にでもこもっていろ」
「それが暇だといっているんですよ。術式の組み換えなんていう代わり映えのない研究ばかりでは、さすがに飽きがきてしまう。だから部下に任せているんですが、それもつまらないので自分も加わると、これまた退屈極まる」
「だからといって、わざわざ今日のこの日に研究室から出てこなくとも構わんだろう」
「数日に一度は閣下のご尊顔を拝しなければ、わたくしのようなものは呼吸困難に陥るのです」
「意味がわからん」
「まあ、冗談ですが」
「どういうたぐいの冗談だ。痴れ者め」
「酷い言い様ですな」
「……今日はニーウェの誕生日だ」
ニーナは、あまりに察しの悪いイエルカイムをいつもよりもきつく睨みつけた。
今日、五月五日は、彼女が愛してやまない弟が生まれた日だった。
弟の名をニーウェ・ラアム=アルスールという。アルスールを領地とする闘爵であり、ザイオン帝国現皇帝シウェルハイン・レイグナス=ザイオンの二十番目の子としてこの世に生を受けた人物だった。つまり、皇子であり、皇女であるニーナ同様、皇位継承権を持って生まれている。
しかしながら、前述の通り、ニーナと同じく辺境の地に飛ばされた彼は、後継者争いから一歩も二歩も後退していた。もっとも、ニーウェは後継者争いになど端から興味を持っておらず、自身を鍛え、技を磨くことに専心することができる現在の環境はむしろ喜ばしいものだと捉えているようだった。そういう意味でも、ニーナは安堵していた。ニーウェが中央の争いに興味を持ち、関わろうというのは、彼女にとって嬉しいことではない。
だからこそ、総督府全体が緊張感に包まれているのだ。
「はい。うかがっておりますし、弟子のために贈り物も用意しておりますよ」
しかし、彼は、平然としていた。そのことに軽く衝撃を覚えるのだが、ニーナは彼に負けている場合ではないと思い直し、口を開いた。
「貴様はなにもわかっておらんな」
「はて?」
「邪魔だといっているんだ」
「ああ、なるほど。把握いたしました。では、邪魔者は立ち去りましょう。弟子には、あとで研究室に顔を出すようにいっておいてください」
「今日一日は、わたしと過ごすのだ」
ニーナが傲然と告げると、さすがの彼も鼻白んだようだった。
「……では、明日にでも、と」
「それならばよろしい」
「……では、失礼をば」
イェルカイムは、こちらに背を向けるなり徐ろに肩を竦めたが、ニーナはその不敬な振る舞いを咎めようとも思わなかった。彼が不敬なのは今に始まったことではない。昔からそうだったのだ。だが、一方でニーナに対して心の底から敬服してもいる。それがわかっているから、彼女は彼を処罰することも、束縛することもしないのだ。彼には自由にさせるのが一番だった。
それに彼女はいま、ニーウェの到着の知らせを待ちわびている。彼の振る舞いなど、一瞬にして忘れ去ることができた。
今日五月五日は、彼女がニーウェを独り占めにできる唯一の日といってよかった。
そんなときだ。
「失礼します!」
そういって広間に飛び込んできたのは、連絡将校だった。今日という特別な日を静かに過ごすため、総督本邸の出入りは連絡将校にさえ固く禁じていたのだが、その禁止事項を破って突入してきたということは、それだけ重要な案件を抱えているということにほかならない。
ニーナは、嘆息とともに連絡将校を見やった。
「……なんだ?」
彼は、明らかに緊張していた。彼もまた、今日という日がどういう日なのかをよく知っているのだ。そんな日に総督の気分を害すればどうなるものか。そういうものの末路は、総督府に務めるだれもが知っていた。だからこその緊張感であり、静寂なのだ。
「と、闘爵様より、総督閣下宛の書簡をお届けに参りました!」
「闘爵……ニーウェから?」
「はっ!」
「なにをしている。さっさと渡せ」
「は、はい!?」
連絡将校は、悲鳴にも似た声を上げながら、彼女の元に駆け寄ってきた。差し出された封筒を手に取り、封を解く。本邸を包み込む静寂の中、自分の心音が聞こえるかのようだった。実際、鼓動が高鳴り、血液の流れが早くなっているのかもしれない。
封筒の中には、紙が一枚入っていた。その紙には、ニーナ宛の文章が記されている。ニーナがうっとりと見惚れるほどに綺麗な文字だった。それがまず間違いなくニーウェの手書きの文字であるということは、文字の中に彼の癖があったことで確定した。ニーナは、彼からの手紙を大事に保管し、暇を見つけては読み返しているのだ。彼の字と別人の字の区別くらいは一瞬でできる。
だからこそ、彼女は手紙の内容を理解した瞬間、頭の中が真っ白になったのだ。
「どういうことだ……?」
彼女は、連絡将校を下がらせてから、ひとり茫然とした。彼の誕生日を祝うためのすべての準備が無駄になった。いや、そんなことはどうでもいい。他人の力を借りて用意したものなどに大した価値はない。大切なのは、飾り付けや贈り物などではなく、ふたりだけで一日を過ごすという、ただそれだけのことなのだ。
そして、そのふたりだけで過ごす五月五日という特別な一日が消滅してしまったことこそ、ニーナにとってこの帝国全土よりも大事なことだった。
(ニーウェ……!)
彼女は手紙を封筒にしまい、懐に収めると、椅子から立ち上がった。
追わなければならない。
追いかけて、彼の無謀な試みを止めなければならない。
だが、追いかけることなどかなわないということも理解している。
文中にはこうあった。
『わたしは、必ずすべてを成し遂げ、あなたを迎えに参ります。偉大なる総督閣下へ。親愛なる姉上へ。愛しいニーナへ』
追いかければ、彼の想いを踏みにじることになりかねない。
ニーウェは、今日の今日まで、自分の夢や望み、願いといったことを口にしたことはなかった。皇子として生まれ、皇室の中で育てられているときからずっとそうだった。無私無欲。それこそがニーウェという人物のすべてであり、それだけがほかの兄弟にはない美点だとだれもが褒めそやした。しかし、ニーナにはわかっていた。彼が無理をして、自分を殺しているのだということに。
彼は、末弟だ。
二十人の皇子皇女の中で最後に生まれてきたのが、ニーウェだった。故にニーウェはシウェルハインに溺愛された。彼だけが特別扱いを受けた。ほかの兄や姉たちは面白いはずがない。敵意や悪意が牙を剥いた。彼の兄や姉たちは、すでに十年以上の時を権謀術数の中心で過ごしてきている。年端もいかない弟を陥れるのは造作もなかった。
ニーウェは謀られ、陥れられた。結果、シウェルハインの愛を失ったニーウェは、主張することをやめた。わがままをいえば他の兄たちになにをされるのかわかったものではない。彼は、したいことがあてもいわなくなり、言葉さえも失ったかのようだった。
ニーウェが本来の明るさを取り戻したのは、彼がイェルカイムという理解者を得、イェルカイムの元で武装召喚術を学び始めてからだった。それでも、彼はみずからの願望を発することはなく、夢を語ることさえなかった。
そんな彼が初めて望みを口にしたのだ。
ニーナが彼を追おうとはしなかったのには、そういった理由が合った。