第八百七十七話 五月五日・騎士団(一)
ベノアは、ベノアガルドの首都である。
かつて、ベノアガルド王家を頂点として栄えた大都市は、いまや騎士団一色に染まっているといっても過言ではない。
右を見ても左を見ても騎士団の旗が掲げられ、革命以来改められた騎士団の紋章が数多にはためいていた。一見、いびつな紋様は、神卓と呼ばれるなにかを示すものだと一般には知られている。神卓とは。神卓騎士団の呼称の由来でもあるのだが、その実態がなんであるかを知るものは、ほとんどいない。騎士団に所属する騎士の大部分が知らないようなことを一般人が知っているはずもない。
ただ、神卓騎士団の筆頭である十三騎士が会議に使う卓だということは知っていて、それだけで十分な意味を持っていた。
十三騎士の会議は、神卓騎士団の方針や今後の活動を決めるものであり、それはすなわち、ベノアガルドという国そのものの命運を握る会議でもあったからだ。
神卓とはつまり、ベノアガルドの中枢である。
そして、神卓を中心とする騎士団が神卓騎士団と呼ばれるようになったのは、必然ともいえた。
大陸暦五百二年五月五日。
ようやくベノアの地を再び踏むことができたことに、彼は安堵の息を吐いた。
旅装の男。
名をテリウス・ザン=ケイルーンといった。
彼は、ガンディアよりこのベノアガルドの首都に帰り着くまでに一月近くの時間を要している。
精確には、ガンディア王都ガンディオンより、ベノアガルド首都ベノアに辿り着くまでに、だ。しかし、それくらいかかるのは当然のことといえた。ガンディオンは大陸小国家群の中心といってもいいような位置にあり、ベノアは大陸小国家群の北端に位置しているといっても過言ではない。陸路を進めば、片道二十日以上かかる。馬を飛ばしても、だ。
国境をいくつか越える必要がある。
そういう意味では、ガンディアの国土の肥大は、ありがたくもあった。ガンディアが小国のままなら、ログナー、ザルワーンの国境も越えるために数日を要したかもしれないのだ。もっとも、ガンディアが小国のままであれば、騎士団の興味がガンディアに向けられることもなかったかもしれないが。
(いや……どうかな)
テリウスは、ベノア城に向かう道すがら、騎士団の理念のことを想った。騎士団が救済を掲げる以上、小国にこそ手を差し伸べるものではないのか。それに、今回、彼がガンディアに赴いたのは、ガンディアが窮状を訴えているからではなかった。単純に、騎士団長が興味を示したからに他ならない。それもガンディアにではなく、黒き矛とセツナ=カミヤに、だ。
黒き矛のセツナの雷名は、小国家群北端のベノアガルドにまで響き渡っている。いや、大陸小国家群でその名を知らぬものはいないだろう。知らないものがいるとすれば、それは無知というしかない。今日、彼ほど注目を集めている一個人はいないはずだ。
ガンディアが今日、広大な国土を誇り、栄光に満ちた日々を送ることができるのは、彼の活躍によるところが大きい。それはガンディア自身が自認するところであり、むしろガンディアのほうが過大なまでに喧伝している節がある。ただひとりの奮起による躍進など、本来ならば恥ずべきようなことを平然と喧伝しているところにガンディアの不思議さはあるが、それはいい。
問題は、セツナだ。
セツナ=カミヤ。
セツナ・ゼノン=ラーズ=エンジュール。
ガンディアの王宮召喚師であり、王立親衛隊《獅子の尾》隊長。そして、エンジュール領伯。
肩書だけでも大層なものだが、本当に驚くべきはその実績にある。一個人ではなし得ないような戦績の数々は、セツナ=カミヤという人物が実在しているのかどうかを疑いたくもなるものだった。バルサー平原の戦いを皮切りに、ログナー戦争、ザルワーン戦争、クルセルク戦争と、彼の活躍は枚挙にいとまがない。どんな戦場でも凄まじいまでの活躍をしているのが、セツナという人間だった。特にザルワーンでの竜殺しや、たったひとりで一万以上の皇魔を倒したというクルセルク戦争での活躍には、度肝を抜かれるしかなかった。
騎士団長フェイルリング・ザン=クリュースが、テリウスをガンディアに差し向けたのもわからなくはなかった。
だが、ガンディアが公式に発表した情報を精査し、各地の戦場から伝え聞く話の数々と照らし合わせてみても、尋常ではない。セツナがガンディアの発表した通りの戦果を上げているのは間違いなく、ガンディアが誇張しているのではないということは、明らかだった。
(だが……実力はたいしたものではない)
ガンディアの王妃ナージュ・レア=ガンディアの懐妊を祝うための御前試合。第一試合から決勝戦に至るまでの四度の戦闘を見ての感想がそれだ。試合内容を見る限り、十三騎士のだれひとりとして、彼に負ける要素がなかった。
木剣による競技試合では、真の実力を測れないというのは事実だ。木剣と真剣は違う。しかも、競技試合は点数を競うものであり、実戦とはまったく別のものだ。競技試合の内容如何でセツナの実力をどうこういうのは間違っている気がしないではないのだが、しかし、人間としての力を見にいった以上、テリウスの結論に間違いがあるわけではなかった。
フェイルリングが知りたいのは、黒き矛の力ではなく、セツナ=カミヤ本人の力なのだ。
『救済者たる器があるかどうか。それを見極めてみせよ』
騎士団長直々の命令には、テリウスは心が震えたものだった。
彼は、生粋の騎士ではない。
「長期に渡る調査任務、ご苦労だった」
騎士団の執務室に向かったテリウスを迎えたのは、神卓騎士団の副団長オズフェルト・ザン=ウォードだった。物腰の柔らかなこの若い男こそ、テリウスを騎士団に導いた人物であり、テリウスが尊敬してやまない人物だった。灰色がかった頭髪と、燃え盛る炎のような緋色の瞳が印象的な人物であり、常に温和な笑みを浮かべているようなところがあった。彼が副団長を務めているからこそ騎士団は纏まっていると、テリウスは勝手に思っている。そんなことを口にすればオズフェルトから叱責が飛んでくるのはわかっているが。
オズフェルトは、控えめな人物だ。常に騎士団長の補佐たろうとし、騎士団長より目立つことは決してなかった。理知的で才能にあふれた彼には、騎士団長であるフェイルリングも全幅の信頼を置いていたし、問題児の多い騎士団幹部たちも、彼には一目置いているようだった。ベイン・ベルバイル・ザン=ラナコートのようなものでさえ、オズフェルトには頭が上がらないのだ。オズフェルトがいかに統率者として優れているかが伺えるというものだろう。
オズフェルトは、神卓騎士団の制服を着込んでいる。青と白を基調とした上下であり、そこに金の装飾が施されていた。
制服に施される装飾は、騎士団における階級を示しており、オズフェルトの制服を彩る金装飾は、彼が十三騎士のひとりであることの証だった。十三騎士、つまり騎士団幹部の下には銀装飾を許された正騎士、銅装飾を許された准騎士と続き、装飾のない従騎士が最下位に位置している。
テリウスもまた、ベノア城こと騎士団本部に入ってからすぐに制服に着替えていた。オズフェルトと同じ金装飾の制服であり、その制服を目にしただけで下級の騎士団員は緊張し、その場から動けなくなるという。騎士団幹部、十三騎士はひとりひとりが一騎当千の実力者だ。騎士団員たちが緊張するのも無理のないことかもしれない。
同じ金装飾の制服とはいっても、一部の紋様に違いがあった。それは十三騎士固有の紋章であり、オズフェルトの制服には光の輪を示す紋章が、テリウスの制服には波紋のような紋章がつけられている。どちらも二つ名に由来するものであり、それは他の十三騎士も同じだった。
二つ名を持たないフェイルリングだけは、紋章の由来は不明だったが。
「団長命令を遂行したまでです。苦労などありません」
「ベノアからガンディオンまでは遠い。長い旅路、疲れるのは人間として当然だ。苦労もあったはずだ。卿の言葉を信じないわけではないが」
オズフェルトが少し笑った。彼はテリウスが机の上に置いた報告書を手に取ると、軽く目を通しながら続けてくる。
「そういえば、フィンライト卿が、君の帰りを心待ちにしていたよ。帰ってきたら即刻知らせるように、口うるさくいわれていてね」
「フィンライト様が?」
ルヴェリス・ザン=フィンライト。騎士団幹部に名を連ねる人物は、ベノアガルドの名門フィンライト家の人間であり、テリウスにとって雲上人といってもよかった。敬称をつけてしまうのは、無意識といっていい。そしてそれは、彼の生まれに由来するものであり、身に染み付いたものを拭い去ることは簡単なことではなかった。
ルヴェリス本人が生まれを気にしない人物だからなおさら恐縮してしまうのかもしれない。
「なんでも、君に合うお茶が手に入ったといっていたな」
「お茶……ですか」
「フィンライト卿の屋敷には、既に君の帰国を知らせに行かせてある。君も落ち着き次第向かうといい」
「それは……副団長命令ですか?」
とは尋ねたものの、そうではないということは、オズフェルトの言動からも明らかだった。オズフェルトは、テリウスに公的な話をするときは卿と呼び、私的な話をするときは君と呼んだ。それは昔からのことであり、オズフェルトとテリウスの繋がりを示す事柄のひとつでもあった。
「いや。友人からの提案だよ」
「はあ……?」
テリウスが生返事を浮かべてしまったのは、オズフェルトの笑顔があまりに穏やかだったからではない。無論それもあるが、オズフェルトが彼のことを友人といってきたことに衝撃を受けたことのほうが大きい。友人など、あまりに恐れ多い考えだった。テリウスにとってオズフェルトは、忠を尽くすべき主以外のなにものでもない。同じ十三騎士に選ばれたいまでも、同格などとは思ってもいなければ、そんなことを考えることさえ不敬だと信じている。
もちろん、オズフェルトがそのようなことを望んではいないということも知っている。知ってはいるが、どうすることもできない。
テリウスにとってオズフェルトは光だった。
「君も、十三騎士の同輩と触れ合う機会を持つべきだと思ってね」
「わたくしは、騎士団の一員として、忠を尽くすのみです。それ以外のことは、瑣末なことだと考えているのですが、それはいけないことなのでしょうか?」
「いや、君の考えは、間違ってはいない。君はこれまで通り、騎士団に忠を尽くしてくれればいい。だが、十三騎士の紐帯を強くすることは、騎士団の強化にも繋がることだ。君がフィンライト卿と親交を結ぶことで、わずかでも騎士団の結束が強くなれば、それはそれで素晴らしいことではないか?」
「わかりました。では、準備が済み次第、フィンライト卿の屋敷に向かわせていただきます」
「そうするといい。君も、たまには肩の力を抜くべきだよ」
「はっ」
「……まあ、いい」
オズフェルトは、なぜか呆れたような表情をしたが、テリウスにはその反応の意味がわからなかった。