第八百七十六話 五月五日・セツナの場合(十二)
「ところでのう、セツナよ」
「ん?」
衣服の中に潜んでいたラグナが首元から顔を出し、小声で話しかけてきたのは、宴も酣といった状況下であり、セツナに会話する余裕ができてからのことだった。それまで、セツナの誕生日を直接祝うためのひとの波が押し寄せてきており、ラグナが話しかける機会さえなかったわけであり、彼はセツナに話しかけられる機会をずっと待っていたのだろうことは明白だった。
彼は、食堂での誕生日会が始まってからというもの、セツナの衣服の中に隠れ、じっとしていたのだ。自分という存在が人間に与える影響について熟知しているらしく、その騒ぎによってセツナの誕生日会がめちゃくちゃになってしまうことを考慮してくれたらしかった。
セツナは、そんなラグナの気遣いに頬を緩めながら、目の前のテーブルを物色していた。テーブルの上にはゲイン=リジュール特製の料理の数々が並んでいる。中でも注目するべきは、セツナの故郷、つまりイルス・ヴァレからすれば異世界である日本の料理の再現を試みたものの数々である。ゲインは、調理人である彼がセツナの誕生日を祝うには、セツナの故郷の料理を再現するのが一番だと考えていたらしい。そのためには、まず、セツナの故郷である日本料理がどのようなものなのかを知る必要があるのだが、ゲインは、レムを通じてさり気なく聞き出していたという。確かに、レムから故郷の料理について詳しく問いただされた記憶があるのは事実だった。もっとも、そのときはレムのただの好奇心故のものだと思っていたのだが。
さすがに和食器はなかったものの、盛りつけ方に至るまで完璧といっていいほどに再現された料理の数々は、セツナに感動を与えていた。もっとも、日本料理というよりは、家庭料理の類が多い。焼き魚に味噌汁、鶏の唐揚げのようなものもあれば、寿司まであった。寿司に使われている魚はこの世界の川魚ばかりだが、見た目ではセツナの知っているそれと大差がない。元々、この世界にも米はあり、米を炊いて食べるという習慣もないわけではなかった。パンのほうが多いというだけだ。だとしても、酢飯の再現にはとてつもなく苦労しただろうことは、想像に難くない。
「おぬしはいったいなにものなのじゃ?」
「人間だよ」
セツナは即答して、寿司に箸を伸ばした。銀の箸もまた、かつてセツナが頼み込んで作ってもらったものである。セツナはこの異世界において、自分の世界のものを持ち込むことに躊躇はなかった。もっとも、なにもかも再現できるわけもないし、しようとも考えてはいない。あれば便利なものの中で実現可能なものだけを取捨選択しているのだ。
とはいえ、この世界にはこの世界の時の流れというものがある。どこかゆったりとした時間の流れは、常に忙しないあの世界とは比べ物にはならない魅力があり、それをぶち壊すようなものを持ち込むつもりもなかった。そして、持ち込めるだけの知識量があるわけでもない。
長い首を控えめにもたげて、ラグナが口先を尖らせた。元々尖っている口が余計に尖ったように見えた。
「そんなことはわかっておる。わしが聞いておるのは、おぬしという人間の置かれている境遇や立場といったものじゃ。わしが見ておる限り、ただものではないということは明白じゃが」
「そうか?」
「うむ。まず、数百年もの間、力を蓄えておったわしを打ち倒した実力。凡百のものではない」
「それ、俺を褒めているようで、自分を讃えてるよな」
セツナがあきれると、ラグナは当然のように肯定してきた。
「当たり前じゃ」
「ああ、そう」
「わしのことは置いておいてじゃ。つぎに、気になったのは、おぬしを取り巻く人間の多さよ。おぬしの誕生日を祝うために、これだけの人間が押し寄せてくるとは、さすがのわしにも想像ができなかったぞ。我が主が、ドラゴンを打ち倒すだけの人間ではなかったということに驚かざるを得ぬ」
「ここが、ガンディアの国だということは、知っているか?」
「知らぬ」
「やっぱりな」
「人の子が主張する国土など、知ろうとも思わぬからな。人間が勢力圏を争うのは勝手じゃが、わしらはわしらで勢力圏を相争っておる。特に北の大地では、今日も目に見えぬ闘いが続いておろう。人間の知らぬところでな」
「北の大地っていや、ヴァシュタリアの勢力圏だったっけな」
「うむ。神の名の下に人の子を支配しようとするものどもの集まりよ」
「ヴァシュタリアとやらも大陸北部を完全には掌握できていないということか」
「人の子がこの天地を支配しうると思っておるのか?」
セツナは、ラグナのあきれたような問いに、しばらく考えた。じっくりと考えなくてはならないことだった。ガンディアが支配権を主張する広い大地のことを想う。大地に生きる全てのものを支配できているかというと、そうではない。国土に息づくすべての生物を支配下に置くことなどできるわけもない。特に皇魔という災害じみた存在がある以上、完全な支配などありえないことだ。
「……よくよく考えてみりゃ、そりゃあ無理な話だな」
ラグナの考えを肯定しながら、ドラゴンの長久広大な視点から見てみれば、人間同士の領土争いなどちっぽけなものにしか見えないのかもしれない、とも思った。しかし、そのちっぽけな争いに全生命を賭している人々がいることもまた事実であり、そこにはセツナも含まれていることは否定のしようがない。そして、否定する必要もない。視点が違えば、立ち位置も違う。セツナはドラゴンのような視野を持つことはできない。ただの人間にすぎないからだ。
「なに、刹那一瞬を生きる人間と久遠長久を生きるドラゴンでは、考え方が違うという程度の話じゃ。気にするほどのことではないぞ」
ラグナがセツナの心を気遣うようにいった言葉が、セツナには嬉しくもあった。ラグナは傲岸不遜なところがあるものの、セツナに対しては常に気を使っているところがある。下僕という認識が働いているのは間違いなさそうだった。見下している存在の下僕となるのは、彼にとっても辛いものがあるに違いないのだが、そういった様子はいまのところうかがい知れなかった。
(分不相応……か)
人間には人間の生き方があり、ドラゴンにはドラゴンの生き方がある。
セツナは、人間らしく生きるしかない。転生を繰り返すラグナのような視界を持つことは不可能に近く、短い生涯を精一杯生きることだけに集中するしかない。
「それで、おぬしはこのガンディアという国でなにをしておるというのじゃ? さすがに支配者というわけではなかろう?」
「王宮召喚師にして、王立親衛隊《獅子の尾》隊長であり、エンジュール、龍府というふたつの領地を持つ領伯――それが我らが御主人様にございます」
などと告げてきたのは、レム=マーロウだ。昼間とは趣の異なるメイド服を身につけた彼女は、ついさっきまでミリュウたちとともに食堂内を歩き回っていたはずだった。いつもならばセツナの側にいて離れようとはしないミリュウやレムが、セツナの側を離れていたのは、彼女たちなりの気遣い以外のなにものでもなかった。ふたりがセツナの側に固まっているとなると、ほかの客人が話しかけづらいだろうと配慮したのだ。
《獅子の尾》の他の面々はというと、ルウファはエミルとふたりの時間を過ごしており、マリアはアレグリア=シーンと談笑していた。ファリアは現在、食堂の片隅でミリュウに寄りかかられていた。ミリュウは歩き疲れたのかもしれないし、この場の雰囲気に飲まれたのかもしれない。彼女らしくなかったが、それは天輪宮で再会したときからずっとそうだった。彼女の身になにがあったのかを聞くには、状況があまりに雑然としすぎている。なにもかもがもう少し落ち着いてからにするべきだった。
そんなことを考えているうちに、誕生日会は終わりに近づきつつあったのだ。
「ふむ。領伯とな?」
「国王陛下より領地を賜ったもののことだよ」
それから、ガンディアには領伯はふたりしかいないということも教えた。そのふたりのうちのひとりがセツナだということは、大変名誉あることだということも、だ。
「なるほどのう。つまり、支配者というのもあながち間違いではなかったのじゃな」
「そうでございますね。御主人様は、わたくしとラグナ様の支配者に御座います」
「おお、そうじゃな。その通りじゃ。わしらの偉大なる主じゃ、のう、レム」
ラグナがレムを見やると、レムは笑顔のまま、低い声を発した。
「レム先輩、でございます」
「おお、そうじゃった。レム先輩」
「なんなんだよ、おまえら」
セツナは、ドラゴンに対して先輩風を吹かせ始めたレムと、そんな彼女に感化されているドラゴンの有様に呆れるばかりだった。人間をあからさまに見下しているにも関わらず、元人間(いまでもほとんど人間と同じなのだが)の言葉に影響を受けるドラゴンというのは、いったいなんなのだろう。セツナは、ラグナを見つめるたびに考えるのだ。彼は一体なにもので、なぜ、セツナに付き従うなどといったのか。
本当に、セツナが彼を倒したから、付き従っているというのか。
どうにも納得のいかないところがある。
まず、彼がアズマリアにけしかけられたドラゴンだという事実に引っかかりを覚えるのだ。アズマリアがセツナの力を試すために召喚したワイバーン――それがラグナだ。ラグナシア・エルム・ドラースと彼は名乗っている。その名が偽りだとは思わないし、彼が転生竜と呼ばれる特別なドラゴンだという話も疑ってはいない。疑問があるのは、彼の一貫性のない行動だけだ。
アズマリアの命令通りに襲ってきたかと思えば、いまやセツナの下僕であることをむしろ誇らしく思っている風である。なんとも不思議な話だった。本当に、セツナに敗れ去ったことで、支配下に入ったというのだろうか。
そんなことが本当にあるのだろうか。
「セツナ様、首元のそれっていったいなんなんです?」
不意に問いかけられて、セツナははっとなった。エインがセツナのすぐ目の前にいて、セツナの服の襟元から首を覗かせたラグナを見つめていた。
「蛇? とかげ?」
「蛇やトカゲなぞとドラゴンを一緒にするものがあるか、愚か者め」
「うわ、しゃべった」
エインが驚愕すると、周囲の人々にもその驚きが伝播した。人語を解する奇妙な生き物の存在が誕生日会場を騒然とさせるのに時間はかからなかった。
セツナは、今朝の騒動を掻い摘んで説明し、ラグナが無害な存在となったことを伝えなければならなかった。強大な力を誇ったドラゴンであるところのラグナには不満のある説明だったようだが、会場の人々はほっとしたようだった。
そして、竜殺しのセツナはやはり竜殺しであり、その上、ドラゴンを支配下に置いた竜使いだという話が龍府中に広まっていった。
龍府に広まるということは、ガンディア中に広まるということでもあるのだが。
セツナは、そういうときの情報の伝達速度には、ついていけない気がした。