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第八百七十一話 五月五日・ナーレスの場合

 自分は、死ぬ。

 それもそう遠くはない時期に死ぬだろう。

 恐怖はなかった。

 死を恐れたことは一度もない、といえば嘘になる。

 戦場に立てば、嫌でもひとの死を目撃する。元はただの一般兵だ。兵士として戦場に出て、ガンディアの領土を守るために勇気を振り絞った。恐怖を振り払うために必要だったのは、勇気だ。一握の想いが、目の前の死の恐怖を打ち払い、彼に槍を取らせた。

 けれど、次第に前線で戦うのが怖くなった。同僚の負傷や死を目のあたりにするうちに、自分の中の臆病な魔物が顔を覗かせるようになったのだ。辞めよう。自分には軍人は向かない職業だったのだ。家に戻り、書斎で思索に耽る日々に戻ろう。それで一生を終えたとしても、別に問題はない。この世に大望を抱く機会などあるわけがない。脳裏に描かれる光景を実現する機会など、あるはずがない。

 死ぬのが怖かった。

 だから、軍人を辞めようとした。軍人としての栄達を諦めたのだ。

 そんなとき、英傑を見た。

 国境を越えて侵攻してきたアザークとの戦いを勝利で終え、沸き立つ前線に、英雄が姿を見せたのだ。名をシウスクラウド・レイ=ガンディアといった。王位を継承したばかりの若きシウスクラウドは、初陣を勝利で飾れたことを大いに誇り、兵士たちと一緒になって喜びを分かちあった。そこに等身大の英雄の姿を見たのだ。

 それは、彼にとっての光であった。

 光を見たものは、その生涯を費やして、光を追い続けなければならなくなる。

 人間とは、どうやら、そういうものらしい。

 彼は、その日からというもの、心を入れ替えて、シウスクラウドの力になることだけを考えた。

 若き国王は、英雄の風貌を持つだけでなく、実力と才能にあふれた人物でもあった。並外れた膂力を持ち、大槍の使い手として名を馳せてもいた。彼がみずから率先して戦場に出れば、全軍が沸き立ち、敵軍は怖気づいた。彼だけが別次元の存在のような威圧感、存在感を持っていた。

 威風。

 王位を継承したばかりで実績も何もない彼を獅子王と呼ぶようになったのは、ある意味では当然のことだったのだ。

 そんな彼に見出されたのは、いつのことだったか。

 ずっと昔のことだ。

 二十年以上の昔。

 シウスクラウドが病に倒れる以前、レオンガンドがこの世に生を受ける前の話――。

「旦那様が眠っていらっしゃる……」

 囁くような声が聞こえて、彼は、懐かしい夢が終わったのだということを認識した。薄い闇が視界を塞いでいる。暗闇ではない。つまり、生きている。いや、彼女の声が聞こえた時点で気づくべきだろう。死んでしまえば、二度と、彼女の声を聞くことはできない。最愛の妻であり、彼が生涯、ただひとり愛した女性。

(メリル)

 胸の内でその名をつぶやくだけで、心が震えた。彼女の声が聞けなくなるだけではない。彼女の姿を見ることも、彼女の体に触れることもできなくなるのだ。

 死ぬことは恐ろしくはない。

 だが、彼女と別れることは、彼女に会えなくなることは、死よりも余程恐ろしい。だから死にたくないのだ。極めて個人的な理由だが、人間とはその程度の生き物だ。なによりも個人的な思いを優先してしまう。

 薄っすらと目を開くと、窓から差し込む光の中、可憐な少女のどこかあどけない顔が見えた。なにかを企んでいるような表情は、ナーレスが寝入っていることに起因しているのだろうが。

「なんだい? わたしが眠っているのが、そんなにめずらしいかな?」

「あら、起きていらっしゃったとは思いもよりませんでしたわ」

「君の声で起きたんだよ」

「まあ、旦那様らしくない言葉ですこと」

「どういうことなのかな?」

「知りたいですか?」

「いや、やめておこう」

 ナーレスは、メリルのいたずらっぽい微笑みに笑い返すと、彼女の華奢な体を引き寄せた。

「聞けば、君を抱きたくなくなるかもしれない」

「あの、旦那様? もうお昼でございますよ?」

 メリルが慌てたようにいった。随分と長い時間眠っていたらしい。昨夜の騒ぎが病身に応えたのかもしれない。昨日、五月四日は《獅子の尾》隊長補佐にして王宮召喚師であるファリア・ゼノン・ベルファリア=アスラリアの誕生日だったのだ。ナーレスとメリルは夫婦で彼女の誕生日を祝福した。大した贈り物はできなかったものの、ファリアは、軍師夫妻からの贈り物ということでいたく感激してくれたようだった。

 そういえば、今日は昨日に続いて重要人物の誕生日だった。隊長補佐につづいて、隊長の誕生日なのだ。セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルド。長たらしい名前になってしまった少年は、今日をもって十八歳になるということだ。十八歳。ガンディアでは成人と呼べる年齢であり、結婚してもなんら不思議ではない年齢でもあった。

 メリルが結婚した年齢を考えると、早くもなんともない。メリルは十四歳のときにナーレスの妻となったのだ。そして、今年十八歳になる。つまり、セツナと同い年であり、彼女はそういう意味でセツナに親近感を抱いているらしい。セツナは、メリルの敬愛するミリュウが溺愛する人物でもある。メリルにとっては親しみやすい相手なのかもしれない。

「休暇中だ。関係ないさ」

「旦那様ったら……」

 とはいいながらまんざらでもなさそうなメリルの声には、ナーレスはそれとなく微笑み、彼女の広い額に口付けた。


 死の声が聞こえる。

 もう少しだ。

 もう少しで、死は自分の命を刈り取り、地の獄へと連れ去っていくだろう。そこにはきっと、自分が殺してきたものたちが数多にいて、自分の到来を待ち受けているに違いない。当然。シウスクラウドもいるだろう。シウスクラウドは、ナーレスが全存在をかけて尊敬し、師事した英雄であったが、同時にガンディアを蝕む病でもあったのだ。シウスクラウドは、ナーレスたちのあずかり知らぬところで、外法を用い、無辜の民の命を奪っていた。彼が地獄に落ちるのは必然であり、それは、民を手にかけてこなかったナーレスにも同じことがいえる。

 民は殺さなかった。

 が、数えきれないほどの命を奪ってきた事実に変わりはない。

 兵か民か、ただそれだけの違いであり、その違いは大義を欲する兵士たちには絶対的なものではあるが、本質的にはなんの違いもないのだ。

 命に大小はない。

 ナーレスは、ここのところ、そういう風に考え方が変化してきている自分に気づいて、呆然とすることがあった。ガンディア国王レオンガンド・レイ=ガンディアの命も、軍師ナーレス=ラグナホルンの命も、軍師夫人メリル=ラグナホルンの命も、ある観点から見ればまったく同一の価値しかないのではないか。

 死が近づけば近づくほどに彼の視界は広がりを見せていった。いままで輪郭さえ見なかった物事まで、鮮明に見えてきている。気のせいかもしれない。ただの勘違いかもしれない。しかし、確かに、ナーレスの目は、これまで見えていなかったものを捉えて離さないのだ。

 そして、そういう視力の変化が、彼の考えにも変化をもたらしていた。

 命は等価。

 ならば、兵を殺すのも、民を殺すのも、動物を殺すのも、皇魔を殺すのも、同じことではないのか。

「わたしはこれまで、数えきれないほどの命を奪ってきた」

 ふと思ったことを口走ると、彼女の柔らかな肌の下で筋肉が硬直したのを実感する。緊張を覚えたのだろう。確かに、布団の中で発するような言葉ではなかった。彼は、彼女のために謝ろうと思ったが、やめた。心ない謝罪に意味はない。

「本当に、数え切れないくらいの命を」

 ナーレスは、自分の手でひとを殺めたことがない。一兵士として従軍していた少年時代から今日に至るまで、ただのひとりもだ。戦闘者としての才能に恵まれなかった、というよりは、単純に能力が欠けていたのだろう。シウスクラウドに光を見て以来、勇気は得た。だが、勇気だけではどうすることもできないのが現実というものであり、彼は、戦士として一人前になることはできなかったのだ。

 しかし、振り返れば、ひとりの戦士として、戦闘者として戦場に立つよりも、よほど多くの人間に死を与えてきたのは間違いない。直接手を下すことだけが、ひとを殺めるということではない。殺意を込めた策が実行に移され、その結果、数多くの死者が出たのであれば、それは策を立案した人間が殺したのと同義だ。

 つまるところ、ナーレスはセツナ以上に多くの命を奪ったということになるのかもしれない。もちろん、そのことを誇るつもりもない。

 ただ、厳然たる事実として認めるだけなのだ。

「それなのに、わたしはいま、新たな生命を欲している。都合のいい考え方だとは思わないかい?」

「都合のいい考え方でよろしいではありませんか」

 妻の手が、ナーレスの手に触れた。指と指を絡め合い、恋人同士のように深く結ぶ。薄い闇の中、彼女が照れたように微笑んだのが見えた気がした。

「メリル……」

「人間など、いつだって自分勝手で、いつだって、我儘気ままな生き物でございます。わたくしも、旦那様とこうして一日中抱き合っていられたらと、なんど想ったことか。なんど、戦地に赴く旦那様を引き止め、屋敷に閉じ込めておこうと考えたことか」

 彼女の心情の吐露には、ナーレスはあざやかな驚きを覚えた。まさかメリルがそこまで自分のことを想ってくれているとは想像しようがなかったし、彼女がナーレスを求めるのは、血を残す使命に燃えているからだとばかり思っていた。実際、そういうところもあったはずだったし、それはそれでいいとナーレスは考えていた。

 血は、残さなければならない。

 ナーレス=ラグナホルンがこの世に生きた証のひとつを、子、孫に受け継がせていかなければならない。それこそ、ガンディアへの恩義に報いることになるのだ。自分を見出し、重用してくれたシウスクラウド、そしてシウスクラウドの後を継ぎ、ガンディアのためだけに全生命を燃やしているレオンガンドのためにも、子を成す必要があったのだ。

 そのことについては、クルセルク戦争前に話し合い、彼女を使命に燃え上がらせたものだが、それだけではなかったという事実に、彼は打ちのめされる想いがした。

 すべてを見通す軍師とやらも、こと、妻のことになると視力を失ってしまうらしい。

「卑しいことに、それがわたくしという生き物なのでございます」

「わたしも、さ」

 メリルの手を優しく握り返しながら、ナーレスは口を開いた。細い指。少しでも力を加えたら折れてしまいそうだった。だが、細いのは、自分の指も同じだということに気づいて、愕然とする。彼女の指よりも細いのではないか。

「戦いなんて忘れて、どこかへ行きたかった。もちろん、君を連れてね。わたしたちのことなんて誰も知らない国へいって、そこで静かに暮らすんだよ。小さな家でいい。農家だって構わない。君と一緒にいられるなら、どんな境遇だって生きていけるさ」

「旦那様といられるのなら、農作業だって覚えてみせますわ」

「農作業の本もさ、読みふけったから、だいたいのことはわかるよ」

「まあ、さすがはガンディアの軍師様。どんなことでも知っておられるのですね」

「もちろん」

 だから、いますぐここを出よう。

 などとはいえるはずもなかった。

 ナーレスに残された時間はあまりにも短い。一年も持つわけがなければ、明日消え去ったとしても不思議ではないような状態が、ずっと続いている。保ったほうだ、と思わざるを得ない。

 よく、保ったものだ。

 持ち堪えた。

 使命がなければ、約束がなければ、彼女がいなければ、ナーレスはきっと、とうの昔に死んでいただろう。生に執着し、死の運命に抗ってきたからこそ、今日まで生き抜いてこられたのだ。

 それにも疲れ果てた。

 だが、もう少し持ち堪えなければならない。

 少なくとも、この生命が燃え尽き、消し炭になるまでは、意識を保ち、前を見ていなければならない。妻とふたりだけの幸福な生活に逃げるなど、できるわけがないのだ。ガンディアは強大化したとはいえ、まだまだ敵が多い。敵が外だけにいるのならばまだしも、内にも潜んでいることは明らかなのだ。こんな状況で、軍師が逃げ出すなどありうることではない。

「もう少し」

 ふと、いってしまってから、どう言葉を続けるべきか迷った。迷ううち、メリルが彼の顔を覗き込むようにしてきた。あどけない少女の顔は、いまはやけに女らしく感じられた。

「もう少し?」

「もう少しだけ、歩くよ」

「最後まで――」

 ついていきます、という言葉が聞こえなかったのは、彼女が嗚咽を漏らし始めたからだ。

 ナーレスは彼女が泣き止むまで、その細い体を抱き締め続けた。

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