第八百七十話 五月五日・レオンガンドの場合(四)
そのナーレスが、死ぬ。
ひとがいつか死ぬのは当然のことではあるが、ナーレスの死期は、どうやら目前に迫っているようなのだ。
ナーレスは、かつて、ザルワーンの地下に投獄されていたところを救出され、九死に一生を得ている。しかし、彼によれば、投獄中に出された食事に毒を盛られていたらしく、その毒が、日々、彼の体を蝕んでいるというのだ。それでも彼は戦い続けた。その毒による痛みがどれほどのものなのか、レオンガンドには想像もつかないが、ナーレスは苦痛の表情を見せることもなかった。いつも涼しい顔で、死が迫っていることさえも感じさせない。言葉は涼風が吹くかのようであり、采配は烈風の如く、日常は清風を思わせる――風のような男だと、だれもが囁いた。
最近では、風の様に現れ、嵐のように吹き荒れ、また風の様に去っていく、らしい。
レオンガンドもナーレスという天災の被害に遭っている。それも、ナージュとふたりきりの時間を満喫している最中であったため、レオンガンドも憮然とせざるを得なかったし、ナージュも不機嫌さを隠さなかった。懐妊発表以来、常に微笑みを絶やさないナージュには珍しい反応に、さすがのナーレスも驚いたものだが。
『どうも、調子が良いようで』
ナーレスは、言い訳するでもなく、そんな風にいってのけた。
『体が軽いのです、まるで、昔の自分に戻ったような、そんな気分でして』
朗らかに笑う彼の瞳は、透明だ。どこまでも透き通っていて、見つめている自分の心の穢れが映し出されるようであり、長時間見つめていることは不可能に近かった。
『いまのあなたの目は、まるで心を映す鏡だな』
レオンガンドがいうと、彼は、微笑みを浮かべたものだ。その微笑みそのものが透き通って見えて、レオンガンドは不覚にも目頭が熱くなった。
『その鏡に映る陛下の御心は、いかが?』
『決して自慢できるものではないよ』
『……どうか、御自分を卑下なさりませんように。陛下の御志は、わたくしのみならず、多くの臣民の心を打ち、奮い立たせております。それは、陛下の御心そのものが輝いておられる証拠。むしろ、わたくしの目を鏡のようだと評されるその御心が穢れているはずが御座りますまい』
『あなたはいつだってそうだ』
レオンガンドは、苦笑した。子供の頃から、そうだった。いまもなにひとつ変わっていない。姿形こそ変化し、身なりも大いに変わったはずだったが、本質は、昔からなにも変わってはいないのだ。
『わたしを褒め、その気にさせるのが上手い』
『これだけで食べてきましたから』
ナーレスが冗談をいうことがめずらしくてあっけにとられているうちに、彼は去った。まさに風のように消えた彼は、その足で龍府に向かってしまった。レオンガンドは引き止めなかった。軍師には常に側にいて欲しいものなのだが、彼に頼ってばかりでは、思考力を養うこともできないのも事実だった。それに、ナーレスは結果的にセツナに龍府の領伯を押し付けてしまったことが気にかかっているのであろうし、また、彼の視野がなにかを捉えている可能性もある。
それ以前に、ナーレスには好きにさせようとも、レオンガンドは考えていた。
彼の命の時間は、もはやほとんど残されていない。澄み切った目を見ればわかる。死期を悟ったものの眼だ。死を直視し、受け入れたもののまなざし。見つめていられないのは、そのせいかもしれない。ナーレスが死ぬという事実ほど受け入れ難いものはない。ナーレスがガンディアの将来に必要不可欠だから、ではない。レオンガンドが、彼のためになにもしてやれないという事実を直視しなければならないからだ。
「わたしの命を捧げることができるのならば、捧げたいものだが」
レオンガンドは、密やかにつぶやいた。
レオンガンドとナーレスの関係ほど、微妙なものはない。
ナーレス=ラグナホルンは、レオンガンドの実の父にしてガンディアの先の王シウスクラウドに見出され、その才能を愛された人物だ。軍師としての頭角を現し始めたのも、シウスクラウドに重用され、シウスクラウドの下で様々な物事を学び、才能を研ぎ澄ませている最中のことだった。数多の才能を見出し、才能を才能だけに留めておくことはしなかったシウスクラウドは、やはり、英雄の風格を持っていたのだろう。アルガザード=バルガザールもデイオン=ホークロウも、シウスクラウドの薫陶を受けたからこそ、一線級の人物となったのだ。
人を見る目は、レオンガンドより余程優れたものがあったのは、疑いようがない。シウスクラウドが才能を愛したナーレス、アルガザード、デイオンは、現在のガンディアを支える重要な人物たちであり、彼らに並び立つほどの人物となると、数えるほどしかいなかった。挙げて、アスタル=ラナディースくらいのものであろうか。
などといえば、ナーレスに笑われるに違いない。
『ガンディア人特有の贔屓目ですよ』
脳裏に彼の声が響いた気がして、レオンガンドは目を細めた。その声を直接聞ける機会も、ほとんど残されていないのかもしれない。
「陛下……」
「ナーレスは、わたしなどより、余程この国に必要な人材だ。そうは思わないか?」
「お言葉ですが、陛下。わたくしはそうは思いません。陛下あってこそのいまのガンディアなのは、だれの目にも明らか。軍師殿に代わる人材がいないのも確かですが、陛下に代わってこの国の指揮を執る人材がいないのもまた、確かなのです」
諌めてきたのは、オーギュスト=サンシアンだった。ガンディア有数の貴族であるサンシアン家の当主の秀麗な容貌は、いつにもまして冷ややかな光を帯びている。
「そうはいうがな、オーギュスト。ジゼルコート伯がいるではないか」
「ケルンノール伯の政治手腕は眼を見張るものがあります。陛下がクルセルクに赴いておられる間、この国が安定していることができたのは、ケルンノール伯の手腕と人望があればこそだったのは疑いようのない事実。それは認めましょう。しかし、彼には、ガンディアの将来への展望がない」
「……なるほど」
レオンガンドは、オーギュストの冷徹な分析力に瞠目した。反レオンガンド派に身を置きながらもラインスたちに未来はないと見ぬいたオーギュスト=サンシアンの目は、やはり研ぎ澄まされているのだ。よく見ている。
彼のいうとおりだった。
ジゼルコートの政治手腕は、確かに優れている。並ぶものないほどといってよく、彼ほどの政治家は、ガンディア国内を見渡してもほかにいないだろう。軍師ナーレスですら、政治に関してはジゼルコートに一枚劣るといっていい。ジゼルコートの政治力は、ガンディア一といってよく、彼を敵に回さずに済んだのは、レオンガンドにとって幸運以外のなにものでもなかった。もしジゼルコートが敵に回っていれば、レオンガンドの生涯はとっくに閉じていたかもしれない。
だが、オーギュストのいうように、ジゼルコートの政治は、ガンディアの将来を見据えたものではなかった。現状の維持、あるいは明日への堅実な投資であり、数年先、数十年先を見越すことのできるナーレスや、彼の薫陶を受けたレオンガンドと比較すると、地味な印象を受けざるを得ない。もちろん、それが悪いというのではない。むしろ、レオンガンドが国を空けている間の国政を任せるのに、ジゼルコートほどの適材はいなかった。レオンガンドらが口出しできない間は、現状維持で十分なのだ。レオンガンドの目が届かないところで勝手なことをされるよりはずっといい。だからこそ、レオンガンドはジゼルコートに国を任せ、外征に専念できる、ともいえる。
つまるところ、だれにだって長所と短所がある、ということだ。
ひとりの人間になにもかもできるわけがないのだ。
ナーレスには、軍事的才能以外にも政治家としての手腕もある。人事を任せても適材を適所に配置するだろう。国を運営する能力もある。広い視野は、だれにも持ち得ないものだ。だが、彼は戦えない。剣の扱い方は知っているだろうが、剣を取って戦うような人間ではない。実戦は、兵士に任せるしかないのだ。
圧倒的な戦闘力を誇る人材といえば、セツナがいる。彼は、たったひとりで数千の敵兵に当たることができる。彼もまた、得難い人材だ。戦闘面に関しては、彼一人に任せても十分なほどだ。小さな国ならば、彼一人で制圧できるのではないかと考えることもあるが、実行に移すことはないだろう。武装召喚師は、通常の兵士よりも消耗が激しく、疲労が著しい。砦ひとつ陥落せしめることは簡単にできたとしても、あとが続かない可能性もある。
それはそれとして、セツナの戦闘力は圧巻であり、彼と黒き矛を得ることができたのは、レオンガンドの生涯でもっとも特筆するべき事柄のひとつであろう。だが、彼には戦術家としての才能はないし、政治的手腕を期待するべくもない。人並み外れた戦闘力を有し、英雄と讃えられる彼も、政治家たちに囲まれれば赤子同然となるだろう。
適材適所。
ひとにはできることとできないことがある。それを見定め、配置し、運用する。そのことがどれほど重要なのか、痛いほどわかっている。
そういう意味においても、ナーレスほど重要な人物はいない、という結論に至るのだ。
ナーレスほど人を見ている人間もいない。ナーレスがザルワーンの弱体工作に成功したのも、人を見る目があったからだ。軍人としての実力も才能も持たないゴードン=フェネックをザルワーン国境のナグラシアに配置したことに始まり、さまざまな人事で辣腕を振るった。強国ザルワーンが脆くも崩れ去ったのは、ナーレスという毒が猛威を振るったからに他ならない。ザルワーンが盤石であれば、あれほどの大勝利を得ることはできなかっただろう。
彼を失うのは辛い。
辛いが、目前に迫っている事実を否定することはできない。
彼は、死ぬ。