第八百六十七話 五月五日・レオンガンドの場合(一)
大陸暦五百二年五月五日。
ガンディア王国王都ガンディオン獅子王宮は、定例の朝議を終えたばかりということもあり、圧倒的といってもいいような静謐に包まれていた。床を踏む靴音の反響さえも大きく聞こえるほどの静寂は、むしろ獅子王宮の朝らしいといっても過言ではないのだが。
獅子王宮とは、王宮区画そのものを指す言葉であり、王家の森に囲まれた宮殿群の中でもひときわ巨大な宮殿のことのみを指す場合もあった。ひとつの言葉であっても、状況によって指し示すものは様々であり、ときにはそれが混乱を招いたりすることもある。
そんな獅子王宮の一室に、彼はいつもの面々ともに朝議の疲れが癒えるのを待っていた。クルセルクとの長い戦いが終わり、王妃の懐妊祝いの期間も過ぎ、ようやく内政に専念することができるようになってからというもの、精神的な疲労がたまる一方だった。そして、精神的な疲労というのは、肉体的な疲労と違って、心地良くもなんともないのが問題だ。木剣を用いた訓練などで汗を流すのは、極めて心地いい疲労感をもたらすものだが、会議に次ぐ会議によってもたらされる心の疲れというのは、どうしようもない。
そして、国王たるもの、そういった物事から逃げ出せるはずもなかったし、逃げ出すつもりもなかった。
レオンガンド・レイ=ガンディアは、机の上に置かれた書類に目線を落としながら、使用人が運んできたお茶に手を伸ばした。ここのところ、南方産のお茶ばかり飲んでいるのは、ナージュの懐妊祝いに、と、レマニフラから大量に届けられていたからだ。しかも、レマニフラから届いたのは王宮だけでは処理しきれない量のお茶であり、ナージュがイシュゲルの喜びようが目に見えるようだと笑ってしまうほどだった。捌き切れない分は、御前試合の参加者や重臣たちに与えることで事なきを得たのだが、それにしても、と思わないではない。
レマニフラが乗りに乗っているということもあるのだろうが。
レマニフラは、南方の国だ。小国家群南端に近い国であり、クオラーン、メウニフラと同盟を結び、南方に一大勢力権を築いている。そんな国が小国家群中央部の小国ガンディアに目をつけたというのは不思議な感じがするのだが、シウスクラウドとイシュゲルの関係を知れば、理解できないものでもなかった。イシュゲルは、レオンガンドにシウスクラウド再来の可能性を賭けたのだろう。そして、その賭けは、いまのところ成功しているといってもいいはずだ。
その上、レマニフラという国自身が、国土の拡大を始めていた。レマニフラは、以前より、同盟国であるクオラーンとともにオグスーン領土への侵攻を繰り返しており、最近ではオグスーン領土の大半を制圧することができたという。
レマニフラが勢いに乗っているというのは、イシュゲルから度々届く書簡の文面からもよくわかった。
ふと、そんなことを考えてしまうのは、ここのところ、南方産のお茶ばかり飲んでいるからだろう。ほろ甘い苦味が、口の中に広がり、喉を通り、胃に落ちる。鼻孔に広がる香りはなんともいえぬ癖があり、その癖は好き嫌いの別れるところだろう。レオンガンドは、ナージュの影響もあってか、南方産のお茶だけでいいと思うようになっていたが。
お茶で喉を潤してから、口を開いた。
「今日は五月五日だったな」
五月五日。
反クルセルク連合軍が解散し、実質的にクルセルク戦争が終結してから一月と少しあまり。ガンディアを含め、周辺諸国は、少しずつ落ち着きを取り戻し始めている。連合軍参加国も、アバードを除くほとんどの国が平常化し、本来のあるべき形に戻りつつあった。アバードはどういうわけか不穏な空気に包まれており、事と次第によってはガンディアも行動を起こさなければならないかもしれないという話をナーレスら参謀局の面々がしていたことを、彼は耳にしていた。ナーレスが、セツナが龍府の領伯になることを強く推していたのは、アバードへの対策でもあったのかもしれない。
「確かに五月五日ですな」
ゼフィル=マルディーンが、自慢の口髭を撫でながら肯定した。
昼間だというのに魔晶灯が点けられた広い室内。獅子を象る銀細工の飾りは、獅子王宮中に見られるものだ。銀の獅子こそ、ガンディアの象徴である。そんな銀獅子の光に照らされた長い机を囲むのは、レオンガンドと四人の腹心、それにオーギュスト=サンシアン、エリウス=ログナーといった面々であった。会議というほどのものでもない。朝議が終わったばかりでもあり、休憩も兼ねた集まりといったものだ。
軍師ナーレス=ラグナホルンを始めとする参謀局の面々もいなければ、大将軍アルガザード・バロル=バルガザールを筆頭とする軍部の人間も、この場にはいなかった。それだけ重要性のないものだということであり、そういう意味でも、レオンガンドは気を楽にしていた。もっとも、たとえ重要な会議であったとしても、軍師や参謀局の面々をこの場に揃えることは現実的に不可能なのだが。
彼らはいま、獅子王宮はおろか、この王都にさえいなかった。
「五月五日。このなんの変哲もない一日が、まさかガンディアにとって大事な日になるとは誰が想像したものか」
つぶやいて、胸中で頭を振る。だれも想像し得なかったことに違いない。セツナ=カミヤがある程度の活躍をすることを予期するものはいたといても、ガンディアの中心的人物になるとは思いもよらなかったに違いないし、彼の誕生日である五月五日が特別な日として認識されるなど、想像すらできなかったはずだ。
そう、五月五日は、セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルドが生まれた日なのだ。
「ええ、まったく。王都の一部では騒ぎになっているとか」
「王都の市民とはよくわからないものだな」
レオンガンドは、エリウスの言葉に苦笑を浮かべた。王都のあちこちで、ガンディアの英雄の誕生日を祝うような騒ぎが起きていることは、レオンガンドの耳にも入っている。当然だが、都市警備隊が出動するような物騒なものではない。市街のあちこちでセツナを讃える歌を歌ったり、セツナに会ったことがあるというようなことを自慢しあったりと、常と変わらない光景がいつも以上の人手で行われているというだけのことらしい。微笑ましい、というべきなのだろうし、セツナの人気の凄まじさを喜ぶべきなのだろう。
セツナの王都市民からの支持率は、もはや揺るぎようのないものとなっているのだ。
「中には陛下への不満を吐き出すものもいるとか」
「わたしへの不満?」
「セツナ様が王都にいないということが不満なのでしょう。ガンディアの英雄は、ガンディオンの英雄なのですから」
「わたしがこの王都からセツナを取り上げたからか」
また、苦笑する。
ゼフィルがいった王都市民の不満も、わからなくはなかった。レオンガンド自身、同じような感情を抱かないではない。同じような、であって、まったく同じではないにせよ、だ。セツナがその立場上、ガンディオンを空けることが多くなってしまうのは、レオンガンドとしても受け入れ難い現実だった。セツナは王立親衛隊長であり、ガンディア最強の矛なのだ。常に目の届く範囲にはいて欲しいと思うし、たまには王宮に呼びつけ、一日中側に置いておきたいと思うこともあった。
しかし、彼の功績を讃えるには、領伯の座につかせる以外にはなかった。軍部の人間ではない彼に将軍位を授けるわけにもいかない。かといって、騎士の称号を授けるだけでは、物足りないほどの戦果を上げている。
それに、国政に復帰した領伯への対抗手段も必要だった。たとえ、ジゼルコート・ラーズ=ケルンノールがこの国に害をもたらす気はなくとも、彼の存在感はあまりに大きい。彼が望む望まぬにかかわらず、ケルンノール領伯を頂点とする派閥が形成されるのは、時間の問題だった。ジゼルコートの政治手腕は、シウスクラウドが病に倒れた後のガンディアを長らく維持し続けさせるほどのものであり、影の王として君臨した時代に築き上げた栄光は、国政への復帰後の彼を巨人のように見せていた。
対抗策として、レオンガンドに絶対の忠誠を誓う領伯を立てるのは、悪い判断ではなかったはずであったし、セツナならば適任といえるだろう。セツナがレオンガンドを裏切ることは、ありえない。少なくとも、レオンガンドがセツナの期待を踏みにじるようなことさえしなければ、彼がレオンガンドを見限ることは考えにくい。彼が、地下で燻っている反レオンガンド派の声に耳を傾けるようなことがあれば、それはレオンガンドの落ち度以外のなにものでもない。
「しかし、彼をガンディオンの英雄に留めておくことはできまい。ガンディアの国土が広がるのは、押し並べて彼の活躍のおかげといってもいいのだからな」
黒き矛のセツナがいるからこそ、ガンディアは数多の勝利を積み上げることができたといっても、過言ではない。バルサー要塞の奪還、ログナー戦争はともかくとして、ザルワーン戦争、クルセルク戦争では、セツナがいなければ、結果が変わっていたとしてもなんら不思議ではなかった。ザルワーンの守護龍を撃破するのも、リネンダールの巨鬼を撃破するのも、彼でなければ不可能に近かった。
ザルワーンの守護龍は《白き盾》のクオン=カミヤが封殺することができたかもしれないが、だとしても、バハンダールの攻略に手間取り、魔龍窟の武装召喚師たちに苦戦を強いられたのは間違いないのだ。結果は、大いに変わっただろう。
「その英雄様の誕生日を祝うため、参謀局は総出で龍府に向かったそうですが」
ケリウス=マグナートが神経質そうな表情でいってきた。当初、彼は、異世界人であるセツナを受け入れ難いものと見ていたが、セツナの度重なる活躍、レオンガンドへの忠誠心を目の当たりにして、大いに評価するようになっていた。もっとも、セツナはケリウスへの苦手意識を隠さなかったし、ケリウスとしても、セツナに不興を買うことを恐れ、できるだけ顔を合わさないように配慮していた。そういう点を鑑みると、セツナが王都を空けている期間とは、ケリウスには心の休まる期間なのかもしれない。
ちなみに、セツナは、レオンガンドの四人の腹心のうち、ゼフィル=マルディーンとバレット=ワイズムーンを気に入っているらしかった。ゼフィルは、最初からセツナに親身に接していたこともあるだろうし、バレットは、彼の父親がいつもセツナのためにと防具一式を制作し、セツナに届けているからだろう。バレット自身、セツナの己を顧みない忠誠心には、感心を通り越して呆れているようなところがあるが。
「ああ、知っている。許可を出したのはわたしだ。なに、しばらくは外征に出る余裕はない上、隣国が侵攻してくる可能性もない。参謀局の出番はないということだ」
「普段の仕事ならば、王都でなければできないというわけでもありませんしね」
「そういうことだ。それに龍府ならば、アバードの情報も集めやすかろう」
「アバード……ですか」
「ナーレスは、アバードの動きに備え、セツナを龍府の領伯に推したそうだ」
アバードは、クルセルク戦争において多大な戦力を連合軍に提供した、連合軍主力国のひとつだ。クルセルクの隣国ということもあり、国土が戦場になることも覚悟した上で、連合軍に参加している。特筆するべきは、連合軍に参加したアバード軍の指揮官として王女シーラ・レーウェ=アバードが参戦したということであり、獣姫シーラの活躍は、だれもが記憶していることだろう。彼女の勇猛果敢な戦いぶりに触発されたガンディア軍人も少なくはない。
そして、獣姫率いるアバード軍は、連合軍の一角として、最初から最後まで戦い抜き、サマラ樹林の戦いでは魔王軍魔天衆指揮官ベルクを撃破するという大金星を上げている。
そんな勇猛な姫を輩出したアバードとは、クルセルク戦争の終結後、連合軍の誼で友好的な関係を続けていくはずだったし、それは両国の一致した想いでもあるはずだった。
クルセルクの激戦をくぐり抜けた連合軍の参加国は、どの国も、互いに健闘を讃え合ったものであり、今後の関係についても発展的なものにしていくべく、大いに話し合ったのだ。
しかし、アバードの内情は、予断を許さない状況に来ているようだった。
まず、アバードは国境を閉ざしてしまった。
これでは、友好関係を続けようがない。
かといって、アバードの内政に干渉する権利は、他国たるガンディアにはない。アバードでなにが起きているのかだけでも知りたかったものの、アバードの門戸は硬く閉ざされ、ガンディアの情報部が潜入することもままならなかった。
「セツナが龍府にいるというということは、《獅子の尾》も龍府にいるということだ。アバードになんらかの政変が起き、我が国に敵対行動を取ったとしても、龍府に《獅子の尾》があるかぎり、即座に対処ができる――そういう寸法だろう」
レオンガンドは、ナーレスの視野の広さ、深さについて考えるたび、自分の視界の狭さ、浅さに気づいて愕然とするのだ。ナーレスは、遥か遠方を見ている。遠方を見ながらも、きっと、その輪郭はぼやけてなどいないのだ。視界は鮮明で、だからこそ具体的な策を練ることができ、行動に移すことができる。
セツナの龍府行きによるアバードへの牽制など、レオンガンドには想像もつかないことだ。もちろん、アバードの情勢が不透明だということはわかっていたし、場合によっては、ガンディアと一線交える可能性があることも予測できる。しかし、不確かなアバードの対策のために《獅子の尾》を龍府に置くという大胆な策は、さすがのレオンガンドにも考えつかなかった。いや、考えついたとしても実行に移すことはできないだろう。《獅子の尾》はガンディア最強部隊であるとともに、王立親衛隊――つまり、レオンガンドの身辺に置いておくための部隊なのだ。親衛隊を最前線に配置するなど、通常では考えられない。
(そのわりには、彼らには無理ばかりさせているがな……)
戦時と平時では違う、ということではあるのだが。