第八百六十六話 五月五日・マリクの場合(三)
レイヴンズフェザーの飛行能力を用いて、飛ぶ。
山門街の上空を突っ切れば、役所から傭兵集団《白き盾》の居場所まで一飛びだった。地上を移動するより数倍は早く目的地に辿り着けるのが、飛行能力を有した召喚武装の最大の利点といえるだろう。空中に障害物のあるような都市は、通常、存在しない。
クルセルクの首都クルセールには、皇魔の手による数多の建造物があり、都市上空に浮かぶ物体という物理法則を無視したものもあったのだが、飛行の邪魔になるというほどのものでもなかった。巨大な構造物だ。避けられないはずもない。
山門街の見慣れた町並みを飛び越え、旅館街に到達する。傭兵集団《白き盾》は、旅館街を占拠しているという話だった。
《白き盾》は、総勢二百五十人ほどの団員数を誇る傭兵団だ。宿ひとつ貸し切りにしたところでは足りないのだろう。いくつかの宿に分宿する必要があり、その結果、旅館街が選挙されたと表現するほどの状況になったのだ。《白き盾》がみずから旅館街を占拠しているわけもない。これからリョフ山に入ろうというものが、問題を起こすはずはないのだ。
そういう意味でも、マリクは楽観的ではいた。いかに教会の要注意人物であっても、リョハンの支配領域内で問題となるような行動を起こすわけがない。そんなことがあれば、ただでさえ良くないリョハンとヴァシュタリア共同体の関係は悪化の一途をたどるだろう。ヴァシュタリアにしてみれば、眠れる獣を起こす必要はないのだ。
ヴァシュタリアがいくらリョハンを鬱陶しく思っていても、リョハンを敵に回すことがどれほど危険で厄介なのかは百も承知であり、だからこそ、この数十年、リョハンという存在を黙殺してきたのだ。互いに黙殺し、無視しあうことが、リョハンとヴァシュタリアの関係を良好に保つ唯一の秘訣だった。
リョハンにしても、ヴァシュタリア全土を相手に戦うだけの体力はないと認識していたし、そんなことをする意味は無いということもわかっていた。例えヴァシュタリアに勝利することができたとしても、それがなにを意味するのかというと、ヴァシュタリア共同体の崩壊であり、大陸北部に混沌を招くということでしかない。
リョハンは、小さな都市群に過ぎない。ヴァシュタリア全土を支配しうるだけの力を持ち合わせてはいないし、支配することに興味もなかった。それは、戦女神のみならず、護山会議も同意するところだろう。
リョハンの地の維持。
それこそ、護山会議と戦女神、四大天侍の想いであり、それが一致している限り、リョハンが分裂することはない。
それでも、巡礼教師ラディアン=オールドスマイルの動向には注意を払うべきだった。ラディアンがアレウテラス事変に関わっていたことが問題なのではない。巡礼教師という高位の立場の人間がリョハンに入ってきていることが、問題なのだ。
もっとも、ラディアンを山門街に入れた門番の判断は正しいといえる。教会との間に妙な軋轢を生じさせないためには、問題を起こさない限りは受け入れるべきなのだ。そして、受け入れることと監視の目を強くすることは、必ずしも矛盾するものではない。
旅館街上空に到達すると、東陽公園から気合の入った掛け声が聞こえてきた。公園に向かうと、それこそ問題行動といっても過言ではないような状況に遭遇した。いや、問題にはならないのだが、見るものが見れば、問題視されても仕方のないような光景だったのだ。
(なるほど)
マリクは、だだっ広い公園の一角に降り立ちながら、ひとりうなずいた。
東陽公園には、二百人以上の男女が集まっていた。皆、同じ衣服を着ている。黒地の運動服で、背に白い翼が描かれている。《白き盾》の団員たちだ。二百人ということは、団員総出ということなのだろう。
彼らが手にしているのは、木剣や木槍であり、気合とともに打ち合う様は、清々しいとさえいっていいのかもしれない。
見てわかるように、全員、訓練を行っているのだ。
見回せば、《白き盾》の幹部たちの姿もあった。《白き盾》が誇るふたりの武装召喚師ウォルド=マスティアにマナ=エリクシアも、団員に混じって木剣を振るっていたし、イリスなどは両手に二本の木剣を持ち、複数人の団員を相手に大立ち回りを演じていた。元騎士グラハム指導は、他の幹部たちとは趣の異なるものであり、彼の前に集まった団員たちは、緊張の面持ちで彼の言葉に耳を傾けていた。
スウィール=ラナガウディなる老人は、訓練そのものには参加せず、団員たちに声をかけて回っていた。とても戦闘要員に見えないように、実際、彼が剣を取るようなことはないのだろう。
マリクは、自分の知人のように彼らを見ている自分に気づき、苦笑した。実際は知人でもなんでもない。見たことも、会ったこともない連中ばかりだった。黒き矛から逆流してきたセツナの記憶が、マリクに既知の感覚を与えている。
公園内には、当然のようにクオン=カミヤもいた。これほどの人数が集まっているのだ。団長である彼がいないはずはなかった。
しかし、彼は訓練に参加するというよりは、訓練所を提供しているといったほうが正しいようだった。彼は、公園に設置された長椅子に腰を下ろし、団員たちが気合とともに木剣や木槍を振り回す様を見守っていた。ただ見守っているのではない。彼の手には、真円を描く純白の盾が抱えられていた。シールドオブメサイアだ。
無敵の防御障壁を生み出す召喚武装は、絶大な破壊力を誇る召喚武装カオスブリンガーの対極に位置するといっても過言ではない。なにもかもを打ち砕く黒き矛と、あらゆる攻撃から身を守る白き盾。黒き矛の能力も大概狂っているといってもいいほどに飛び抜けたものだが、シールドオブメサイアの能力も、マリクが知る限り、異常なほどに強力だった。
そして、その強力無比な能力こそ、《白き盾》を大陸でもっとも有名な傭兵集団へと引き上げた最大の要因であり、原因だった。
シールドオブメサイアがあるかぎり、《白き盾》そのものが負けることはありえない。負けないということほど傭兵集団の評価を上げるものはない。不敗の集団。無敵の軍団。不滅の傭兵団。《白き盾》の評価は、傭兵団が結成されてからというもの、圧倒的な速度で高まっていったという。いまでは、小国家群のみならず、三大勢力にまでその名を轟かせている。
もっとも、三大勢力が注目しているのは、黒き矛のセツナも同様のようだが。
大陸中の注目を浴びるふたりが知り合いであり、この世界の住人ではないということに奇妙な縁を感じずにはいられないし、そのふたりが紅き魔人アズマリア=アルテマックスによって召喚されたという事実も、特筆するべきことだった。
そういう意味でも、マリクは彼に接触する必要があったのだ。
「ようこそ、リョハンへ。クオン=カミヤ」
マリクは、訓練中の傭兵たちの頭上を飛翔してクオンの元に降り立つと、そういって彼に話しかけた。近くにラディアン=オールドスマイルらしき人物が立っていたが、まずは、《白き盾》の主たるクオンに声をかけるべきだと判断した。
クオンは、驚きもせずにこちらを見て、微笑んだ。シールドオブメサイアはとてつもなく強力な召喚武装だ。その感知範囲もとんでもなく広いに違いなく、マリクが近づいてきていることもずっと前から認識していたに違いない。マリクが黒き矛を握ったとき、世界が変わったかのような衝撃を受けたことを覚えている。
「はじめまして。傭兵団《白き盾》の団長を務めていますクオン=カミヤです」
「こちらこそ、はじめまして。ぼくはリョハンの四大天侍のひとり、マリク=マジク。リョハン護山会議の使徒でもあるけれど、四大天侍のほうが通りがいいかな」
答えながら、ラディアンを一瞥する。剃髪の巡礼教師は、マリクを視界に入れないようにしているらしく、挨拶をしてくる様子さえなかった。
「四大天侍ほどのお方が、どうしてここに?」
「あまりに物々しいからね。山門街を制圧するための作戦会議かと思ったんだけど」
「そんなことするわけないじゃないですか。入山許可が降りるまで待っているっていうのに」
マリクの言葉に、クオンが苦笑した。マリクの記憶の中にある通り、彼は、とてつもなく笑顔のまばゆい少年だった。マリクの記憶の中にあるのは、セツナの記憶の映像である。セツナにとっては受け入れ難かった笑顔は、マリクからみれば、とても人間的な魅力にあふれたものだった。だからこそセツナには受け入れがたかったのも理解できる。彼には、その優しさが信用ならなかったのだ。
もっとも、いまのセツナならば、クオンのどんな笑顔も受け入れられるのだろうが。
「それもそうか。山門街を制圧するつもりなら、入山許可を待つ必要はないな」
「それに、リョハンそのものを敵に回すことに、なんの意味があるんです?」
「ないね。絶望を味わいたいのなら話は別だけれど」
「絶望ですか」
彼が少し驚いたような顔をした。まさか、リョハンの四大天侍の口から、そのような言葉が出るとは想いもしていなかったに違いない。
「戦女神と四大天侍だけがリョハンの戦力じゃない。何十人、何百人の武装召喚師が、この山に隠れ住んでいる。その全員を敵に回すということは、絶望以外のなにものでもないでしょ?」
シールドオブメサイアは確かに強力だ。並ぶもののない能力を持っているといっても過言ではなかったし、シールドオブメサイア以上に強力な防御能力を有した召喚武装は想像もつかなかった。
シールドオブメサイアとは、あらゆる攻撃から身を守る盾なのだ。しかも、ただの盾ではない。召喚武装のあらゆる武器がただの武器ではないのと同じように、シールドオブメサイアも強力極まる能力を持っていた。それは、防御範囲の拡張であり、しかも様々な方法で使い分けができた。たとえば、広範囲の敵味方の攻撃を無力化したり、味方だけを選別する防壁を構築することもできた。
そして、それらの防壁を打ち破ることは、簡単なことではなかった。
黒き矛の一撃さえも防ぐような防壁だ。戦女神の閃刀・昴でも切り裂くことはかなわないだろうし、マリクのエレメンタルセブンやニュウ=ディーのブレスブレスさえも無力化されるだろう。
だが、リョハン側が《白き盾》に負けることもまた、ありえない。
クオンは常人だ。無制限に召喚武装を呼び続けることができるわけでもなければ、防御空間を維持し続けることができるわけでもない。いずれ力尽き、防御結界は消えてなくなる。そのとき、四大天侍と戦女神は猛威を振るうだろう。《白き盾》は呆気無く壊滅するに違いない。
もっとも、そんな仮定になんの意味もなく、彼は胸中で苦笑した。
「確かに」
クオンは、マリクの考えを読んだのか、それとも、彼なりに結論を出したからなのか、マリクの言葉を否定しなかった。そういうところも、クオンのクオンたる所以だ。そして、そういうクオンらしさを嫌っていたのが、一昔前のセツナだった。
(なんでセツナのことばかり?)
自分の頭の中に浮かぶ考えがあの少年のことばかりだという事実に、呆れざるを得ない。いくら逆流現象が起きたとはいえ、適切に処理したはずであり、ミリュウのような影響など受けてはいないというのに、どうして、彼のことを考えるのだろう。どうでもいいことだ。他人の人生、他人の価値観、他人の感情、他人の想い出に浸りたくなどはない。
それなのに、彼のことを考えてしまうのは、どういうことなのか。
きっと、感傷のせいだ。
そしてその感傷は、クオールのせいだ。クオールの召喚武装を受け継ぎ、役割を引き継いだことが、結果として、マリクの精神面に多大な影を落としている。必ずしも悪いことではないのだが、その結果、大事なものを見落とすことだってありうるということを、彼は、知っている。
忘れてはならないことがある。
そのために彼はいまを生きているのだから。
「ま、それはそれとして……」
マリクは、視線をクオンの後方に立ち尽くす長身の男に向けた。巡礼教師ラディアン=オールドスマイル。子供が見れば泣き出すのではないかと想えるほど厳しい顔つきの男だが、きっと、そのことを気にいしているのだろう――常に笑顔を湛えていた。しかし、剃髪で強面の男が笑顔を浮かべても、さらに恐怖を与えるだけかもしれず、彼の印象を覆すことはできないだろうことは間違いなかった。
「ラディアン=オールドスマイル巡礼教師は、なんの目的で、ここにいるのでしょうか?」
「いきなり質問とは不躾ですネ」
ラディアンは、言葉とは裏腹に、笑顔のままこちらに向き直った。身長のみならず、体格も立派だ。筋骨隆々といっていい。さすがは巡礼教師として大陸各地を歩いて回るだけの人物だといえた。巡礼教師の旅は、もちろん、ひとりで行うものではない。巡礼教師には専属の僧兵部隊が付き従っているのだが、長い旅路、僧兵だけではなく、巡礼教師そのものにも鍛え上げられた肉体が求められた。
ラディアン=オールドスマイルは、及第点を遥かに越えた肉体の持ち主のようであり、戦場に出ても一線級の活躍が期待できるだろう。もっとも、巡礼教師の本分は説教であって戦闘ではないし、教師みずからが剣を振るうことは、教会が禁じていることでもある。戦うのは僧兵や神殿騎士の仕事であり、教師の役目などではない。
マリクは、彼と自分との体格差を認めながらも、彼に負ける気のしない自分の気の強さに笑いたくなった。それは、マリク自身の肉体もまた、武装召喚師として最高水準にまで鍛え上げられているからでもあるのだが、控えめに見て圧倒的な力の差を認めざるを得ない相手に対して、張り合おうとする自分には、苦笑してしまうのが実情だ。負けることはないにしても、張り合う必要はない。
「回りくどいのは嫌いなんだよね」
「ふム……。それはわたくしも同意したいところでありまス。なので、単刀直入にいいますが、わたくしの目的はクオン=カミヤ殿をレイディオンに導くということであり、ここにいるのはクオン殿の寄り道についてきただけに過ぎませン。目的などないというわけですネ」
ラディアンの返答は、わかりやすく、簡潔なものだった。隠している真意があるようにも感じられないし、言動に不審な点も見受けられなかった。マリクは召喚武装を展開していることもあり、動揺によって生まれる表情の僅かな変化も見逃さないのだが、ラディアンの怖い笑顔になんの変化もなかった。そういう意味では、彼の笑顔に一応の意味はあるのかもしれない。常に一定の表情を浮かべていられるということは、表情の変化から真意や感情を読み取られることはないということだ。
「なるほどね。この団長さんの勝手気ままに振り回されているってわけか」
「勝手気まま……って」
「まあ、そういうことでス。リョハンとの関係を悪化させるような行動を取ることはありえませんので、どうかご安心くださイ」
「それなら安心だ」
「ははハ。マリク殿が話のわかってくださる方でよかっタ」
ラディアンが大袈裟な身振りで胸を撫で下ろしてみせた。大袈裟な動作に見えるのは、彼が大柄だということも大いに関係有るのだろうが、いまのは、明らかにわざと大袈裟に動いていた。マリクは、笑顔を浮かべながら、ラディアンに釘を差した。
「本当にね。シヴィルならもっと厳しく追求しただろうし、カートなら有無をいわさず強制退去だったかもね」
「ははははハ……。笑えませんネ」
「冗談じゃないからね」
「ふむゥ……」
ぐうの音も出ないといった有様の巡礼教師を見つめながら、さらに言葉を続ける。
「まあ、監視下にあるから、行動の起こしようもないと思うけど、一応、警告しておくよ。リョハンの戦女神と四大天侍は、この地を乱すものを許さない。それがだれであれ、どんな理由であれ、ね」
「もちろん、わかっていますよ。こちらでも、ラディアンさんの動向は監視していますから」
「へえ?」
「なんト……」
愕然とするラディアンに対し、クオンは申し訳無さそうな顔をしたものの、謝ったり訂正したりということは一切なかった。《白き盾》の団長として譲れない部分があるのだろう。
(それなら、安心か)
少なくとも、クオン=カミヤは、ラディアン=オールドスマイルより余程信用できる。彼が監視している以上、ラディアンが問題行動を起こす可能性は極めて低い。ラディアンが、教会命令によってクオンをレイディオンに連れて行こうとしているのなら、なおさらだ。クオンの不興を買えば、彼は任務を果たすことができなくなる。教師にとって、教会は絶対の存在だ。教会の任務をないがしろにするような行動を取ることなど、ありえない。
(もちろん、教会がリョハンの破壊工作でも命令していなければ、の話だけれど)
マリクは、クオンとラディアンがなにやら話し始めたのを横目に見ながら、ヴァシュタリアがリョハンと戦うという可能性の低さに肩を竦めた。
要らぬ心配だ。
戦女神というリョハン最大の指導者が生きている間は、ヴァシュタリアが仕掛けてくることはありえない。