第八百六十四話 五月五日・マリクの場合(一)
空中都市リョハン。
その名を聞いてまず想像するのは、空に浮かぶ都市の姿かもしれない。
イルス・ヴァレの神話に登場する天空都市群といえば、遥か上空を游いでいるものとして伝えられているからだ。
天空都市群。五百年どころか何千年もの昔、神話の時代にこのイルス・ヴァレの天を覆った都市国家群の総称である。どうやって空を浮いていたのかは不明だが、神話時代の終焉とともに墜落した都市群は、ワーグラーン大陸の各地に遺跡として残っている。しかも、元からそこにあったものではないという証拠が発見されており、上空から落下してきたものであり、天空都市群が実在したことは確かだということだった。
しかし、それは神話の時代の話である。現代の大陸にそんな都市が存在するはずもなく、実際のリョハンは、山の頂に位置していた。周囲四方、見渡す限り空の景色であるから、空中都市と呼ばれるのだ。
また、リョハンには、リョフ山の各地に点在する都市群の総称という側面もある。
リョフ山の麓に位置し、玄関口ともいえる山門街。
リョフ山の中腹に横たわり、中継地点ともいえる山間市。
リョフ山の頂に在り、すべての頂点ともいえる空中都。
これらをまとめてリョハンと呼ぶことのほうが、多い。そして、それもまた、間違いではないのだ。山門街から空中都に至るまでのすべての領域が、ヴァシュタリア共同体勢力圏内唯一の独立都市なのだから。
ヴァシュタラ教会によって制圧された大陸北部において、ただひとつ、リョハンだけが独立不羈を貫いている。リョハンだけがヴァシュタリアの圧倒的動員力に対抗することができたからであり、リョハンだけが、三大勢力に匹敵するだけの戦力を有しているからだ。
リョハンは、武装召喚師の原点ともいえる地であり、ワーグラーン大陸に武装召喚術を広めた《大陸召喚師協会》の総本山でもある。リョハンに生まれ育ったものの多くが武装召喚師になることを望んだ。強要されるのではなく、みずから望むのだ。結果、リョハンには、数えきれないほどの武装召喚師が誕生した。そして、日夜切磋琢磨する武装召喚師たちが、世界最高峰の実力者ばかりになるのは、必然といってもよかった。
いかにヴァシュタリアが何十万人もの兵力を動員したところで、リョハンの鉄壁の防御を破ることもできなければ、戦力を拮抗状態に持っていくことすら敵わなかったということだ。もちろん、武装召喚師を総動員したから勝てた、というわけではない。リョハンがあらゆる事態に備えていたということもあれば、指導者に恵まれていたということもあるのだろう。
何十年も前の話。
少なくとも彼が生まれるずっと前の話であり、彼にとっては夢の中の出来事と同じくらいあやふやで、不確かなものだ。だが、リョハンが何十倍、何百倍の兵力を動員したヴァシュタリアの軍勢を撃退し、ヴァシュタリアから独立自治を勝ち取ったのは事実だ。
リョハンは今日も、ヴァシュタリアの広大な支配地域の中で、孤島のように浮かんでいる。
大陸暦五百二年五月五日。
クルセルクでの大戦争が終わって、一ヶ月と少しばかりが経過していた。
リョハンの武装召喚師たちは、クルセールからリョハンまで、わずか十日で帰り着くことができている。通常では考えられないほど短い日数だったが、それはリョハンからガンディア・ザルワーン地方に向かうときと同じだった。ザルワーンに向かうときよりも不安定な経路ではあったが、そればかりは仕方のないことだ。彼は、その召喚武装を扱い慣れていなかったし、負担の大きさにも初めて気づいたからだ。
不意に、彼の隣に気配が生まれた。見ると、あらわな太腿が眩しかった。視線を感じる。仰ぐと、ニュウ=ディーの目線が冷ややかだった。
「どこに注目してるのかしら」
「いやあ、爆乳ディーの太腿も素敵だなーって」
もちろん、いつも通りの豊満な胸も、眼福といっていい。
「はあ、心配して損したわ。返してくれる?」
「なにをさ」
彼は、彼女が隣の石段に腰を下ろすのを待ってから、口を開いた。
空中都の試練の座と呼ばれる広場に彼らはいた。武装召喚師たちのためだけに解放されている訓練施設には、召喚武装の威力、精度を確かめるため、様々なものが設置されている。空中に固定された的や召喚武装の能力に反応して移動する的、一定の間隔で矢を発射する装置など、多様な訓練方法に対応した設備は、ある程度の水準に達した武装召喚師が自身を鍛えるには最適のものといえた。
その試練の座を見下ろす石の階段に、彼は腰掛けていた。そして、だれもいない試練の座を眺めながら、時が流れていくのを感じていた。
空中都は、大陸の都市でありながら、城壁に囲われていない数少ない都市のひとつといっていい。リョフ山そのものが、皇魔の侵攻を阻む防壁として機能している以上、城壁を構築する必要がないのだ。だから、リョハンの様々な場所から青空を見渡すことができる。流れる雲を眼下に捉えることができる。時が流れていくのを、ゆったりと実感することができる。
「損した分を、よ」
「いいけど、どうやって返そうか?」
彼が尋ねると、ニュウは、きょとんとした。その表情のあどけなさが彼女の魅力を増大したのだが、彼女はきっと気づいてはいないだろう。彼だけが気づいているのかもしれないし、彼女以外のだれもが知っている事実なのかもしれない。いずれにせよ、ニュウ=ディーは魅力的な女性だった。
「……どうしたの?」
「なにが?」
「らしくないじゃない」
「そう?」
「いつものマリク=マジクなら、そんな返答はしないんじゃないかな」
ニュウは、遠方を見やりながらいってきた。彼女が遠くを見る目もまた、研ぎ澄まされた刃のように美しい。彼女もまた、生粋の武装召喚師だ。鍛え上げられた体に無駄な肉は少ない。贅肉も筋肉も、だ。ただ、大きな胸と尻が特徴的な彼女の外見からは、彼女がリョハンでも最高峰の武装召喚師のひとりだということをうかがい知ることはできないが。
「……そうかもね」
「なにかあった?」
「いろいろ」
「へえ。リョハン始まって以来の天才児マリク=マジク様にも悩みがあるのでございますか」
「本当、変な感じ」
「ん?」
「悩みなんて、なかったはずなんだけどな」
マリクは、茫然とつぶやいた。
悩み。
苦しんでいるわけではない。
ただ、悩んでいる。
頭の中に数多の考えが浮かんでは消えて、また浮かぶ。思考の混乱。頭の中に自分以外のだれかが住み着いているかのような不快感がある、もちろん、他人が住み着くなどということはありえない。黒き矛を手にしたことによる反動でもない、逆流現象は、適切に処理したのだ。影響などあるはずもない。セツナはセツナであり、自分は自分だ。同化して考えることなどない。
では、なにが引っかかっているのか。
「きっと、あのひとのことがあるんだと思う」
「あのひと?」
「クオール」
「ああ……」
ニュウがうなずいてから黙りこんだのは、彼とクオールの関係について詳しくは知らないからだ。知らないなりにも、なにかしらは察している。
マリクは、クオール=イーゼンの形見を受け継ぐようにして、抱えている。ひとつは、クオールがみずからの力を高めるために召喚した腕輪。傷だらけの腕輪は召喚武装としての機能を発揮しなくなったものの、装身具として身につけておくことができないわけではない。
ひとつは、クオールがみずから編み出した術式であり、召喚武装である。レイヴンズフェザー。翼型の召喚武装であるそれは、超加速という他の翼型召喚武装には見られない能力を持っている。クオールが護山会議の使徒として各地を飛び回っていたのは、レイヴンズフェザーの能力によるところが大きい。そして、レイヴンズフェザーがあったからこそ、マリクたちはクルセルク戦争に参加することができたのだ。
もし、マリクたちがクルセルク戦争に参戦していなければ、結果は、また違ったものになっていたかもしれない。
ともかく、マリクはクオールの遺産を引き継いだ。彼の役割とともに。
四大天侍の一角にして、護山会議の使徒となった彼は、休む時間もないほどに忙しい。いまも、仕事に追われている最中だったのだ。
「クオール。きっと大変だったんだと思う。辛かったんだと思う。ぼくですら、こうだもの」
「レイヴンズフェザー?」
「うん」
レイヴンズフェザーの能力は、特筆するべきものだ。人智を超えた超加速は、レイヴンズフェザーの飛行能力と併用することで、いかようにも力を発揮することができる。長距離移動などお手のものであり、空中都から山門街への移動も、ほんの一瞬といっていいほどのものだった。リョハンという広大な都市内の連絡手段としてクオールが重用されるのも、当然といってよかった。
彼は、護山会議に扱き使われていたが、泣き言ひとついわなかった。苦しい表情も見せなければ、不満のひとつも漏らさなかった。仕事に満足しているともいわなかったが。
「いまなら、クオールの苦しみがわかる気がする」
超加速飛行は至極便利な能力だが、多用すると命に関わる代物でもあった。
使用者の血を消耗するからだ。
消費した血を補うもっとも簡単な方法は、レイヴンズフェザーのもうひとつの能力である、吸血能力を用いることだ。他人から血を吸うこの能力は、吸った血を自分の血液とすることができるというものであり、クオールが“吸血鬼”と呼ばれる所以となった能力だった。もちろん、吸血能力を用いずとも、血が回復するのを待つこともできる。しかし、レイヴンズフェザーを召喚し、超加速能力を駆使すれば、血を吸わざるを得なくなるのだ。
喉が渇く。
血を吸わなければ潤すことのできない渇き。
“吸血鬼”と呼ばれることを忌み嫌ったクオールは、余程のことがない限り他人の血を吸わなかったが、それはこの耐え難い渇きと戦い続けているということでもあった。
「血、吸いたい?」
「いまは、いいや」
「いつでもいってくれていいからね」
彼女はそういうと、石段から立ち上がって大きく伸びをした。そのときばかりは、マリクは、彼女の胸ではなく、横顔を見ていた。
「ありがと」
「いいのよ。気にしないで」
ニュウ=ディーの優しさが染み入るようであり、マリクは目を細めた。彼女はどうして、こうまで優しいのだろう。優しくて、厳しくて、柔らかくて、冷たくて、温かい。人間とは、どうしてこうも、彼の琴線に触れるのだろう。
ニュウだけではない。クオールもそうだったし、ファリア=バルディッシュもそうだった。彼らは、マリクのようなものにまで手を差し伸べてくれるのだ。手を差し伸べるだけではない。手を掴んで、引き上げてくる。
人間の次元にまで、引き上げてくれる。
だから、彼は人間でいられるのだろう。