第八百六十一話 五月五日・クオンの場合(一)
大陸北部一帯は、一般的にヴァシュタリア共同体の勢力圏だといわれている。
ヴァシュタリア共同体とは、大陸を三分する勢力のひとつであり、もっとも結束力の強い勢力として知られる。至高神ヴァシュタラを唯一の神として崇め、神の教えを説くヴァシュタラ教会を中心とする生活共同体であり、所属する人間の九割以上がヴァシュタラ教徒だといわれている。残る一割もヴァシュタラ神そのものを崇めているという。
ヴァシュタラは、約五百年前、降って湧いたように信仰されるようになった神なのだが、いまでは古くから信仰されてきたドラゴンに代わるものとして、多くの人々の信仰を集めていた。そして、それは大陸北部に限った話ではない。ヴァシュタラの教えは、大陸北部から大陸南部へと浸透を始めており、ザイオン帝国の北部や神聖ディール王国北部でも信徒が増えつつあるという。
帝国では、ヴァシュタラの教えそのものを禁じてはいなかったものの、ヴァシュタラ信徒の増大により、ヴァシュタリアに内通するものが現れることを恐れ、帝国領内での布教活動を禁止した。ヴァシュタラを信仰したいのであれば、ヴァシュタリアの勢力圏に向かえ、とは帝国領内でよくいわれる言葉だ。帝国の国民が信仰するべきは北の大地の新興神ではなく、帝国の祖である始皇帝ハインであるべきなのだろう。
神聖ディール王国は、帝国よりも余程苛烈に対処しているという風聞が流れている。ディール王国内におけるヴァシュタラ信徒への弾圧は筆舌に尽くしがたいものであり、ヴァシュタリア勢力圏内に逃れるディール王国民が後を絶たないともいわれている。王国軍が、ヴァシュタラの教えに染まった村をひとつ、地図上から消滅させたとまで噂されるほどだ。
もっとも、そういった噂を鵜呑みにしていいかというと、そういうわけではない。
「教会が正当性を強化するために流した噂という可能性もありますネ」
ラディアン=オールドスマイルは、自分の剃髪した頭を撫でながらそんなことをいって、場の空気を凍らせたものだ。ラディアン=オールドスマイルは、ヴァシュタラ教会の巡礼教師だ。巡礼教師とは、ヴァシュタリア勢力圏内のみならず、大陸小国家群の各地を巡礼し、布教活動や、各地に住むヴァシュタラ信徒に対して説教を行う役職である。つまり、移動する小教会といってよく、その役割上、教会の中でも地位の高い人物が任命される役職だという話だった。地位の低い人間では、教会の顔にはなれない、ということだ。
そんな立場の人間が、教会の評判を貶めるようなことを口にしても平気なのだろうか。
クオンを始めとする《白き盾》の幹部たちが沈黙したのは、ラディアンの立場についての知識があるからだった。そして、その言葉について言及すると、害が自分に及ぶかもしれないからでもある。
クオン率いる傭兵集団《白き盾》はいま、ヴァシュタリア共同体の勢力圏内にいた。どこにヴァシュタラ教会の目があり、耳があるのか、わかったものではない。いや、ヴァシュタラ教会の耳目など、どこにでもあるのだろうし、勢力圏内に入った限り、そんなことを気にするべきではないこともわかっているのだが。
クオンの目的地は、ヴァシュタラ教会の中心ともいえる大陸最北の都レイディオンだ。北に向かえという助言は、おそらく、レイディオンに向かえということなのだと、彼は断定していた。もし間違っているのであれば、その時は別の場所を目指せばいいだけのことだ。時間はある。
しかし、北の大地は広い。広く、想像だにしない光景ばかりを目にしてきている。見渡す限りのだだっぴろい平原が続いているかと思えば、とても天然自然にできたものとは思えないような奇妙な景色に遭遇してきた。凍りついた回廊や、虹の山脈、黒曜石の塔、古龍の死骸といった地名の数々は、それこそ、この世界が、クオンの生まれ育った世界とはまったくの異世界であることを思い知らせるものだった。とくに、百メートル級のドラゴンの亡骸が大地と融合した“古龍の死骸”と呼ばれる場所は、彼の記憶に焼き付くほどの絶景であり、セツナが見ればきっと喜ぶだろうと思ったものだった。
セツナ。
彼のことを考える時間は、日に日に減っていっていた。この世界に召喚されてからというもの、毎日のように彼のことを考えていたものだ。心配で心配でたまらなかったのだ。彼はひとりでやっていけるだろうか。自分の助けがなくても、うまくやっていけるだろうか。勝手な心配。余計なお節介。そんなことはわかっている。わかりきっている。それでも、手を差し伸べずにはいられなかった。最初に出会ったときの卑屈な笑顔を思い出せば、そうせざるを得なかったのだ。
しかし、彼に差し伸べていた手が、実は過去の自分に向けて伸ばしていたものだと気づいたとき、なにもかもが吹っ切れた。セツナをひとりの人間として認識し、自分との間に横たわる距離感も把握できた。彼と自分は違う生き物だ。
理解が、クオンを目覚めさせた。
クオンは、もはやセツナのことを心配しなくなった。彼には仲間がいる。仲間がいて、居場所がある。だから、なにも心配する必要はない。どのような艱難辛苦も乗り越えられる強さが、彼にはあるのだ。そして実際、魔王軍との戦いに勝利したという話も聞いている。セツナの大活躍は、北の大地にまで響き渡っていた。
竜殺しセツナという異名については以前から知られていたようだが、いまは魔屠りなる新たな二つ名が風のような速さで広まりつつある。万魔不当ともいうらしい。黒き矛を手にしたセツナには敵などいないのだ。
クオンは自分の見る目のなさを笑うしかなかった。
そんな風にして、彼の日々は過ぎていく。
北を目指し、歩き続けた。
道中、皇魔と戦うこともあった。移動中に襲われ、撃退したこともあれば、野営中に襲撃されたこともあった。旅をしていると、城壁都市の中がいかに安全なのかがよくわかるというものだ。城壁に囲われた都市の中にいる限り、皇魔に襲われることはないのだ。逆をいえば、一歩でも城壁の外に出ると、そこは皇魔の天下であり、いつ皇魔に襲われたとしても不思議ではない。
ヴァシュタリア勢力圏に入ってからというもの、特にそう感じることが多かったのだが、それもしかたのないことだったのかもしれない。このあまりに広い大地には、数多くの皇魔の巣があり、教会の皇魔討伐部隊(聖罰隊というらしい)だけでは対処しきれないというのが実情らしかった。
しかし、《白き盾》にとって皇魔との戦いほど手慣れたものはない。皇魔の急襲に対しても被害という被害を出すこともなかった。真っ先にクオンが対応することができれば、被害など生じるはずもないのだ。そして、クオンが術式の展開に手間取るということなど、万に一つもない。彼は術式の結語を唱えるだけで、その強力無比な召喚武装を呼び出すことができた。
シールドオブメサイア。無敵の盾は、《白き盾》の代名詞であり、クオンを象徴する召喚武装だ。
皇魔に襲われるだけではなく、皇魔の巣を焼き払いに出向くこともあった。道中、立ち寄った街で皇魔の巣の情報を耳にすると、クオンはすぐさま部隊を編成し、巣に急行した。
「だれにいわれるでもなく、なにを求めるでもなく、ただ無辜の民を救う――クオン様はまるで天から遣わされた救世主のようですネ」
ラディアン=オールドスマイルの屈託のない言葉は、賞賛というよりは感想に近かった。彼が本心からそう想っているのが伝わってくるのだ。クオンがラディアンを気に入っているのは、そういうところになる。私心がなく、欲がなく、考えるのは教会のためになることだけであり、困窮した民には救いの手を差し伸べることを忘れない。神の教えを説くものにあるべき姿だといえた。
クオンは、そんな彼を困らせることになる。
「リョハンへ、ですカ?」
「うん。行ってみたいんだ」
ラディアンが初めて難色を示したのは、クオンが突然、リョハンに行きたいと言い出したからだ。
空中都市リョハン。ヴァシュタリア勢力圏内で唯一、ヴァシュタラの教えを受け入れず、独自の信仰によって成り立つ都市である。何十年も昔、ヴァシュタリアはリョハンの勝手を認めず、軍を差し向けた。しかし、長年に渡る闘争は、終始リョハンの優勢で推移し続け、ついにはヴァシュタリアもリョハンの独立自治を認めざるを得なくなったという。そのとき、リョハンの先頭に立って指揮を取ったのが戦女神ファリア=バルディッシュであり、ガンディアのファリア・ベルファリア=アスラリアは、彼女の孫娘だということだが。
それはそれとして、ラディアンが難色を示したのは、ヴァシュタラ教会の巡礼教師であり彼にしてみれば、リョハンは旧敵といっても過言ではないからに違いない。それに、彼はいち早くクオンたちをレイディオンに向かわせたいようなのだ。寄り道に難色を示すのは、当然と言えた。それでも皇魔の巣の破壊に対しては理解を示すあたり、よくできた人物だ。
クオンがリョハンに興味を持ったのは、単純な知的好奇心からだった。
「武装召喚師なら、一度はその総本山を拝んでおくのも悪くはないか」
クオンが提案した会議の席上、ウォルドが重々しくうなずいた。ウォルド=マスティアは筋骨隆々の外見からは想像しにくいのだが、生粋の武装召喚師であり、日々、武装召喚術の研究と研鑽を怠らない研究者肌の人物なのだ。彼がこの寄り道に賛成するだろうことは最初からわかっていた。それは、マナ=エリクシアも同じだ。
「ええ、わたくしもウォルドに同意です。武装召喚師たるもの、一度はリョハンの地を踏んでみたいものですから」
彼女は、控えめながらも、嬉しそうな表情を覗かせた。マナもまた、生粋の武装召喚師だ。武装召喚術の総本山ともいえるリョハンに興味を持っていないはずがなかった。
「わたしは、クオンが行くのなら行くが」
イリスが同意を示すと、グラハムとスウィール=ラナガウディもうなずいた。イリスにしても、グラハム、スウィールにしても、武装召喚術に興味があるわけではないにせよ、空中都市リョハンそのものには好奇心を抱いているようだった。空中都市という響きだけでなく、リョハンは、その存在そのものが歴史的価値のある都市だという。見聞を広める意味でも、一度は立ち寄っておくべき場所なのかもしれない。
「わらわに山登りをせよと申すのじゃな?」
幹部の中でただひとり、ミルレーナだけが眉根を寄せた。ジュワインの元王女である彼女は、《白き盾》に加入するとともに幹部となっている。団員たちからしてみれば疑問に思うところもあるかもしれなかったが、むしろ彼女を一般団員に混ぜないことこそ、《白き盾》を混乱から救う手立てだとクオンは考えていた。彼女の傍若無人な言動の数々は、団員たちを混乱させかねない。
「嫌なら残ってもいいんだぜ? 姫さんよ」
「そうだな、それがいい。姫さまにはここに残っていてもらおう。永遠に」
ウォルドとイリスが冷ややかな言葉を浴びせると、ミルレーナはむしろ、嬉しそうに表情を緩めるのだ。
「ウォルド殿もイリス殿も酷い言い様よのう。そんなにわらわについてきて欲しいのじゃな?」
「なんでそうなる」
「わからん」
「よいよい。わらわもともにゆこうぞ。のう、クオン。クオンも、わらわに離れてほしくはなかろう?」
「……まあ、否定はしませんが」
「ほほほ。中々に素直よの。よいよい、リョハンへの旅路、ゆるゆる行こうぞ」
どのような状況でも我が道を貫き通すミルレーナという存在は、多様な人材の集まりである《白き盾》の中でも常に異彩を放つ存在だった。
ともかく、幹部会議はそのようにして幕を閉じた。
幹部たちの同意により、リョハン行きが決定されれば、部外者であるラディアンにはどうすることもできない。彼は、渋々といって様子でついてくることを決めた。彼には彼の目的があり、それを果たすまではクオンから目を離すことはできないというのだろう。たとえクオンから目を離したところで、クオンの身の安全は保証されているということは、彼も認識している。シールドオブメサイアの絶対無敵の力を目の当たりにしているのだ。しかし、それでも上からの命令を無視するような行動を取ることは、教会に絶対の忠誠を誓う彼にはできない相談なのだ。そのためならば、敵対勢力ともいえるリョハンに行くこともやぶさかではない、ということだった。
そんなラディアンを憐れみこそしたものの、クオンは、自分の道を曲げようとはしなかった。レイディオンへの案内など、そもそも必要ともしていなかった。長い旅になることは、ザルワーンを旅だったときから覚悟していたことだ。そして、その長い旅の途中、寄り道をすることも想定の範囲内の出来事だった。
リョハンへ。
その想いが高まったのは、ガンディアを始めとする連合軍がクルセルクとの間に起こした戦争に、リョハンの戦女神と四大天侍が参加したという話が耳に飛び込んできたからだった。
戦女神や四大天侍たちにセツナの話を聞いてみたい。
まずは、それがある。
見聞を広めるというのは、そのついでといってよかった。