第八百六十話 五月五日・片鱗(四)
「それで、どういう意味だ? 俺についていかなければならなくなった?」
セツナは、改めて小型ワイバーン(とは見えなくなった生き物)に問いかけた。その丸々とした姿にはドラゴンらしい威厳や迫力といったものがなく、愛玩動物に等しい愛らしさがあった。可憐とさえいってもいいのかもしれない。宝石のような目が、きらきらと輝いている。
「言葉通りの意味じゃが。わしの共通語に問題があるわけではあるまい?」
ワイバーンは不思議そうに小首を傾げた。彼のいう通り、彼の言葉にはなんの問題もなかった。ワーグラーン大陸全土で使われている共通語を完全に習得し、使いこなしている。声が聞き取りにくいということもない。まるで人間が喋っているように、彼は言葉を紡いだ。セツナを含め、皆が驚く暇もないほどに流暢に、だ。
問題は、そこにはない。
「いや……そういうことじゃなくてだな。なんで俺に負けて、俺についてくるんだよ。いらねえよ、帰れよ」
「なにゆえそんなに辛辣なのじゃ……」
「へこむなよ、ドラゴンじゃねえのかよ」
「貶すのか褒めるのかどっちなのじゃ!」
ドラゴンは小さな飛膜をばたばたと羽ばたかせて怒ったが、涼風がセツナの頬を撫でただけだった。巨大なワイバーンのままなら、周囲一体に大破壊が起きたとしても不思議ではない感じがあるのだが、小さなワイバーンにはわずかな風を起こすことしかできないようだった。そういう意味でも脅威を感じないのだ。
セツナは、手の甲の上で腹立たしげにする小ドラゴンを見つめながら、少し面白くなってきている自分に気づいた。さっきまで圧倒的な力を見せていた怪物の成れの果てがこれだ。いじりたくもなるものなのかもしれない。
「えーと、反応の面白そうな方?」
「酷い、酷いのじゃ! 鬼畜生なのじゃ! 化け物!」
宝石のような目に涙さえ浮かべる小ドラゴンに、セツナは、溜息とともに告げた。
「おまえだって化け物だろうが」
「なにをいうのか! わしは歴としたワイバーンじゃぞ! あやつにはチョビなどという不名誉な名で呼ばれておったものじゃが……」
(やっぱり、アズマリアの意思に従っていたということか)
セツナは、ワイバーンのその言葉で、彼が水龍湖を戦場に選んだことにようやく納得した。アズマリアのいっていた通り、このワイバーンは魔人の支配下にあったのだろう。そしておそらく、ワイバーンはアズマリアと戦い、一度彼女に負けているのだ。だから彼女に従い、行動した。
なにも気にせず戦えるのならば、召喚された場所で戦えばよかったはずだ。むしろ、龍府の真っ只中であるあの場所のほうが、飛龍にとっては有利に戦えた。人語、共通語を理解し、人間と会話し、触れ合うことの出来るだけの知能を持っているのだ。自分にとって有利な地形で戦うことくらい考えられるだろうし、戦闘中のセツナの行動から、市街地では積極的に戦えないということも認識できたはずだ。
その気さえあれば、ワイバーンはセツナを圧倒することもできた、ということだ。さすがに龍府であの能力を使うことはできない。都市を破壊するだけならばまだしも、数えきれない人が死ぬのは間違いなかった。
それに、水辺が有利な地形だったとしても、水龍湖を戦場に選ぶ道理はない。あの場所からならば、天龍湖のほうが遥かに近かったのだ。やはり、なんらかの意図があって水龍湖を選んだというセツナの憶測は正しく、意図にはアズマリアが絡んでいた。アズマリアがなぜこの地を戦場に指定したのかは不明だが、セツナの想いを汲んでくれたという可能性もなくはなかった。
召喚直後は家屋を破壊したものの、それ以降、ワイバーンが龍府に被害をもたらすようなことはなかったのだ。
アズマリアは、セツナを挑発し、やる気にさせるために、わざと家屋を破壊させたのかもしれない。だとすれば、アズマリアの思惑は成功していた。ワイバーンが龍府を破壊するかもしれないから、セツナは本気になれたのだ。もっとも、どこか別の場所でワイバーンと一対一の戦いをけしかけられたとしても、本気で戦ったのは間違いないが。
「チョビ……前の飼い主がつけた名前でございますかね?」
「まあ、今の姿ならそう名付けたくなるのもわからなくはないわね」
「あんまりかわいくねえなあ」
「じゃあ、新しい名前、考えましょうよ」
レムたちは、セツナの手の甲の上の不可思議極まりない生き物を見つめながら、そんな会話を繰り広げていた。ドラゴンの会話の内容そのものを気にしているわけではなさそうだった。前の飼い主がアズマリアであることが露見すれば、ファリアなどは怒り狂うだろうが、ドラゴンの言動からは察しようがない。セツナは、その点だけはドラゴンに感謝した。もっとも、ドラゴンがセツナのことを考えて言葉を選んでいるというわけではないのだろうが。
「わしにはラグナシア=エルム・ドラースという名がある! わざわざ新たな呼び名をつけられるまでもないわ」
ワイバーンが長い首をもたげて、踏ん反り返った。尊大な態度も、丸々とした愛らしい姿のままでは、腹立たしく感じることさえない。ある意味滑稽であり、愛嬌に見えてくるのが不思議だった。
「えー」
「えー、じゃない、えー、じゃ」
「ラグナシア=エルム・ドラース……長い名前だな」
シーラがワイバーンを小突きながらつぶやいた。
長く、尊大そうな名前だった。ドラゴンの名前だ。きっと、古代語かなにかで意味のある名前なのだろうが、古代語に精通していないセツナにはわかるはずもなかった。しかし、妙に胸に響く名前であることは確かだ。
(ラグナシア=エルム・ドラースか)
シーラの指に噛み付こうとするワイバーンの有様には相応しい名前には思えないが、それが彼の名前だというのならば尊重したほうがいいのかもしれない。彼が本来の姿になり、力を発揮すれば、この場にいる誰もが一瞬で死体に成り果てる。それだけの力を秘めた化け物だから、なおのこと、いまの姿が可愛らしく想えるのかもしれない。
「前の飼い主が別名で呼びたくなるのもわかるわね」
「では、ラグナと呼ぶのはいかがでしょうか?」
「ああ、それはいい。さすがはレムちゃん」
「確かに、そのほうが呼びやすいな」
「悪くはないわね」
「むう……それなば致し方あるまい」
なにやら納得する面々とワイバーンを交互に見て、セツナは、憮然と告げた。
「いや、待てよ、こいつを受け入れるのかよ」
「よいではありませんか、ラグナ様は絶大な力を持っておられました。御主人様にとっても、ガンディアにとっても、これ以上ないほどの戦力増強でございますよ?」
「そうよ。この姿でいてくれるっていうのなら、迷惑にはならないし」
「まあ、悪くはねえじゃねえかな」
「そうそう。竜殺しが竜使いになるなんて、面白いじゃないっすか」
言葉とは裏腹に楽しいことが増えそうで嬉しそうなレムに、純粋に戦力として歓迎してそうなファリア、あんまり気にしていなさそうなシーラに、素直に喜んでいるルウファと四者四様の反応があった。セツナは、四人のいうとおりだとは思いながらも、この小龍があの巨龍の姿に変身したときのことを考えると、素直に受け入れることはできそうになかった。いや、レムがいっていることもわかる。ガンディアの戦力を増強するといううえでは、これ以上のものはあるまい。どれだけ強力な傭兵団が傘下にはいろうと、どれだけの強国がガンディアの支配下に入ろうと、ラグナシア=エルム・ドラースに匹敵する戦力を得られるはずがなかった。彼が巨大化し、力を振るえば、それだけでガンディアの勝利は確定する。敵が武装召喚師を大量に投入しない限りは、だ。
「竜使い……ねえ」
「龍府の領伯は竜殺しで竜使い。面白い記事のできあがりでございますね」
「セツナの人気がまた上がるわね」
「同時に黒獣隊を発表すりゃ、話題に埋もれることができそうだな」
「なるほど、そういう考えもありますね」
盛り上がる一同の中心で、ワイバーンが恐る恐るといった様子で口を開いた。
「ひとつ、いい忘れておったが」
「なんだ?」
「わしはしばらくこの姿のままじゃ」
ラグナの一言で、セツナを含めた五人は一瞬にして我に返った。そして、同時に小ドラゴンに目を向け、異口同音に声を上げる。
『は?』
「は? とはなんじゃ。それもこれも、おぬしがわしの肉体を完全に消滅させてしまったからじゃろうが」
呆れてものもいえないといった様子のワイバーンに、セツナは半眼になった。
「だったらなんで生きてるんだよ」
完全に消滅したというのならば、いまここにいる小ワイバーンは、いったいなんだというのだろうか。ここまでの話を聞く限りでは、別のドラゴンではないようだが。
「おぬしはドラゴンの生態についてなにも知らぬようじゃな」
「知るわけねえだろ」
そもそも、ドラゴンが実在するという話さえ、話半分に聞いていたのだ。アズマリアが竜殺しの二つ名で呼ばれていることは知っていたが、その竜というのは皇魔の一種かなにかだと思っていた。アズマリアが大陸北部に生息しているといっていたことも覚えているのだが、あの魔人の言葉ほど素直に受け入れていいものはないのだ。結果的に、ドラゴンの実在性についても疑わざるを得なくなってしまった。
しかし、現実に目の当たりにし、戦ったとなれば、受け入れざるをえない。認めざるをえない。
「むむむ……剣呑じゃのう。まあよい、ひとつ教えられることがあるとすれば、いまのわしは、おぬしが滅ぼしたワイバーンそのものではない。なんらかの理由で肉体を失ったドラゴンは、魂魄だけの存在となり、新たな肉体を得るまでさまよう。さまよい、新たな肉体を得ると、今度は力を蓄えなければならぬ。何十年、何百年もかけて、な。もっとも、そんな芸当ができるのは転生竜とも呼ばれる一部のドラゴンのみじゃがな」
ラグナの説明は、くどくなく、実にわかりやすいものだった。そんな中、ファリアが一番興味深そうに聞いていたのが印象的だった。研究熱心な武装召喚師には、ドラゴンの生態についても知的好奇心が掻き立てられるのかもしれない。
「つまり、おまえは新たな肉体を得た直後、ってことか?」
「うむ」
「さまよってねえんじゃね?」
「これもおぬしのおかげじゃな」
「俺の?」
セツナは、ラグナのいっていることがわからず、疑問符を浮かべた。セツナが彼のためになにかをしたことは一度たりともなかった。むしろ、彼を滅ぼすために黒き矛の力を全開にしただけのことであり、ラグナにとっては怒りをぶつけてくるところではないのか。しかし、ラグナは、再出現からいまにいたるまで、セツナたちに対して攻撃する意思を見せなかった。敵意も殺意もなければ、悪意さえもない。だからこそ、セツナたちは、この小さなワイバーンと平然と会話できるのだが。
「そうじゃ。おぬしの発した膨大な力を利用して、わしは新たな肉体を創造した。もし、わしの前の肉体が消滅したとき、おぬしの力が残っていなければ、わしは魂魄だけの存在となってさまよい続けたじゃろう」
「そういうことか」
合点がいく。
セツナが黒き矛を用いて発した力は、一瞬にしてワイバーンの巨躯を消滅させ、それだけでは飽きたらず水龍湖の森をも消滅させようとした。黒き矛に秘められた破壊の力の解放。爆発的な力の奔流がなにもかもを飲み込み、灼き尽くし、消し滅ぼす。余波だけで森に甚大な被害が及ぶほどの力だ。あのまま拡散を続けていれば、ファリアたちにまで害が及んでいたかもしれない。が、セツナが制御するまでもなく、力は消えた。突然、消滅したのだ。それが黒き矛の力の形だと思っていたのだが、どうやら、彼が肉体の創造のために転用したことが原因だと判明したのだ。
納得するとともに、ドラゴンを滅ぼした力は、今後封印せざるを得ないことも判明した。完全に制御できるのならばまだしも、制御できているかどうかも不安定な能力を駆使するほど、セツナも愚かではない。
「うむ。わしがおぬしを主と定めたのは、そういう理由もある。この肉体を作り出した力は、おぬしのものじゃからな。まあ、この肉体を創造するために使い果たす程度の力ではあるがの」
「一言多い」
「うむ」
「うむじゃねえ」
セツナは呆れたが、踏ん反り返る小ドラゴンには通用しないようだった。
「では、巨大なワイバーンになって戦場で暴れていただくということは?」
「できぬ」
「それってつまり、何の役にも立たないままってこと?」
「なんの役にも立たぬとは失敬な。太古からの知恵が主やおぬしらを救おうぞ」
「いや、太古からの知恵の出番なんてねえよ」
セツナは即答したが、実際のところはわからない。が、少なくとも、ドラゴンの知識が人間社会で役に立つとは考えにくい。戦闘における知恵も、人間の戦いとドラゴンの戦いでは規模も戦い方も次元の異なるものといって差し支えないだろうし、参考になるはずがなかった。
「むう……では、愛らしい姿が心を和ませる、というのはどうじゃ」
「自分でいうのかよ」
「まあ、それならありかもしれねえな」
「ありなのかよ」
なにやら、シーラは、小ドラゴンの愛らしい姿とやらが気に入っているらしかった。指でつついては噛みつかれそうになる、という動作を繰り返しながら、ラグナと戯れている。
「別にいいんじゃないんですか? 力を蓄えた暁には、役立ってもらえばいいわけですし」
「何年かかるかわからんだろうが」
「それもそうだけど、放っておいてもついてくるでしょ」
「そのとおりじゃ。わしは、おぬしがなんといおうとついていくぞ!」
ラグナは、ファリアの言葉を肯定すると、踏ん反り返った上に胸の前辺りで飛膜を重ねた。胸の前で腕を組んでいるかのような態勢は、極めて人間臭い。
「……わかったよ。俺の負けだ」
「つまりわしの勝ちじゃな」
「いや、勝ったのは俺だ」
「うむ!」
「なんなんだよ、ったく」
セツナは、手の甲の上で踏ん反り返ったままの小ドラゴンを見つめながら、溜息をつくしかなかった。そして、彼が本来の力の十分の一でも取り戻した暁には、酷使してやろうと心に決めたのだった。
「なんなの、結局」
「さあ?」
「また、賑やかになりますね」
「嬉しそうだね、レムちゃん」
「はい!」
(ま、それならそれでいいさ)
セツナは、レムの嬉しそうな表情を見てから、手の甲の上のワイバーンに視線を戻した。とても恐怖と破壊を撒き散らしたドラゴンとは思えないほど愛嬌に満ちた姿に変わり果てたそれを、無言のまま、頭の上に持っていく。ラグナは、こちらの意図を察したのだろう。小さく羽ばたき、セツナの頭の上に飛び移った。手の上に乗っている時もさほど重量を感じなかった程度の体重しかない。頭の上に乗せてもなんの問題もなかった。
「わしらは良い主従になりそうじゃの!」
「ああ?」
セツナは、ラグナが頭の上でもぞもぞ動いている様に違和感を禁じ得なかった。ともすればずり落ちてきそうな気がして、気になって仕方がない。とはいえ、手の上に乗せたままでは歩くこともままならない。
(肩に乗せておけばよかったか?)
しかし、肩に乗せると、視界に入ってきて鬱陶しそうではあるのだ。だからセツナは、彼を頭の上に誘導した。視界に入らなければ、どのような態度を取っていても気にならないはずだ。
不意に、レムが、セツナの前に回りこんだ。そして、セツナの頭上に視線を向ける。
「ひとつ、申し上げておきますが、御主人様の第一の従者はわたくし、レム=マーロウに御座います。ラグナ様は二番目、ということをお忘れなきよう」
「うむ。人間社会では序列が大事だということは知っておるぞ。先輩とやらを敬わなければならぬということもな!」
「年長者もな」
セツナが付け足すと、シーラが不思議そうな顔をした。
「ラグナの場合、どうなんだ?」
「わしは数万年――それこそ、数えるのも忘れるくらい生きておるぞ」
ラグナは、ごく平然ととんでもないことをいってのけてきたのだが、セツナはそこに食いつくと面倒くさいことになりそうだと判断した。告げる。
「さっき死んだじゃねえか」
「だからどうなんだ、って聞いたんだけどな」
「生まれたての肉体に数万年の時を経た魂……間を取っても数万歳?」
「いや、間を取る意味がわかんねえけど」
「まあ、年長者であることに違いはなさそうね」
ファリアが話を纏めた。彼女は自分の肩を抱くようにしている。そういえば、ファリアもだが、セツナとレムを除く三人は、水龍湖に着水し、全身ずぶ濡れのままだった。よく見ると、ファリアも、シーラと同じく衣服が体に張り付き、体の輪郭が浮き上がっていた。ついつい見てしまいそうになる自分を叱咤して、視線をそらす。
ともかく、早く街に戻るべきだった。このままでは皆、風邪を引いてしまうかもしれない。
「では、ラグナ様を年長者として敬いつつ、後輩としてこき使わせていただきます」
「うむ!」
「それでいいのかよ」
「うむ!」
きっと頭の上で踏ん反り返っているのであろう小ドラゴンの反応に、セツナは途方に暮れる思いがした。
仲間が増えたことは喜ばしいことなのだろう。そして、その仲間が数万年の時を生きてきたドラゴンという事実は、驚嘆に値することだ。レオンガンドなどに報告すれば、度肝を抜くこと間違いない。腰を抜かしてしまうものがいても不思議ではなかった。
きっと大騒ぎになる。
セツナは、とんでもない誕生日になったものだと想い、それは皆もまた同じ気持だろうとも考えた。