第八百五十九話 五月五日・片鱗(三)
「ふふふ……わしを倒せたと思っていのじゃろう? 甘いのう。甘々じゃのう。この世の道理ほどに甘々じゃ」
それは、なにやら上から目線で告げてきていた。
緑柱玉のように輝く鱗に覆われた飛龍である。が、それは、一般的に飛龍といって想像するような姿からかけ離れた姿形をしていた。いや、特徴は揃っているのだ。鰐のように突き出た顎を持ち、鋭い牙があり、角もある。目は宝石のようであり、全身が鱗で覆われている。一対の翼に一対の足、長い尾という特徴は、紛れもなくワイバーンといっていいだろう。しかし、ワイバーンとは、思いがたいのだ。
まず、小さかった。頭の先から尻尾の先まで、全長十センチ程度の大きさしかない。その上、全体的に丸みを帯びており、とてもドラゴンやワイバーンという言葉から想像する厳しい姿ではなかった。厳しいというよりは可愛らしいといったほうが正しく、くりくりとした宝石のような目が、その愛らしさを助長しているといっても過言ではなかった。
そんな小さなものがふんぞり返っているのだ。
セツナは、ワイバーンの尻尾を無造作に掴むと、軽く振り回した。
「なんで勝ち誇ってんだよ」
「こ、こら、やめんか。あ、目が回るぞ、や、やめろ!」
悲鳴を上げるワイバーンの有様にセツナは嘆息し、彼を解放してやった。小型飛龍はほんとうに目を回したらしく、ふらふらと虚空をさまよい、やがてセツナの右肩に着地した。
「ふう……まったく、人の子というのは誰も彼も傍若無人で困るのう。わしはただ、お茶目なドラゴンでありたいだけじゃというのに」
「お茶目なドラゴン?」
ワイバーンの言い分がまったくもって理解できなかったのは、セツナだけではなかったらしい。レムを始めとする四人が、口々にいった。
「御主人様の命を奪おうとしたことがお茶目の範疇に収まるとでもいうのでございましょうか?」
「さあねえ? ドラゴンと人間のおちゃめの基準が違うのかもしれないわ」
「じゃあ、俺達がドラゴンを叩き潰したとしても、お茶目で済むのか?」
「すっごくお茶目だと思いますよ。たぶん」
「な、なんじゃ……凄まじい殺気を感じるのじゃが……?」
セツナの右肩の上で、小型ドラゴンは小さく震えていた。ドラゴンの威厳もなにもあったものではない。
「気のせいじゃねえよ」
「なぜじゃ!?」
「いや、おまえ、俺を殺そうとしただろうが」
「ふむ……なんじゃ、そんなことで怒っておるのか。やはり、人の子というのは視野が狭くて困るのう。もっと宇宙的な視野を持つことをおすすめしておくぞ」
「なんだかお茶目になる気も失せますね」
「本当、なんなの、これ?」
「まったくだ」
「隊長の肩がお気に入りのようですね」
四人が呆れてものもいえないといった反応を示すと、ドラゴンはなにやら勝ち誇ったような態度を取ったが、セツナはあえて見て見ぬふりをした。そんなことにまで言及を始めると、いろいろと面倒なことになりかねない。ただでさえ面倒事に首を突っ込み始めている気がするのだ。
「……で、なんなんだ?」
セツナは、つぶやきながら左手を右肩に近づけ、手の甲をワイバーンに見せた。ワイバーンは小首を傾げ、逡巡した後、ひょいと手の甲に飛び移った。まるで小鳥のような行動に笑いたくなるが、なんとか堪える。会話を途切れさせるのは本意ではない。
「なんだとはなんじゃ?」
「おまえはいったいなんなんだよ。あのワイバーンだという話は信じるとして、だ。一体、なんの目的があって、いま、俺達の目の前にいるんだ?」
「人の子よ。この世には目的もなく生きるものもいるのじゃ」
「はあ……」
セツナは、大きく息を吐くと、ワイバーンにもわかるように肩を落とした。手の甲の上のワイバーンが、飛膜を広げ、猛然と抗議してくる。
「なんじゃ、その深い溜息は! まるでわしが可哀想な存在のようではないか!」
「違うのか?」
「違うわ! 馬鹿者め! いや、化け物め!」
「なんで言い直した」
「わしをここまで追い詰める人の子が化け物でないはずがあるまい。よって、おぬしは化け物じゃ。やーい、化け物化け物ー!」
ばさばさと飛膜を羽ばたかせながら告げてくる様は、さながら悪口をいう子供のようであり、やはり、どこをどうみても、さっきまで死闘を演じていたドラゴンとは思えなかった。水龍湖の中心に君臨し、圧倒的な力と再生力を見せつけたワイバーンの片鱗さえ、見受けられなかった。
「なんなのでございましょう、この喪失感」
「あー、わかるわ。ドラゴンという生物に抱いていた幻想が音を立てて崩れていく感じね」
「はは、これがドラゴンか。ドラゴンか……」
「現実っていろいろ哀しいものですね」
レムもファリアもシーラも、ルウファでさえも、ワイバーンの有様に対しては失望を禁じ得なかったようだ。四人とも、このワイバーンを倒すために力を尽くしている。レムに至っては、死に等しい痛みを覚悟してワイバーンに跳びかかったのだ。そんな風に戦った相手がこんな姿で現れ、子供染みた言葉を吐いてくるとは思いもよらなかったはずであり、悪い意味で想像を越えた存在だったドラゴンの実態には、嘆く以外にはない。
セツナも、彼女たちと同じ気分だった。
「な、なんなのじゃ、なぜ、おぬしたちは揃いも揃って失望しておるのじゃ!」
「全部おまえが悪い」
「わからん! まったくわからんぞ!」
飛膜で頭を抱えようとするワイバーンに対して、セツナは軽く肩を竦めた。このままでは埒が明かない。それもこれも、ワイバーンの性格のせいに違いなかった。姿も大きく影響しているだろうが、性格がもう少し大人しければ、セツナたちの反応も随分違ったものになっていたはずなのだ。
「わからなくていいが、本当に、なんの目的もないのか?」
「うむ」
「はあ……まあいいや。じゃ、俺達は帰るから。おまえも道中気をつけて帰るんだぞ。こんな姿じゃ、大型の鳥に食われそうだしな」
セツナは、これ以上相手にしていても時間の無駄だと悟った。目的がないのならば、話し合う必要もないし、相手にする理由もない。そして、ワイバーンそのものに殺意や敵意がない以上、放っておいても問題はなさそうだった。あれだけの速度で空を飛べるのなら、本来の住処に戻ることも難しくはないだろう。北の大地。セツナからすれば遥か遠方に想えるのだが、宇宙的視野からみれば決して遠くはあるまい。
「だれが食われるものか! それに、目的はなくとも、理由ならあるぞ」
「うん?」
「おぬしが、わしを倒したのじゃ。わしは滅びぬが、倒された事実は消えぬ。よって、わしはおぬしについていかなければならなくなったわけなのじゃ」
「は?」
セツナは、飛龍の言葉が一瞬理解できなかった。いや、理解できなかったというのは間違いだろう。理解して、意味がわからなかったというべきだ。倒されたことを認めた、ということはわかる。だが、そこからなぜ、ついていかなければならないのかがわからない。
レムが喜悦満面に手を叩いた。
「まあ、御主人様に新たな下僕が!?」
「お仲間が増えたわね、レム。しかもまた人外ですって」
「また、ってなんだよ」
シーラが呆れたのは、ファリアの言い様にだろう。ほかに人外の下僕がいるとは思えなかったはずだ。ルウファが解説する。
「レムちゃんも人外みたいなもんだから」
「そうなのか?」
「はい! わたくしは死神で御座います!」
「なんでそんなに嬉しそうなのかわからないんだが」
「御主人様との絆でございますので……」
レムが意味深げに顔を赤らめると、シーラが半眼になってこちらを一瞥してくる。
「……へえ」
「まあ、いろいろあるのよ。今度説明してあげるわ」
「おう、頼むぜ。セツナのこと、もっと知らないとな」
四人のやり取りを横目で見やってから、視線を飛龍に戻す。口を挟みたいところではあったが、いまはワイバーンに集中するほうが良さそうだった。