第八十五話 駆け抜ける
暴風のように、事態は進展している。
セツナの頭では追いつけないくらいに、目まぐるしく動いていた。
まず、ランカインがログナーの王妃ミルヒナ・レア=ログナーを篭絡していたという事実は、彼の頭の中を真っ白に染め上げるくらいの驚きをもたらした。見た限りでは三十代半ばにしかみえない女性が実は五十代後半で、立派な子供が二人もいるということは、セツナにさらなる衝撃をもたらした。
それだけではない。
彼女は、先の王妃の権力を用い、セツナたちに協力してくれたのだ。それはもちろん、ランカインのおかげに違いなかった。彼女がランカインに心底惚れ込んでいるからこそ、喜んで力を貸してくれたのだろう。それは夫である王への裏切りではあったものの、ミルヒナ自身、後ろめたさや罪悪感を覚えているのかどうか。ランカインへの恍惚とした表情を見る限り、そういった感情が動いているようには思えなかった。故にセツナは彼女に悪印象を抱いたが、ミルヒナに頼らざるを得ない現状を理解してもいた。
ともかくも、ミルヒナは諜報員の捜索に尽力してくれた。先の王妃の権力を最大限に利用し、一夜のうちに該当人物の幽閉場所を見つけ出したのだ。いや、該当人物かどうかはわからなかったが、軍が厳重に管理する区画には、謀反当時王都にいた人間の中でログナーの国政とは直接関係のない人物のみが収容されているということだった。
そこに行けば見つかるかもしれない。
淡い期待を確実なものとするため、情報をさらに集めた結果、セツナたちは収容区画に向かうことになったのだ。無論、そのままの格好で行ったのでは怪しまれるのは当然だ。これまた王妃の権限を利用して取り揃えた王宮近衛の甲冑を纏い、大手を振って、堂々と向かったのだ。
道中、だれも彼らを怪しむものはなく、むしろ率先してセツナたちに協力してくれたものだ。中には怪しんだものもいたかもしれない。だが、ミルヒナの使いという肩書きと王宮近衛の甲冑は、それら疑問を封殺してしまった。
セツナたちは、収容区画に到着してすぐに救出対象を見つけ出したわけではない。協力してくれた兵士に頼んで、ガンディアと接点の有りそうな人物を絞ってもらい、片っ端から当たっていったのだ。時間も手間もかかったが、それは仕方の無いことだ。最小限の情報しか寄越さなかった上司が悪い。
自分やランカインはともかく、ラクサスにさえ詳細を教えなかったのはどういうつもりなのだろう――セツナの疑問は、諜報員と対面した後に受けた説明によってある程度納得できるくらいにはなった。
ヒース=レルガ。
彼は、要するに工作員なのだ。ガンディアが五年も前にザルワーンに送り込んだ毒刃。周辺諸国の中では飛び抜けた国力を誇り、強大な軍事力を持つザルワーンに対抗するための手段。かの国を骨抜きにするための謀略。南への侵攻を明らかにしているザルワーンに打ち勝つためには、ヒース=レルガとナーレス=ラグナホルンの暗躍がなければならなかった。
ザルワーンは、ガンディアに三倍する兵力を有し、動員しうるのだという。そこに属国であるログナーを加えれば、四倍近くにまで膨れ上がるのだ。同盟国に助力を仰いだとしても、いまのガンディアでは到底勝ち目がない。圧倒的な数の前には、抵抗も虚しくならざるを得ない。
故にまだ、彼の存在を明らかにするわけにはいかないのだ。秘匿し続けなければならない。ザルワーンと決戦するその日まで、かの国を毒で侵し続けるために。
そのためには彼をザルワーンに帰還させなければならない。
レオンガンドがラクサスにさえ、ヒース=レルガの情報を与えなかったのはそれ故なのだろう。
もし救出できなかった時のことを考えれば、納得できなくもないとラクサスはいった。情報の流出ほど恐ろしいものはない。もし、ラクサスがヒース=レルガの情報を知っていれば、何かの拍子にもらしてしまうかもしれない。セツナやランカインに説明してしまうかもしれない。そこからさらに漏洩するという可能性を恐れたのだとすれば、理解もできる。
無論、ラクサスの口が軽いわけではないし、彼を信用していないということではない。慎重すぎるほど慎重に事を運ぶのは、重要なことだ。特に、ヒースのような存在の情報に関しては。
一言の漏洩も許してはならない。
たったそれだけで、五年もの歳月を費やして積み上げてきたものが根本から崩壊しかねない。
本来ならば、独力で脱出し、ザルワーンに帰還することこそ望ましかったのだが、ヒース=レルガ個人の力ではどうしようもない事態だったがために、セツナたちが派遣される運びになったらしい。
彼自身、王都でなにが起きたのか把握していなかったというのだから、アスタル=ラナディース一派の手際の良さが伺えようというものだ。
そこでセツナが不思議に思ったのは、どうしてレオンガンドは彼の救出を急いだのかということだ。彼はガンディアの諜報員である一方で、ザルワーンの軍人なのだ。連絡など、そうそう取れないのではないか。そもそも、頻繁に連絡を取ることなど不可能ではないのか。
その答えは、セツナの予想を遥かに超えるものだった。
「それはね、ぼくが悪魔だからだよ」
ヒース=レルガは、笑いもせずに教えてくれた。
「悪魔?」
「そう、悪魔」
彼は、双子の弟のキース=レルガと思考を共有することができるのだと教えてくれた。そんな超能力のようなものを有しているからこそ、ナーレス=ラグナホルンとともにザルワーンに送り込まれたのだ。ヒースは遠くザルワーンやログナーの大地で謀略の手伝いをし、レオンガンドの傍らで働くキースと情報交換をしていたということだ。
そのおかげで、レオンガンドはザルワーンやログナーの内情を把握することができ、決定的な一手を打つことができるというのだが。
ありえない、などとは言い切れないのがこの世界の怖さだ。
現に、セツナはありえない力を手にしている。武装召喚術。これもまた、セツナの生まれ育った世界では存在し得ない力だ。超能力といってもいい。なれば、彼の思考共有能力が存在してもおかしくはないだろう。
そしてヒースは、セツナたちの目の前でキースと連絡を取り、ガンディアの状況をこちらに伝えてくれた。ガンディアの総力を以てログナーを攻め落とすため、進軍を開始したという重大情報を、だ。
何も知らされていなかったセツナこそ驚いたものの、ログナー侵攻に関しては、ラクサスも事前に知ってはいたらしい。北方への領土拡大はガンディアの既定路線であり、バルサー要塞を奪還した以上、早期にログナー侵攻を開始するのは当然の成り行きなのだという。
バルサー平原での戦闘はガンディアの完勝に終わり、ログナーには深い傷を負わせることに成功した。しかし、このまま放置していれば傷は癒えるものだ。傷が癒えぬうちに――失った兵力が補充しきれないうちに攻め込むのは、当たり前と言えば当たり前の話だ。兵力の補充を許せば、せっかく手にしたガンディアの優位性をみすみす手放すことになる。それだけは避けなければならない。
故にこそ、レオンガンドは進軍を急いだというのが、ラクサスとランカインの推察だった。それに対してヒースはなにもいわなかったが、セツナにはほかに理由という理由も見当たらなかったし、理由はそれほど重要ではないとも思っていた。
重要なのは、セツナたちが取るべき行動である。最初の命令では、諜報員の安否確認と保護であり、つまるところヒース=レルガの救出だった。彼の救出に成功した以上、彼をガンディアに連れ帰るものかと思っていたのだが、どうやらそうではないらしいということがヒースとの話の中でわかってきていた。
彼は、ザルワーンに戻らなければならないのだ。
「ログナーの内紛で捕らえられかけたところを命からがら逃げ出してきた、とでもいえばいいのさ」
無傷での帰還を疑われたらどうするのかという問いに対して、ヒースはそういって笑ったものだった。ナーレス=ラグナホルンの雷名が、彼の命を保証するのだというが。
ランカインが口を挟まなかったところを見る限り、ヒースの楽観的な考えは概ね正しいのだろう。ザルワーン内部の事情は、セツナたちよりもランカインの方が遥かに詳しい。
かくして、セツナたちは、ヒースをザルワーン軍の元へ送り届けなければならなくなった。さすがにひとりで行かせるわけにはいかない。彼は、腕っ節ではセツナにさえ負けそうな体格をしており、実際彼は、肉体を働かせるよりも頭脳を働かせる方が得意だとうそぶいていた。疑う必要もない。
この世界は必ずしも安全ではない。いくら整備された街道を進んでいたとしても、どこで皇魔と遭遇するのかわかったものではない。それに、ダグネのような野盗山賊の類に襲われないとも限らない。想定される事態から逃れるためには、セツナたちが同道するのが一番いい。皇魔であれ野盗であれ、セツナとランカインが一蹴すればいいのだから。
セツナたちは、ヒースを連行するという体裁を保ちながら寂光殿に戻ると、ミルヒナとランカインが別れの時を惜しむのを尻目に、今後の方針を定めた。夫や国よりも己の愛を取ったミルヒナに対しては、セツナも思うところがあったものの、だからといって口出しなどできるはずもなく、得体の知れぬ不愉快さを抱えたまま時を過ごした。
一行がヒースを伴ってリャーマ鉱山に辿り着いたのは、翌日の正午のことだった。ログナー王家の極秘通路から坑道を突き進むという強行軍に真っ先に根を上げたのはヒースであり、セツナが悲鳴を上げずに済んだのは彼のおかげともいえた。
寂光殿において多少なりとも休息を取ることができたものの、セツナの肉体は常に悲鳴を発しているといってもいいような状態だった。連日の戦いによる負担は大きく、数時間程度の休憩では回復できるはずがなかった。
それでも、泣き言は言わない。愚痴のひとつもこぼさない。不平や不満を口にしたところで、現状に変化など起きないのだ。ならば黙々と任務をこなすのが利口だろう。無論、ランカインが目の前にいるというのも、セツナの無意識に影響していたのかもしれないが。
リャーマ鉱山坑道を突破した一行は、リューグ、オリスンたちと合流し、馬車に飛び乗った。だが、セツナの心が休まることはなかった。次の任務を果たさなければならない。
ヒース=レルガを、ザルワーンの猛将グレイ=バルゼルグの元に届け、ザルワーンの軍勢をログナーから退去させるのだ。
ザルワーン軍の目的は、アーレス=ログナーの正義の遂行――つまりは、ログナーの新王軍の撃退であり、ザルワーンの代官であるとはいえ、ヒースひとりを届けるだけで矛を納めて帰国するとは、セツナにさえ考えられなかった。
もちろん、ヒースには秘策があるのだろう。
問題は、彼を送り届けるタイミングである。
レオンガンド率いるガンディア軍が、ログナー領に侵攻中だという現状がある。ガンディアとログナーの衝突は避けられない。いや、むしろ望むところに違いないのだが、そのとき、ガンディア軍にとって有利な状態こそが望ましい。
そう、新王軍と元王子軍がぶつかり合い、戦力を削り合わせるのだ。無論、こちらの思惑通りに事が運ぶとは限らない。ガンディアの侵攻を知った両軍が一時休戦し、ガンディア軍を撃退するために共同戦線を張るという可能性だってある。
そうなっては元も子もない、というのが、レオンガンドたちの考えらしい。
ザルワーンの最高戦力とログナーの飛翔将軍が力を合わせれば、ガンディアなど一溜まりもない。たとえセツナが猛威を振るったとしても、局地的な勝利が全体に及ぼす影響など取るに足らない。本隊が敗れてしまえばそれまでだ。
「では、どうするんです?」
ラクサスがヒースに尋ねたのは、馬車が動き始めてからだった。
「このままレコンダールに向かってくれ。近くで下ろしてもらえば十分だよ」
「おひとりで?」
「まさか」
ヒースは微笑した。さすがにひとりでの脱出は無理がある、というのだろうが、セツナからしてみればひとりふたり従者が増えたところで、無茶なことに変わりがないように思えてならなかった。
「リューグを連れていく。彼ならば、もし死んだとしても惜しくはない。ま、ガンディアにとって有益な人材を見す見す失うつもりもないけどね」
当の本人がいないことをいいことに、言いたい放題である。リューグは、いつものように御者のオリスンと戯れていた。オリスンが気に入ったのか、辛気臭い荷台には要られないと思ったのか。
「……馬車だ」
不意に告げてきたのはランカインだ。彼は、馬車の進行方向を見遣りながら、耳を澄ませているようだった。無論、荷台を満たす闇の中から馬車の外が見えるはずもない。
セツナは身構えた。ランカインの耳の良さは実証済みだ。疑うべくもない。
「馬車?」
「ああ。二頭引きの馬車がひとつ。先導する馬が三頭。進路はこちら――リャーマ鉱山か」
「だとすれば、食料を運搬しているのかもしれない」
ラクサスがつぶやいた。リャーマ鉱山に左遷された監視員たちへの定期的な食料補給ならば、実にタイミングが悪い。
「どうします?」
「見逃してくれると思うか?」
「それはないね。この国の情勢を考えてみなよ。いまにも戦争が起きようとしているこの時期に、なにもないはずの鉱山方面から荷馬車が向かってくるなんて、怪しいにも程がある」
ヒースの言うことはもっともだった。怪しすぎて笑ってしまうくらいだ。
では、どうするというのか。
セツナは、三人の顔を伺った。
「こちらから仕掛けよう」
考えるまでもなく、結論はでた。どうせ疑われ、調べられるくらいなら先手を取るべきなのだろう。
「セツナ、行けるか?」
「はい」
ラクサスに尋ねられて、彼は力強くうなずいた。体力も心許ないし、蓄積した疲れが消え失せたわけではない。しかし、やれる、という自信がある。
今までだってそうだった。どんな状況にあっても、どんな逆境にあっても、黒き矛の力さえあればなんとでもなった。
「ひとりで大丈夫か?」
などとランカインが声をかけてきたものの、言葉とは裏腹にこちらのことなどまったく心配していないのがその声音だけでわかった。もちろん、彼にセツナを心配する道理はなかったし、心配されても気持ち悪いだけだ。
セツナは揺れる馬車の中で立ち上がると、ランカインを一瞥した。淡い闇の中、彼は薄ら笑いを浮かべているように見えた。気のせいだろう。そういう安さは、彼には無いように思えた。
「行けるさ」
「相手はあの監視員たちと同じだぞ?」
今度こそ嘲笑を交えた物言いだったが、セツナは、口の端で笑っただけだった。彼の挑発に毎回毎回反応するのが馬鹿馬鹿しくなったのだ。
鎧も兜も身に付けぬまま、荷台の裏手へ。面白いものでも見るかのようなヒースの視線を受け流しながら、幌を開く。流れる景色はまばゆい日差しに曝されており、闇に慣れた目には痛いくらいだ。跳ぶ。
「武装召喚」
セツナの全身が光を発した。