第八百五十六話 五月五日・ワイバーンストライク
「突然現れ、御主人様に襲いかかったというのはわかったのでございますが、御主人様がここまで運ばれてきたのは、どういうわけでございましょう?」
レムが訪ねてきたのは、当然の疑問といえた。
黒き矛のセツナともあろうものが、あの程度の怪物に苦戦を強いられるとは、信じがたいことなのだ。セツナはこれまで、あのワイバーンよりも強大な化け物を倒してきている。ザルワーンの守護龍にクルセルクの巨鬼がそれだ。クルセルクの巨鬼は厳密には完全に倒せてはいないのだが、連合軍の見解では、セツナが撃破したことになっている。実際、巨鬼そのものが消滅したのだから、倒したという認識に間違いがあるわけではない。
巨鬼は神となり、姿を消した――そんな話を大々的に発表するわけにはいかないのだ。
セツナが倒してきた巨大生物は、守護龍と巨鬼だけではない。目の前のワイバーンと同程度の巨大さを誇る皇魔ならば、数えきれないほどに倒してきている。大型に分類される皇魔ギャブレイトの中でも特別な個体は、ワイバーンを超える巨躯を誇るのだ。そんな化け物たちを屠りに屠ったのが、クルセルク戦争だった。
故に、魔屠りなどという二つ名で呼ばれるようになり、万魔不当という言葉が生まれたのだが。
セツナは、ワイバーンを睨みながら、その宝石のような目が自分を見据えていることに気づいた。ワイバーンは、ファリアたちを倒す必要はないと判断したようだ。倒すべきは、セツナのみと考えているらしい。柄を握る手に力が篭もる。
「強敵だからだよ」
「強敵?」
「並大抵の攻撃を寄せ付けない鉄壁の防御力、ある程度の傷なら瞬時に回復してしまう再生力――黒き矛を持ってしても厄介だ」
「竜殺しの名折れでございますね」
「まったくだぜ」
「……おまえらなあ」
セツナは、レムとシーラの辛辣な言葉にがっくりとした。が、彼女たちのいう通りでもあった。ガンディアの英雄にして、連合軍勝利の立役者たる黒き矛のセツナが、ワイバーン程度に苦戦していては世間の覚えも悪い。竜殺しの二つ名も、アズマリアに返上せざるを得なくなるだろう。
(世間の評価はどうだっていいが)
ファリアやルウファ、レムたちの評価が下がるのは、看過できるものではない。
セツナは、シーラとレムの前に進み出ると、黒き矛を掲げた。切っ先をワイバーンに向ける。ワイバーンが飛膜を広げた。飛龍の周囲の空間が歪んだかと思うと、湖面に巨大な波紋が広がり、大量の湖水が空中に浮き上がった。黒き矛の穂先が白く膨れ上がるのと、大量の湖水が無数の水の矛に変容するのはほとんど同時だった。白い光芒が湖上を走り、飛龍の腹に突き刺さる。鱗が砕け、外皮を貫き、体内に達した。が、どれほどの痛撃となったのかはわからないまま、彼は回避行動に移った。湖上に生まれた無数の水の矛が、セツナに向かって殺到してきたからだ。
水の矛とは、要するに矛の形をした水の塊だ。しかし、水を凝縮しただけのものではないことは、セツナが避けた水矛が湖岸の地面に突き刺さり、炸裂したことで明らかになった。
「爆発するのかよ!」
セツナは、次々と飛来する水矛を辛くも避けながら、それらが着弾と同時に爆裂し、着弾点の周囲にまで破壊を撒き散らす様を見て、愕然とした。掠っただけで致命傷になりかねない。黒き矛で叩き潰すなど以ての外だったし、紙一重で避けようとしてもいけない。前方、シーラとレムが水矛の攻撃範囲から逃れるのを見届ける。
シーラは左回りに湖岸を移動しており、ルウファとの合流を目指しているようだった。ハートオブビーストは近接戦闘に特化した召喚武装だ。湖岸からではワイバーンを攻撃することは不可能といっていい。ルウファの飛行能力に期待するのは当然といえた。しかし、ルウファはシルフィードフェザーの最大能力顕現によって力を使い果たし、しばらくは戦うことすら困難な状態に陥っている。彼との連携に期待することはできない。とはいえ、シーラがルウファと合流するのは、ルウファの身の安全のためにも悪い判断ではなかったが。
レムは、右回りに移動していた。彼女の動きに呼応して、ファリアも移動を開始している。合流するつもりのようだ。ファリアはともかく、レムに遠距離攻撃ができるのかはわからない。“死神”の行動可能範囲は広いとはいえ、水龍湖の中心に陣取るワイバーンを攻撃できるかどうか、不確かな部分が多い。
セツナは、水龍湖を中心とする広大な範囲の様々な情報を処理しながら、つぎつぎと飛来する水矛爆弾を避け続けていた。黒き矛を手にしていることにより、あらゆる感覚が凄まじく増幅されている。視覚、聴覚、触覚、それに身体能力も引き上げられ、反射速度も通常とは比較しようがなかった。同時に、それだけの負荷がセツナの肉体にかかっているということでもあるのだが、いまのところなんの問題もない。
これは、日頃の訓練のおかげだといえた。ルクスによって課せられる訓練は、日々、きつくなっているのだが、それによってセツナの体は、召喚当時とは比べ物にならないほど引き締まり、研ぎ澄まされている。黒き矛の圧倒的な力を支配するには、肉体を鍛えあげなければ話にならない。セツナの考えは正しかった。
殺到する水矛の嵐を容易く回避できているのは、黒き矛から流れ出る莫大な力を制御できているからに他ならない。
黒き矛は、闇黒の仮面を吸収したことで、以前にも増して凶悪な存在となっていた。凶悪で狂暴で強烈な力を内包する怪物――それがカオスブリンガーなのだ。
(いままで以上の力を感じる)
猛烈な勢いで迫り来る水矛の群れも、児戯に等しく思えた。普通に避けているだけで当たるはずがないという確信がある。それでも油断ができないのは、水矛が直撃と同時に爆発するからだ。爆発範囲も頭の中に入れておかなければ、避けたと思いきや痛撃を食らうということになりかねない。大地をえぐる水矛の爆発は、たやすく人体を破壊するだろう。
黒き矛がどれだけ強く、その補助を得たセツナがどれほど圧倒的な力を得ても、セツナ自身の肉体が強固になるわけではない。人体の強度そのものに変化はないのだ。数百メートルの高度から落下すれば死ぬし、鈍い刃でさえ傷つくような体だ。どれだけ鍛えあげても、肉体の硬度を上げることなどできない。
相応の召喚武装に頼る以外に手はないのだ。
(強い)
それでも、セツナはカオスブリンガーの膨大な力に感動せざるを得なかった。闇黒の仮面を吸収したことによる変化は、微々たるものではなかった。レムの再蘇生で使い果たしたわけでもなんでもなかったのだ。むしろ、レムの再蘇生のために費やしたのは、失われゆく闇黒の仮面の力であり、黒き矛の本質とは無縁のものだと考えるほうが正しいのかもしれない。
森の奥へ逃れるうち、水龍湖が遠ざかっていった。それでも、水の矛の攻勢は止まない。セツナに向かって飛来し、地面や木々に激突して爆音とともに破壊を撒き散らす。水龍湖を囲う森が破壊されていく。破壊しているのはワイバーンだが、領伯たるセツナの胸が傷まないわけがなかった。領地が破壊されているのだ。
(この野郎……!)
怒りが湧いた。怒りは炎となって胸の内で渦を巻く。この怒りを鎮めるには、みずからの手でワイバーンを倒す以外にはない。
不意に咆哮が聞こえ、大気が震えた。遥か前方、水龍湖の中心で飛龍が巨大な翼を広げていた。オーロラストームによる雷撃も、“死神”の大鎌も、ワイバーンに致命傷を与えることはできない。黒き矛の光線による傷も跡形もなく塞がれてしまっていた。
(あれが野生のドラゴンだって……?)
アズマリアの発言の疑わしさに、セツナは目を細めた。そのときになって、ようやく水矛の攻撃が止まった。すべての矛爆弾を避けきったようだ。結果、水龍湖からセツナの現在地までの木々が徹底的に破壊され、地面に無数の穴が空いてしまったが、仕方のないことだ。しかし、ワイバーンの死で贖うには大きすぎる犠牲だといえた。
アズマリアの勝ち誇る顔が脳裏に浮かぶ。
(あんたのせいだからな)
地を蹴って、前に進む。
ワイバーンが湖面から飛び立つのが見えた。湖面に巨大な波紋が生まれ、湖水が空中に浮かび上がる。またしても水矛爆弾を生成するのかと思いきや、湖水は雨となって水龍湖周囲に降り注いだだけだった。今度は、飛龍だけだ。飛龍だけが、猛然たる勢いで突っ込んでくるのだ。
「は……ようやくその気になったかよ」
セツナは、矛を両手で握ると、ワイバーンに向かって掲げた。光線を放つ。全力の光線ではない。低威力の光線で牽制するつもりだった。だが、ワイバーンはこちらの行動など見抜いていたらしく、回避行動さえ取らなかった。光線がワイバーンの角を掠ったが、わずかに灼いただけだった。距離は、瞬く間に縮まっていく。セツナも前進しているからだが、ワイバーンの飛行速度が異常といっていいほどに早かった。龍府から水龍湖まであっという間に飛んでこれただけのことはある。
十数メートルの距離に達したとき、セツナは再度光線を発射した。今度は、さっきよりも出力をあげている。その分、消費も多くなるが、問題はなかった。もっとも、牽制攻撃ではワイバーンの気をそらすことさえできず、首元の鱗を多少削った程度の戦果に過ぎない。
飛龍は、既に眼前に迫っていた。