第八百五十五話 五月五日・ライオンテイル
ファリアの雷撃に始まる一連の猛攻は、セツナの度肝を抜いていた。
まず、ファリアの放った雷撃の威力が半端ではなかったのだ。湖岸にいたセツナさえ痺れるほどの雷光が荒れ狂い、水龍湖の広範囲に破壊的な力を撒き散らした。続くルウファの行動はファリアの雷撃を飛龍のみに集中させるというものであり、風使いルウファの面目躍如とでもいうべき活躍だった。凄まじいまでの破壊の力も、拡散してしまえばその威力を発揮することはできない。その点、風の力で一点に集中させるというルウファの即興連携は、ファリアの攻撃をより効果的なものにしたのだ。実際、ルウファの援護がなければ、ファリアの攻撃が飛龍に大打撃を与えることはできなかっただろう。水の鎧を貫けたかどうかもあやしい。
ファリアとルウファの連携が飛龍の隙を生んだ。そこへ、レムが落下速度を加えた一撃を叩き込んだものの、ファリアたちの作り出した雷球にみずから飛び込んだ結果、彼女自身も大打撃を受けたようだった。なにもできず飛龍に吹き飛ばされたのがその証拠だ。普段なら回避できるような攻撃だった。そのまま湖面に叩きつけられれば、湖の中に沈んでいくかもしれない。セツナは黒き矛をみずからを裂き、彼女の元へと転移し、再び転移を行った。都合、二箇所を切り裂いたことになるが、気にするようなものでもない。
最後にシーラが強烈な一撃を飛龍の口腔内に叩きこんだ。飛龍がいままでにないほど怒り狂い、絶叫したほどだ。相当な痛撃となったはずだったが、飛龍は、見る見るうちに再生し、セツナたちを唖然とさせた。
シーラに続いて、ファリアとルウファが水龍湖に着水したが、ふたりは飛龍への攻撃を諦め、湖岸まで泳いで逃れた。幸い、再生行動中の飛龍が攻撃してくることはなく、シーラともども湖岸に辿り着くことができたようだが。
「まったく、無茶ばかりしやがる」
セツナは、自分の身の危険を顧みもしない部下たちの戦いぶりにあきれるほかなかった。ファリアも、ルウフも、シーラも、そしてレムも、皆、自分がどうなろうとしったことではないとでもいうような戦い方をするのだ。他人が傷つくくらいなら自分が犠牲になるほうがましだ、とでもいうかのように。
「皆様、御主人様にだけはいわれたくはないとお想いでしょうね」
レムが、セツナの腕の中で苦笑した。荒れ狂う雷球の中に突っ込んだ彼女には、傷ひとつ見当たらない。無傷といってよかった。しかし、衣服は焼け焦げており、ところどころ、肌が露出していた。その部分に致命傷を負っていたとしても不思議ではない。そして、致命傷を負ったということは、相応の痛みを覚えたはずだ。死ぬほどの痛みだったのかもしれない。だから隙を晒し、飛龍の攻撃を避けられなかったのだ。
命の同期によってレムは死なない存在となった。どれだけ傷を負ってもたちどころに回復してしまう肉体を得た。だが、それは彼女が痛覚を失ったということではない。頬をつねるだけで痛がるのだから、致命傷を受ければ、そのすさまじい痛みを感じないはずがなかった。
「だろうな」
セツナは、彼女の言葉を否定しなかった。実際、セツナも相当な無茶をしてきている。無茶をしなければならない場面ばかりだった。道理を抉じ開けるには、無理を通す以外に道はないのだ。
「わたくしのために傷を負うなど、馬鹿げております」
レムは怒ったような口調でいいながらも、どこか嬉しそうな表情に見えた。気のせいかもしれないし、いつも通りの笑みを勘違いしてしまったのかもしれない。彼女は、よく笑う。むしろ、笑顔以外の表情を見せることのほうが少なかった。もちろん、常に心の底から笑っているわけではないのだろうが、作り笑顔のほうが少ないように思えた。
「そうでもないさ」
「ファリア様に怒られるのはわたくしなんですよ?」
「なんでだよ。ファリアがそんなことで怒るかよ」
怒ることがあるとすれば、レムにではなく、セツナに直接いうだろう。彼女はそういう人物だった。そして、そういう彼女の忠告こそ、セツナを成長させてくれるのだ。
レムがセツナの肩に手を置いて、立ち上がった。フリルのついたスカートもぼろぼろで、細い足の付け根まで見えた。下着まで見てしまいそうになって、慌てて立ち上がる。そんなことに注意を向けている場合ではない。
湖に目を向けると、飛龍が翼を広げていた。そこへ、オーロラストームの雷撃が殺到するが、飛龍と雷撃の間に水の壁が立ち上がって雷光を拡散した。飛龍は、周囲の空間を支配する能力を持っているのかもしれない。黒い霧を自在に操ったように。水飛沫を防壁としたように。湖水を支配したように。
「ファリア様のことは、よくわかっておいでなのですね。わたくし、安心しました」
「一番、長い付き合いだからな」
「御主人様にとって特別な御人でございますものね」
「否定はしないよ」
「妬けます」
「は。本当かよ」
「はい」
「ま、おまえだって特別さ」
「きっと、ミリュウ様も、シーラ様も特別なのでございましょう?」
レムがおかしそうに笑った。笑いながら、影から“死神”を出現させる。彼女は、再蘇生後も“死神”の発現能力を失わなかったのだ。いや、ただ能力を失わなかっただけではない。死神壱号として活動していたころよりも強化されているといったほうが正しかった。死神壱号レム・ワウ=マーロウは、黒獅子の仮面を被らなければ、“死神”を発現することはできなかったらしいのだが、再蘇生後のレムは、仮面を用いずとも“死神”を発現させることができた。
そもそも、仮面そのものを持っていないのだが。
おそらく、闇黒の仮面の眷属であった死神壱号と、セツナの使い魔となったレムでは、能力の行使に関する権限や条件が変わったのだろう。
その“死神”は、人間の骸骨を思わせる体に闇の衣を纏っている。手には、レムの扱っていた巨大な鎌が握られており、死神という言葉から連想する姿そのままといってよかった。巨大な鎌の巨大な刃は、そのまま、破壊力の凄まじさを物語っている。
「御主人様は本当にずるいひとでございますね」
「ファリアいわく、卑怯者だとさ」
「まったくそのとおりだな」
といって口を挟んできたのは、シーラだ。水龍湖に着水した彼女は、全身ずぶ濡れになっていた。ゆったりとしていた衣服が肌に張り付き、肉感的な肢体が浮き彫りになっている。つい見つめてしまいそうになる自分を胸中で叱咤して、彼女の顔に視線を集中させる。長い白髪も水を吸って顔に張り付いていた。シーラがいたずらっぽく笑う。
「この、卑怯者め」
「主を罵るのかよ」
セツナが笑い返すと、彼女は急に恭しい態度をとった。
「ではでは、御主人様、おひとつ伺ってもよろしいでしょうか?」
「なんだよ、改って」
「我々が戦っている怪物は一体何なのでございましょう?」
シーラは、水龍湖で再生を完了させようとする物体を指し示した。見るからにドラゴンだ。しかもワイバーンと呼称される類のドラゴンであるが、この世界でもワイバーンと呼ばれるのかはわからない。アズマリアはワイバーンと呼んでいたが、彼女の知識がこの世界に限定されるとは思えないのだ。“空を渡るもの”アズマリア=アルテマックスは、異世界の情報さえ知っていたとしても、なんら不思議ではなかった。
「ドラゴンだな」
セツナは、その一言で端的に説明した。水龍湖の水分を吸収し、いまにも完全なる再生を遂げようとする巨大な化け物は、まさにドラゴンと呼ぶに相応しい威容を持っていた。エメラルドグリーンの鱗に覆われた巨躯は全長五メートルほどか。長い首の先には威圧的な頭部を持ち、鰐のように突き出た顎に、構内に並ぶ無数の牙、宝石のような眼球が特徴的だった。側頭部から後ろに向かって伸びる一対の角、鬣のように首筋に走る無数の突起物がその怪物の凶暴性を示すかのようであり、一対の翼と二本の足は猛禽類を思わせた。飛行生物であるのは間違いない。首のように長い尾が水龍湖に沈んでいた。そこから水分を汲み上げているのだとしても、おかしなことではない。そもそも、ドラゴンという神秘的な生物に対して、こちらの常識が通用するとは思いがたい。
「確かに、そのようでございますね。実在するドラゴンをこの目で見るのは、これが初めてにございます。では、一体どこから現れたのでございます?」
「突然、どこからともなくだよ」
セツナは即答して、黒き矛を構えた。嘘ではない。必ずしも本当のこととはいいがたいが、どこからともなく現れたというのは、事実だった。アズマリアのゲートオブヴァーミリオンがこの大陸のどこに繋がったのかなど、セツナには知る由もないのだ。真実を伝えるのならば、アズマリアにけしかけられた、というべきなのだろうが、ファリアのいる手前、魔人の名を出すのは憚られた。水龍湖は広く、ファリアは対岸にいるのだが、セツナたちの会話くらい、耳に届いているだろう。オーロラストームは、強力な召喚武装だ。この程度の距離なら小声で話している内容さえ聞き逃さないほどの聴力を得ているはずだ。
「突然どこからともなく現れ、御主人様に襲いかかったのでございますか?」
隣で、シーラもまたハートオブビーストを両手で構える。クルセルク戦争で骨折した腕は完治したらしく、戦闘行動に支障すらないようだった。
レムはとっくに戦闘態勢だった。といっても、今度は彼女自身ではなく、“死神”が戦うらしい。敵は湖上。レムが近づくのは難しい。しかし、それはセツナたちも同じだ。その上、遠距離攻撃がまるで通用しないとなれば、打つ手がない。
「ああ、そのとおりだ」
「御主人様を疑うわけじゃないが、本当なのかよ」
「あ、諦めた」
「堅苦しいのは嫌だっていったのはセツナだろ」
「ああ、そうだな」
セツナは笑ってシーラの発言を肯定した。まったくその通りだ。その通りだが、それは彼女の本音でもあるのだろう。シーラは王族として生まれ育ったこともあって、セツナとは比べ物にならないほどに礼儀作法のしっかりとした女性だ。しかし、レオンガンドとナージュの結婚式でガンディオンに訪れた際、彼女自身がセツナとの会話の中で、堅苦しい言葉遣いを望まなかった。王女でありながら、シーラと呼んでいいといい、対等な関係を求めた。
セツナがシーラにくだけた態度でいいといったのは、そのことがあったからだ。
レムにそうさせていないのは、彼女自身が従者としての立場を好んでいるからにほかならない。そして、レムが従者を楽しんで演じているのなら、なにもいうことはなかった。いずれにせよ、セツナは彼女たちになにかを強制するつもりはないのだ。
セツナは、居場所になろうと想っている。行き場をなくしたひとたちの居場所として、あろうとしている。
セツナは、この世界に召喚された異世界の住人だ。居場所などあるはずもなければ、頼れる人も、寄る辺もなかった。そんなとき手を差し伸べてくれたのがレオンガンドであり、ガンディアという国の中に居場所ができた。居場所を護るために戦って、戦って、闘いぬいた。そしてようやく、確固たるものを得た。
領伯という立場が、セツナの意識を大きく変えたのだ。