第八百五十話 五月五日・ファリアの場合
大陸暦五百二年五月五日。
彼女の誕生日の翌日、ファリアは、いままで感じたこともない苦悩の中にいた。これまでの人生で、ここまで悩ましいことがあっただろうか。それも、誕生日という幸福な一日の翌日に、だ。これほどまでに頭を悩ませ、これほどまでに苦しみ抜いたことなどなかったはずだ。
いや、もちろん、いままで他人の誕生日を祝ったことがないわけではない。
祖母の誕生日はリョハンをあげて盛大に祝うものであり、ファリアも、偉大なる祖母の誕生日を祝福するための贈り物に頭を悩ませたものだ。毎年毎年、どうすれば祖母が喜ぶものかと思案し、結局のところ、手作りの料理が一番なのではないかという結論に落ち着くのが恒例の行事といってもよかった。祖母は食べることがなによりも好きだった。祖母がクルセルク戦争に参加して一番嬉しがっていたのは、山上の都市であるリョハンでは食べることができないようなものがいくらでも食べられることだった。兵量ですら喜んで食べていたのだから、ファリア=バルディッシュの胃袋恐るべしといったところかもしれない。
祖母だけではない。父や母の誕生日を祝うことも忘れなかったし、アスラリア教室の仲間や、親交のある人々の誕生日だって祝福してきた。ガンディアにきてからは、エリナの誕生日に頭を悩ませるのが毎年の恒例となっていたものだ。
だが、それでも、今日ほど苦悩することはなかった。
今日、五月五日は、彼女の人生にとって特別な人物の誕生日だった。
セツナ=カミヤ。
十七歳でこの世界に召喚された少年は、今日を持って十八歳になる。
(十八歳……か)
小国家群に属する多くの国では成人としての扱いを受ける年齢であり、ガンディアも例外ではない。ヴァシュタリアは二十歳で成人だが、ヴァシュタリア勢力圏内の自治都市リョハンでは、小国家群の大半の国と同じ十八歳が成人年齢となる。神聖ディール王国では、聖なる数字である十七歳が成人年齢であり、ザイオン帝国では始皇帝ハインが帝位についた十六歳という年齢が、成人の年齢とされている。国によって様々だということだが、いずれにしても、ガンディアにおいてセツナは成人になったということだ。
今日は誕生日だけでなく、セツナの成人を祝う日でもある、ということだ。
ファリアは、自分が頭を悩ませるのは当然のことだと思わざるを得なかった。
「ファリアさん、この間からずっとあんな調子ですね」
「ま、そりゃそうさね。なんたって、隊長殿の誕生日だろ?」
「だからって、一ヶ月以上も悩み続けるものですかね」
「ま、恋する乙女ってのはそういうもんさ」
彼女は、なにか言いたい放題いっている連中は視界に入れないようにして、物色を続けた。ファリアが頭を悩ませているのは、もちろん、天輪宮の中などではない。レムが収集した情報により、龍府北部には様々な商店が集まっている一角があるということが判明し、ファリアたちはそこでセツナの誕生日の祝う品を探すことにしたのだ。
書店、雑貨店、武具屋、鍛冶屋など様々な店を歩き回り、物品を直接手に取ったりしながら、彼女は苦悩していた。一方、ルウファ、エミル、マリアの三人は目的の品を入手し、いまではファリアの後を付き纏い、あれやこれやと言いたい放題に喋りまくっていた。それだけではない。美味しそうな食べ物を発見すると、ファリアのことなどそっちのけで買いに走り、ファリアが必死に頭を悩ませている後ろで食べ始めるのだ。鬼の所業だと彼女は非難したが、さっさと決めないファリアが悪いというマリアの言い分には反論の余地もなかった。
今日まで、考える時間はあった。
彼の誕生日が五月五日で、ファリアの誕生日の翌日だということは、随分前に判明していたのだ。それからクルセルク戦争があり、事後処理に時間を取られたりしたものの、頭の隅では常にそのことがあった。セツナがどういうものを欲しがっているのかさり気なく聞いてみたりしたこともあるのだが、セツナが欲するものは平穏な日常などといったものであり、彼の欲の薄さには唖然としたものだった。もちろん、セツナのそういうところに惹かれるのは間違いないのだが、こういうときには、その欲の薄さが仇になるといわざるをえない。
『御主人様の欲の薄さは、裏を返せば、どのようなものでも喜ばれるということではないかと』
レムの助言が的を射ているのはわかっている。
それでも、ファリアは、セツナを心の底から喜ばせたかった。今日という日を記憶に残る一日にしたかったのだ。セツナが喜ぶ顔を想像するだけで、頬が緩んだ。そのたびにマリアたちがひそひそと話し合うのだが、彼女は黙殺し、熟考を再開した。
「隊長補佐殿、あたしにひとつ提案があるんだけど」
「提案?」
「そ。最愛のひとの誕生日に頭を悩ませているあんたにとっては朗報中の朗報さ」
「最愛のひと、とか、そういうんじゃなくて……」
「ま、それは置いておくとして、だ。今日は隊長殿の十八歳の誕生日だろ?」
「え、ええ、そうよ」
(置いておいていいようなことなのかしら)
気にはなったが、話を戻してもしかたがないので、ファリアは彼女に話を進めさせることにした。問いただそうとすれば、藪蛇になりかねない。いや、間違いなくそうなる。そしてまた、三人でひそひそと話しだすのだ。ファリアの耳に届くか届かないかの微妙な大きさの声で。
「だったら、決まりだね」
「決まり?」
「隊長補佐自身をさ、隊長殿に差し上げればいいんじゃないかね?」
「わたし自身を?……はあ!?」
一瞬考えかけて、それがとんでもないことだという事実に気づき、その瞬間、彼女は素っ頓狂な声を上げた。店内の客や店員の視線がファリアに集中するが、そんなことは気にしてもいられなかった。マリアの発言によって脳裏に描きだされた想像図が、彼女から冷静さを剥奪するには十分すぎるほどの威力を持っていたのだ。
「なるほど、それなら隊長も喜ぶな、うん」
そんなことをいってのけるルウファを一瞥して、彼が凍りついたのを確認してからマリアに向き直る。《獅子の尾》専属の女医は、こちらの反応を面白おかしそうに見ているのだ。ファリアは彼女を睨み、叫んだ。
「ちょっと、なにをいってるんですか!?」
「これ以上ないと思うんだけどねえ」
「そんなことできるわけないでしょ!? 常識的に考えてください! 正気を疑いますよ! 本当にもうっ!」
ファリアは、叫ぶようにまくし立てると、手に持っていた商品を店員に渡し、会計を済ませると、憤然と店を出て行った。体が熱い。燃えるような熱量は、どこから来るのだろう。興奮しているのではない。羞恥心だ。自分の愚かな妄想への恥ずかしさが体を焼くのだ。きっとそうだ、そうに違いない。ファリアはそう結論づけてから、店内に残った三人をもう一度だけ睨んだ。
(まったく、なにを考えているのよ!)
胸中で毒づきながら、彼女は商店街の探索を再開した。ひとつめの品物は手に入れた。しかし、これだけではセツナを喜ばせることはできないと彼女は考える。いや、セツナは喜んでくれるだろう。レムの分析通り、彼はどのようなものでも喜んでくれるはずだ。言葉だけでも、態度だけでも、彼なら喜ぶに違いなかった。
マリアのいうように、ファリア自身が贈り物となったとしても、喜んでくれるのは疑いようがない。
(馬鹿じゃないの!?)
自分が、マリア=スコールに毒されかけていることに気づいて、天を仰いだ。おそらく、ミリュウなら喜んでするようなことだろうが。
もっとも、ミリュウならば、ファリアが妄想しかけたような事態には発展し得ないのはまず間違いない。
ミリュウは積極的に見えて奥手だ。セツナと触れ合うことに対しては積極的で、だれがどう見ても、彼女とは常に積極的かつ大胆な人物なのだろうと思いがちだが、実際、積極的なのは一方的なものでしかない。セツナがミリュウに対して愛情を示すと、彼女は途端に初な少女になる。顔を赤らめて動揺し、人が変わったかのように逃げ出してしまうのだ。
魅惑的な美女の奥に潜む純情な少女という本質。その不均衡こそミリュウの魅力であり、ファリアが彼女を放っておけない理由なのかもしれない。
空は、晴れていた。
雲ひとつなく、滲んだような青が広がっている。どこまでも続く空は、リョハンの天地に至り、大陸の果ての果てまで覆い尽くしている。さっきまで体を包んでいた熱が、急速に冷めていく。冷静さを取り戻せたからだ。それもこれも、ミリュウのことを考えたからかもしれない。
ミリュウは、ファリアにとって年上の妹といってもよかった。いつの間にか、そんな関係性が出来上がってしまっていた。最初は敵だった。倒すべき敵だったはずなのだが、彼女が捕虜になったとき、恋敵になってしまっていた。
彼女もきっと、セツナの誕生日のことで頭を悩ませているに違いない。そして、マリアの提案を聞けば、飛びつくに違いない。彼女ならば、セツナの寝室に飛び込むことさえ容易だ。しかし、セツナとの間になにかが起きる心配はない。
そんなことを考えていたときだった。
「なに……あれ?」
ファリアが目を凝らしたのは、その青さの中を闇のように黒い物体が横切っていくのを目撃したからだ。