第八百四十六話 五月五日・セツナの場合(三)
龍府は、小国家群に存在する数多の国々の、それこそ無数ある都市の中でも特筆してもいいほどに長い歴史を誇る都市だという。
大陸の長い歴史の中で、五百年ほど前に起きた大事件がある。
聖皇ミエンディア・レイグナス=ワーグラーンによる大陸統一と統一国家の誕生、そして崩壊のことだ。統一国家の崩壊は大分断と呼ばれることがある。ひとつに纏まったはずの国が無数の小国家、小勢力に分かれ、人々の絆さえも断ち切られたことが、その名称の由来だといわれている。
大分断以降、ワーグラーン大陸に戦火が絶えたことはない。大分断以前の十数年は平穏そのものだったともいわれており、聖皇による統治が長く続いていれば、大陸全体が平和な歴史を歩んだかもしれないという声もあった。
もっとも、聖皇六将が反乱したことによって聖皇が死んだという話を聞いた以上、聖皇の統治が続いたところで、平和が長く続いたかどうかも疑わしく思えてくるのだが。六将に裏切られた聖皇は、大陸統一事業に協力した部下たちの心さえ掌握できなかったということだ。
大分断が起きたことで、無数の小国家、勢力が生まれた。ザルワーンも大分断の直後に生まれた国だといい、国の誕生と同時期に作り上げられた龍府は、つまるところ五百年近い歴史を誇るということになる。
古都――と呼ばれることが多い。
静謐に包まれた古めかしくも美しい町並みは、どうにも人の心を引き付けるものがあるようだった。建物の作りそのものが、ガンディアやログナーのそれとは大きく異なっている。ガンディアやログナーの建物が西洋風というのならば、龍府のそれは東洋風といって差し支えがない。龍を象徴する装飾が多いのも、東洋的な印象を与える。東洋風というよりは、中華風といったほうが近いのかもしれない。が、中華風というほど派手な印象はなく、古都というに相応しい大人しさというか、穏やかさ、寂莫さがあった。
セツナは、龍府をじっくりと散策できる機会が巡ってきたことに喜びを禁じ得なかった。これまで、そのような機会が巡ってきたことはない。ザルワーン戦争終結後、しばらくは龍府に滞在していたものだが、あまり歩き回ることはできなかったのだ。当時は心身を休めるほうが先決だった。
今日も長期休暇の真っ只中であり、休暇ということは心身を休めることが大事なのだが、心を休めるためにも街を散策するのは悪いことではあるまい。レムのいっていた気分転換こそ、精神的な疲れを取るのに最適なのだ。
もっとも、肉体疲労も精神疲労も、長期休暇に入るまでに取れきっているといっても過言ではなかった。クルセルク戦争の最終盤、セツナたちはクルセールに待機しているのが仕事だったのだ。反逆者討伐に一ヶ月近くかかっている。疲れも取れるというものだ。
「で、それでいいのか?」
セツナは、なんとはなしに隣に問いかけた。街行く人々の視線がセツナに突き刺さっている。多くの人々が、彼が領伯のセツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルドだということを認識した上で、好奇の視線を送ってきていた。声援を送ってくるものもいれば、近づいてくるものもいた。だが、レムや黒獣隊の面々による牽制が、人々の接近を阻んだ。阻むことこそ出来たものの、一定の距離を開けて人集りが生まれることは、どうすることもできなかった。
どうあがいても人目につく集団だった。
セツナとレムのふたりきりでさえ、目立った。レムの格好が目立つ上、彼女は美少女といってもいい容姿の持ち主だ。笑顔を浮かべれば、だれもが息を呑み、男女問わず魅了される。それほどの少女がメイドの格好をして、セツナの後をついて回っているのだ。目立たないはずがなかった。
そして、今回は、レムと同じ服装の女性が五人も増えている。シーラを始め、皆、見目麗しい美女ばかりだ。美しいメイド集団に囲まれた少年領伯など話題にならないはずはなく、人々の騒ぎが騒ぎを呼び、身動きがとれないほどの人集りが形成されつつある。
「よくよく考えてみりゃあ、男装の王女シーラ・レーウェ=アバードがこんな格好で出歩いてるなんてだれも想像しないだろうし、案外、悪くないかも」
とはいいながら、シーラは格好そのものが気に入っているような素振りを見せていた。自分で自分のことを男装の王女というくらいには、男物の衣服ばかり着ていた彼女だ。レムに似合うようにあつらえられた衣服の可愛らしさが、存外、気に入ってしまったのかもしれない。着用直後の恥ずかしがっていた彼女はどこへやら、だ。
「確かに……な」
(気まずいのは俺の方な気がする)
セツナは、このメイド集団が龍府の領伯の趣味によるものだと噂され、まことしやかに拡散されていくことを懸念した。それでは領伯の威厳もなにもあったものではないし、今後の統治運営に支障が出るのではないかと思わないではなかった。
「皆様!」
不意にレムが大声を上げた。周囲の観衆の注目が、一斉に彼女に集中する。セツナは嫌な予感がしたが、どうすることもできないということも、わかりきっていた。動き出した彼女を止めることは、容易なことではない。
「これから龍府の領伯たるセツナ様が、この街を知るために散策なさるおつもりですので、どうかわたくしどものことは放っておいてくださいまし!」
「おい」
「わたくしどもの邪魔をなさる方々は、領伯親衛・黒獣隊による鉄拳制裁が下されますので、どうかご容赦の程を! 投獄されても構わないという方のみ、立ち向かってきてください!」
「おい」
「では、参りましょう」
あまつさえ天使の笑みを浮かべて促してきたレムに、セツナは、顔面が引きつるような感覚を覚えずにはいられなかった。セツナたちを遠巻きに見守っていた観衆は、レムの発言を受けて、さらにその間合いを広げ、中には関わらないほうが身のためだと退散するものもいた。また、悪い噂が生まれそうな気がして、頭を抱えたくなる。
レムは、セツナのためを想って行動しているのだろうが、その多くのことが裏目に出ている気がするのは、気のせいなのだろうか。
「レムって、こんなんだっけ?」
シーラが尋ねてくる。彼女の記憶の中のレムは、レム・ワウ=マーロウと名乗っていた頃のものが多いのだろう。シーラの知るレム・ワウ=マーロウは、任務のためにセツナの使用人を演じていたのだが、慇懃無礼ではあったものの、ここまでぶっ飛んではいなかったはうだ。少なくとも、シーラたちにメイド服を着せたり、龍府の住人に向かってあのようなことを言い放ったりはしなかった。
「いや、こんなんじゃなかったはずだ」
「どうなってんだよ」
「たがが外れたんじゃねえかなあ……」
セツナは、遠い目をした。脳裏に浮かぶのは、再蘇生のことだ。レムは再蘇生によって、その魂の支配者がクレイグからセツナに移った。セツナは彼女の魂を支配しているという感覚はないし、認識もない。もしかしたら、いまの彼女が本来の彼女であり、クレイグは彼女の奔放な魂をある程度制御していたのかもしれない。そう考えれば、ありえないことでもなさそうではあった。
シーラが半眼になった。疑わしいとでもいうようなまなざしだ。
「なにをしたんだ? 御主人様よ」
「なにもしてねえよ」
「嘘にございます」
間髪入れずいってきたのは、当然、レムだ。
「は?」
「あのとき、御主人様はわたくしにあんなことやこんなことをなされたではございませんか……」
「な――」
「え!?」
「あんなことやこんなこと……興味あるねえ」
「まさか、御主人様、お忘れになったのでございますか?」
「ひとが聞いたら勘違いするようなことをいうんじゃねえよ!」
セツナは叫んだが、黒獣隊の面々から誤解を拭い去ることは不可能のようだった。