第八百四十二話 五月五日・ミリュウの場合(四)
オリアンの研究室は、屋敷から離れた場所にあった。
屋敷を買い取ったとき、敷地内の外れにあった倉庫に根本的な改造を施して生まれたのが、オリアンの研究室だった。研究室には、オリアンと彼の部下である研究員以外の立ち入りが禁じられており、執事長であったセナ=タールトンを始めとする使用人たちはおろか、ミリュウたち家族ですら、研究室の内部を見ることはできなかった。オリアンが研究室でなにを研究しているのか気になって仕方がなかったものだが、親の言いつけを護るのが当時のミリュウであったため、彼女がオリアンの研究室に侵入するようなことはなかった。
リバイエン家の令嬢として生まれ育った。
挙措動作、礼儀作法、情操教育――上流階級の人間として、必要不可欠なものを身につけていったものだ。そこに疑問を差し挟むわけもなかった。この箱庭の世界こそがすべてだったのだ。どこに疑念を抱くのか。与えられる情報が世界のすべてだ。その情報に齟齬がなければ、疑問を抱くことなどありえない。
屋敷の壁の外に出てはいけないといわれれば、素直にそれに従った。壁の外は危険だといわれれば、恐怖した。壁の中で過ごしていればいいのだ。それだけで幸福になれる。子供の頃は、それでよかった。それだけで幸せだった。
十代も半ばに至ると、そういうわけにもいかなくなる。
貴族同士の交流があり、社交の場に出なければならなくなるからだ。
ミリュウも、龍府の各地で開かれた晩餐会や舞踏会に呼ばれ、父や母、兄弟とともに参加したものだ。世にも珍しい白金の髪を靡かせ、舞い踊る――そんな優雅な日々もあった。メリル=ライバーンと親しくなったのも、そういった日々の中でだ。もっとも、メリルと知り合ったのは、社交の場ではなく、ライバーン家の屋敷で、だったが。
オリアンは、ミレルバスと親交が深かった。
自然、ミレルバスの子供たちとオリアンの子供たちが接触する機会は多かった。ゼノルートはリュウイと気が合い、ジナーヴィはシリュウ、リュウガを従えて遊び回り、メリルはミリュウについて回った。
ゼノルートもジナーヴィもザルワーン戦争で死んだ。リバイエン家の兄弟が全員生存しているという事実は不思議に思えてならなかった。シリュウ、リュウガは、龍眼軍の部隊長を務めていたはずだったが、征竜野の戦いを生き延びたらしいのだ。運が良かったのか、実力で切り抜けたのか。
そんなことを考えている間に研究室に辿り着いた。元はただの倉庫だったという建物は、外観からして倉庫とは思えないようなものに作り変えられていた。根本的な改造によるものなのだろうが、どの程度のことを改造というのかは、ミリュウには想像もつかない。
長方形の建物だ。二階くらいはありそうな大きさであり、扉は正面にひとつしかない。窓はあるが、閉ざされている。目立った汚れや埃が積もっている様子もない。
オリアンが天輪宮での研究に没頭し始めて以来、長い間、放置されているはずだったが、外側の手入れはされているようだった。オリアンを主と仰ぐセナが掃除しているのかもしれなかった。
セナが扉の正面に立ち、鍵を開けた。ここに至るまでどこにも立ち寄らなかったところを見ると、どうやら研究室の鍵は常に持ち歩いているらしかった。
「こちらをどうぞ。研究室内の魔晶灯は撤去されております故」
「ありがとう」
ミリュウは、セナから小型の携行用魔晶灯を受け取ると、研究室内に足を踏み入れた。入る前からわかっていたことだが、室内はなにも視えないほどに真っ暗だった。窓が閉じているのだ。光が差し込まないのも道理であり、魔晶灯が必須だというのもよくわかった。
彼女は魔晶石に触れると、光が満ちるのを待った。待ちながら、セナが扉を閉じるのを止めなかった。彼は、ミリュウの意を汲んでくれたのだ。彼女はこの研究室の探索をだれにも邪魔されたくなかった。
魔晶灯の冷ややかな光が、ミリュウの周囲から闇を払い退ける。太陽光とはまるで異なる温かみのかけらもない光は、しかし、闇の中で行動するには十分に有りがたいものだ。
「なによ……これ」
ミリュウは、魔晶灯を高く掲げて、茫然とした。
研究室の一階には、なにもなかったのだ。なにも、だ。机も椅子もなければ、なんらかの実験器具や研究材料、研究に必須であろう書類も見当たらない。魔晶灯を設置していた器具だけは見つかったが、それ以外に目立つものは一切なかった。闇の空間が広がっているだけであり、ミリュウは落胆を禁じ得なかった。オリアンの研究室だ。なにかがあると想ったのだ。自分の過去と対峙するのに必要ななにか。
(そんなものが、父上の研究室にあるわけないのにね)
冷ややかに認める。自分の過去と対峙するつもりならば、自分と関わりの深い場所を訪れるべきだ。自分の部屋や母の部屋を覗くべきなのだ。
が、それでも彼女は室内を進んだ。なにかに躓かないよう魔晶灯で足元を照らす。そんななにかがあるようにも思えないのだが、万が一ということもある。
魔晶灯の光が照らしだすのは、ただの石の床だ。本当になんの変哲もない床の上を歩いていくと、やがて一階の突き当りに至る。一階はだだっ広い空間が一室だけであり、突き当りに二階と地下に続く階段が設置されていた。意を決して二階を覗くが、二階にもなにもなかった。オリアンは、天輪宮での研究に集中するため、機材や資料の類もすべて天輪宮に移動させたのかもしれなかった。
多少肩を落としながら、階段を降り、一階で逡巡する。地下に降りるべきか。それとも、研究室を出るべきか。地下に降りてもなにもないのは明らかだ。あの神経質な男が、地下室だけ手を付けずに放置しておくはずがなかった。
なにもないのは間違いない。
(ここまできたのよ)
ミリュウは自分を奮い立たせると、地下室への階段を降りた。
地下もまた、一階や二階と同じように大きな空間がひとつだけあるようだった。こんなところでどんな研究や実験を行っていたのか多少気になったものの、決して人のためになるようなものではないだろうことは明らかであり、考えるだけ無駄だということもわかる。おそらく、魔龍窟での研究に通ずるものに違いない。
ザルワーン戦争最終戦でザルワーン軍に圧倒的な力を与えた蘇生薬や英雄薬と呼ばれるものの研究の一端が、ここで行われていたとしても不思議ではない。そして、そのためにどれだけの命が犠牲になったのか、想像するだけで恐ろしくなる。
幸せな世界の片隅で行われたであろう残酷極まりない実験の数々。
箱庭の幸福など、所詮は彼女を縛り付けるための幻想に過ぎないのかもしれない。
彼女は唇を噛み締めながら、埃っぽい地下空間を歩いた。
魔晶灯の光が浮かび上がらせるのは、地下空間を漂う埃であり、床に刻まれた紋様だ。一階や二階にはなかったものを発見したことに、彼女は、怪訝な顔になった。あの男が、地下だけ手を付けていないとは思えないのだが、消し損ねたとでもいうのだろうか。
その場に屈み込み、魔晶灯の光を床に近づける。
床に描かれた紋様は、魔方陣のように見えた。古代言語と複数の記号からなる魔方陣。古代言語は、武装召喚術の術式によく似ているが、細部が異なっている。
(この術式は破綻しているわ)
読み取る限り、武装召喚術の術式としては失敗作といってよかった。この呪文を唱えたところで、召喚武装が出現することはないだろう。世界に干渉することさえできないのではないか。
ミリュウは、オリアンがそのような失敗をするはずがないと思いながら、周りを見た。魔方陣は、床だけでなく壁や天井も使って描かれている。地下室そのものが巨大な魔方陣となっているようだった。しかし、魔方陣に使われている呪文の繋がりが酷く、とても魔龍窟の総帥として君臨した男が構築した術式にはみえなかった。
ミリュウたちに武装召喚術を叩き込んだのは、オリアン=リバイエンだ。魔龍窟総帥を名乗った当時の彼は、その圧倒的な武装召喚師としての実力をミリュウたちに見せつけることで、彼女たちを掌握した。彼の展開する複雑かつ精緻な術式は、いまのミリュウですら真似のできない代物であり、地下空間に描き出された魔方陣とは比較のしようがなかった。
子供の落書きと芸術家の作品ほどの違いがある。
(つまり、これは武装召喚術の術式じゃないってことね)
そもそも、武装召喚術の術式を魔方陣に組み込むことに意味があるのかどうか、
ミリュウは立ち上がると、地下室の奥に向かおうとした。向かおうとして、はっとなる。
前方になにかがいたのだ。
なにものかが、こちらを見ていた。それはひとの形をしていた。しかし、はっきりとはわからない。だが、確実にそこに存在することは認識できる。だれかがミリュウが来るより先に潜り込んでいたというのだろうか。研究室の出入り口はひとつしかなく、扉の鍵はセナ=タールトンが厳重に保管していたようなのだ。彼が主の命令もなく研究室を開放するわけもなく、だれかが入り込む余地などはない。
ミリュウが二階にいっている間に地下に潜り込むことはできたかもしれないが、そのためには出入り口を固めているであろうセナを突破しなけれがならないのだ。セナは武術の達人でもある。突破は簡単なことではない。
「だれ?」
ミリュウは、警戒とともに魔晶灯を床に投げ出し、半身に構えた。戦闘術は、オリアンから教わったものではない。魔龍窟で生き抜くために自然と身についたものだ。我流であり、実戦的なものだといっていい。
魔晶灯の光は、前方を照らしている、。
光の中、それはこちらを見ていた。
こちらを見て、微笑を浮かべていた。
白金の髪と痩せぎすの顔が、研究室の主を想起させた。
「父上!?」
ミリュウは、ただ、愕然と叫んだ。