第八百四十話 五月五日・ミリュウの場合(二)
「こういうとき、どういう風にいえばいいのかしらね。ただいま?」
ミリュウは、執事の表情に胸を打たれながらも、距離感を確認するように問いかけた。白髪の老執事は、ミリュウの反応をある程度は予想していたのだろう。表情を変えぬまま、穏やかに告げてくる。
「お嬢様の思うままに」
「じゃあ、なにもいわないことにするわ」
帰ってきたわけではないから、ただいま、などという気にはなれなかった。出迎えてくれた彼には悪いと思うのだが、この屋敷に戻るつもりはない。ここには、必要があるから覗きにきただけであり、用事が終われば、すぐに出て行く予定だった。そして、もう二度と近づくことはないだろう。
「ただ、また会えて嬉しいのは事実よ、セナ」
「わたくしめの名を覚えておいでくださっていたとは……感涙にございます」
名を告げると、彼は、瞳をことさらに震わせた。目に溜め込んでいた涙が、いまにも零れ落ちそうだった。彼が感激しやすいのは昔からなのだが、この十年でさらに激しくなったのかもしれない。
(十年……か)
十年。約十一年だ。彼が涙もろくなるには十分過ぎる時間が流れたのかもしれない。
セナ=タールトン。オリアンが当主となった後、雇い入れた人物であり、執事としての礼節を弁えた上で主人に対しても必要とあらば注意、忠告を行う彼のことを、オリアンはリバイエン家の良心だといって憚らなかった。そして、実際その通りだったのだから、笑い話にもならない。母親以外では、彼だけがこの家にとっての良心だったのだ。
オリアンはもちろんのこと、ミリュウも悪心というほかない。
「いくらあたしが薄情者でも、あなたのことを忘れるなんてあるはずないでしょ」
「過分なお言葉にございます」
「仕事に熱中しているあのひとに代わりは、いつだってあなただったもの。ありがとね。ずっと、見守っててくれて」
ミリュウが感謝を述べると、セナは、はっとしたのち、号泣した。ミリュウは彼の反応に困ったが、困りながらも、嬉しくて仕方がなかった。彼と再会出来たことだけは、この屋敷に戻ってきたおかげだといえるだろう。
魔龍窟にいる間も、セナ=タールトンに対しては、憎悪は生まれ得なかった。母に対してもそうであったが、親代わりの彼を憎むのは、間違っているということがわかっていたのだ。憎むべきは地獄に落とした実の父であり、実の父に代わって彼女の育成に骨を折り続けたセナには、感謝しかないのだ。
それに比べて兄弟は、憎んだ。
殺したくなるほどに憎み、憎めば憎むほど、虚しさが増大した。兄や弟たちを憎んだところでなんの意味もない。その事実を理解しながらも、憎悪をぶつける相手が必要だったのだ。でなければ、あの地獄を生き抜くことはできなかっただろう。
生き抜いてこられたから、いま、こうしてこの屋敷の前に立っていることができる。
そういう意味では、感謝してもいいのかもしれない。
門を抜けると、広い前庭がある。
箱庭の楽園を象徴するかのような前庭の光景は、十年前からほとんどなにも変わっていないように思えた。屋敷の正面玄関まで続く石畳の道。その左と右で異なる風景が描き出されており、それこそオリアンがこの屋敷を買い取った理由だという。右には大きな池を中心とした小さな森が横たわり、池には魚が泳ぎ、森には小動物が生息している。左にはまるで空から落ちてきたような巨石が聳え、その周囲に無数の石が並べてあった。巨石を中心とした石の配列は、呪文に似ている。前の持ち主は、この巨石でなんらかの儀式を行っていたのかもしれない。
ミリュウは、セナに先導されて石畳の道を歩きながら、右手の森を見た。子供の頃は、あの小さな森がとてつもなく深く、広大なものに見えたものだった。夜に見ると、森の闇が巨大な口を開いているように思えて恐怖し、父に縋り付いては笑われたものだ。
『恐怖とは思い込みからくるものだ。なにも考えなければ、恐怖など生まれぬ』
オリアンはよくいった。そのたびにミリュウは言い返した。
『なにも考えないなんてこと、ミリュウにはできませぬ』
『当たり前だ。人間は思考する生き物だからな。常になにかを考えずにはいられない』
オリアンの答えも、いつも同じだった。そして、そのたびに彼女は頬を膨らませて、オリアンに笑われた。
「どうされました?」
「ちょっとね……子供の頃を思い出したのよ」
「左様でございますか。そういわれれば、お嬢様は幼き頃、あの森に魔物が潜んでいるというリュウイ様のお話を信じておられましたな」
ミリュウには、三人の兄弟がいる。一番上の兄はリュウイ、弟はシリュウ、下の弟はリュウガという。皆、リュウという名がついているのは、母の名前から取られているからだ。
母は、リュウナといった。リュウナ=リバイエン。オリアンが唯一愛した女性だという女性であり、まさに慈母と呼ぶに相応しい人格の持ち主だった。彼女とセナがこの家を保たせていたといっても過言ではなく、ミリュウは母と執事のみは憎むことができなかった。そして彼女のいないこの家に戻ってくることはないと思っていたのだ。
「子供の頃はまだ純粋だったってだけのことよ」
ミリュウが言い返すと、セナはなにもいわなかった。
正面玄関から屋敷の中へ。
広い屋敷のどこへ向かうべきか、彼女は思案の中にあった。自分と向き合うにあたって、向かうべき場所はいくつかあった。そのすべてにいってはじめて、ミリュウは自分の過去と対峙することができるのだ。ミリュウの勝手な考えだったが、そもそもが勝手な思い込みからの行動だった。なにもかもが自分の中で完結している物語なのだ。
(馬鹿げた話なのはわかってる)
それでも、彼女は自分と向き合う必要性を感じている。
自分と、自分の過去を受け入れられて始めて、自分の現在、そして未来を享受する資格を得るのではないか。
そんなことを考えながら、セナの案内するままに屋敷の中を歩いていく。どこもかしこも、十年前となんら変化がなかった。壁や天井の模様も飾りも、昔のままだった。壁に備え付けられた魔晶灯の厳しささえ、子供の頃は恐れを覚えたものだ。
怖がりで、寂しがりで、いつもだれかの側についていた。広い屋敷だ。近くにだれかがいないと、圧倒的な孤独感に押し潰されてしまう。
いまでさえ広さを感じることができるのだ。子供の頃のミリュウには、とてつもなく広大な世界に思えたに違いない。
故に、この屋敷は箱庭の世界になり得た。
この屋敷の敷地内だけが、彼女の天地のすべてだった。
もちろん、この天地の外に世界が広がっていることも知っていた。龍府というさらに広大な外界があり、外界の外にはさらなる外界があるという話も聞いていた。けれど、子供の頃のミリュウには、それがおとぎ話のように思えてならなかったのだ。彼女の価値観は、この屋敷の敷地内で完結していたのだから、それ以上はどうなりようもない。
純粋で無垢で、無知。
子供とは、そういうものなのかもしれないのだが。
「あの頃のままね」
「御当主であられるリュウイ様の御命令でございます」
「へえ」
「先代様が消えられた後、後を継いだリュウイ様は、当面、御屋敷をこのままにしておくようにと命ぜられました。いつ、お嬢様が帰っていらしてもよろしいように」
「あたしが帰ってきてもいいように?」
反芻するように問いかけて、鼻で笑いたくなった。リュウイほどの聡明な男が、ミリュウの帰還を信じていたというのだろうか。
「はい。リュウイ様は、お嬢様が御屋敷に戻られ、また昔のように一緒に暮らすことを望まれておられます」
セナの言葉だったが、ミリュウは、怒りを感じずにはいられなかった。なんて都合のいい話なのか。十年前、救いの手を差し伸べようともしなかったものが、妹の帰りを持っているというのだ。しかも、十年以上前のように一緒に暮らすことを望んでいる、という。
馬鹿にしているのではないか。
セナを睨みかけて、ミリュウは頭を振った。彼はなにも悪くはない。老齢の執事は、リバイエン家の当主となった男の願望を口にしているに過ぎない。
リュウイ=リバイエン。リバイエン家の嫡男であり、オリアンの後を継ぐべき宿命とともに誕生した男は、オリアンとリュウナの子供の中では図抜けて頭が良かった。単純に賢いというよりは、豊富な知識があり、それらの知識を利用するための知恵を持っていたのだ。オリアンの研究も随分と助けたようだが、オリアンは結局、彼を後継者とは認めなかった。
後継者。
家督を継ぐもののことではない。
オリアンにしてみれば、家のことなどどうでもよかったに違いない。リュウイが継ごうと、別の弟達が当主となろうと、そのために骨肉の争いを繰り広げたとしても、なんの関心も持ち得なかっただろう。オリアンの関心はリバイエン家のことではなく、リヴァイアの血の方にこそ向いていたようなのだ。
血の後継者に選ばれたのは、ミリュウだった。
オリアンには、自分がどう見えていたのか。
なぜ、自分が選ばれたのか、
どうして、自分だったのか。
あれほど父を尊び、敬い、愛していた自分に、彼を殺すことなどできるわけがないというのに。
オリアンは、結局のところ、ミリュウをなにひとつ理解していなかったのだ。
彼女が出した結論に、オリアンは反論を浮かべてはこないだろう。
長い廊下を何度か曲がり、やがて、一階最奥の部屋に行き当たる。その部屋は、オリアンが書斎として扱っていた部屋であり、彼がもっとも長く滞在していた部屋だ。結果、当主の部屋として認識されるようになったのかもしれない。
「御当主様は、この部屋でお待ちになられておられます」
「そう」
ミリュウは、無関心に相槌を打つと、セナが室内に呼びかけるのを見ていた。すぐに部屋の中から反応があった。セナが扉を開くのを待ちながら、彼女は気を引き締めた。そうでもしなければ、この馬鹿げた空間を破壊してしまいかねない。
屋敷ひとつ破壊するだけの力ならば、いつでも召喚できるのだ。