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第八十三話 その者の名は毒

「うん、聞こえてるよ。え、ああ、聞かれてはいない。大丈夫」

 最低限に絞られた声は殊更に儚く、虚空に浮かぶと余韻さえも残さずに消えて失せる。

 それは彼ら特有の話し方だった。彼らだけが使う、彼らだけのしゃべり方。他者との意思疎通を図るための言葉ではなく、自身の深奥へと行き届かせるためだけの言葉。自分に言い聞かせるためだけに発する言葉。そこにそれ以上の意図はなく、故に余韻など必要ないのだ。

 言葉にする必用は、ある。

 言葉を用いずとも意思が伝わるなど、幻想に過ぎない。明確な意思を相手に伝えるためには、言葉を用いなければならないのだ。気持ちこそ把握できたとしても、それが思考の全てではあるまい。いや、勝手な勘違いをされても困るのだ。自分の状況を正確に認識してもらうためには、言葉で伝えるより他にない。

 彼は、鉄の扉に当てていた耳を離すと、わけもなく嘆息した。心が繋がっていても、これだ。感情の揺らめきはわかっても、考えていることを把握することはできない。言葉が必要だ。言葉を発したという事実が、ふたりの距離を限りなく近くする。零にはならない。残念ながら。

「いや、なんでもない。こっちのことさ」

 苦笑を漏らす。心配性なのはわかるが、もう少しどっしりと構えていてもらいたいものだ。苦笑とともに発した吐息ひとつにあたふたされていては、たまったものではない。もちろん、相手の反応もわからないではない。状況がわからないのだ。吐息ひとつさえこちらの状況の悪化を想定させるかもしなかった。とはいえ、そこまで気を使っていては息が詰まるのも事実だが。

 ドアに背を預けるようにして座り込む。四方を壁に覆われた狭い空間。魔晶灯の明かりによって照らされてはいるものの、その微弱な光では、圧倒的な闇の勢力を駆逐することはできないらしく、部屋の全容は把握できない。部屋の片隅に置かれた机とふたつの書棚、寝台から考えるに、何者かの寝室なのかもしれない。三方の壁に窓はなく、故に外界を覗くことはできない。窓があったとしても封鎖されるだろうが。

 室内には冷気が満ちている。外界から隔絶されていては、まともに暖を取ることもできない。外気が入り込む隙は見当たらないかに見えたが、やはり石を積み上げてできた壁は冷気を遮断するには相応しくないのだろう。床に敷き詰められた絨毯だけでは、温まりようがない。といって、シーツに包まっているというのも考えものだ。

 意識を研ぎ澄ませるには、適度に頭を冷やすのも悪くない。

「駄目だね。情報なんてまったく入ってこない。困ったものさ。日に二度の食事のときだって、なにも教えてくれやしない」

 だれとはなしに囁くように言葉をこぼす。それでいいのだ。相手に届ける必要はない。ただ、言葉を発してしまえばいい。さっきのように波紋も残さず掻き消えても構わない。それだけで相手は認識し、理解する。音声にしなければならないのは面倒ではあるのだが、思考を読み取ることができない以上仕方がないだろう。言葉にすれば届くのだから、それだけでも十分すぎると言えばそうなのだが。

 静かに空気を吸い込む。室内に漂う冷気を肺に満たして、意識の統一を図る。無駄な雑念を排除し、思考を透明に近づけていく。

 予期しなかった事態ではない。想像できなかった状況ではない。予想よりも早かった――ただそれだけのことだ。

 そしてそれがすべてだ。

 予定を変更せざるを得ない。

「前にも言った通りさ。ここが何処なのかもわからない。王都から移送されたのか、王都の中なのかさえ、ね」

 あのあと、どれほどの間眠っていたのだろう。

 王宮で催された晩餐会。そこで出された料理のいずれかに睡眠薬でも入っていたのだろう。それもかなり強烈な。でなければ、彼が不覚を取るような事態にはなりえない。並大抵のものでは、彼を昏睡させることなどできないのだ。それは彼が生まれ持った先天的な特性のひとつであり、だからこそ彼の存在は重宝された。

 が、そんな彼の特異体質をあっさりと突破した睡眠薬(とは限らないが)のおかげで意識を失い、目を覚ました時にはこの狭い部屋の中にいたのだ。あのとき何があったのか、いまマイラムで何が起こっているのか、何も分からなかった。情報が遮断されているのだ。理解できるはずがない。扉は固く閉ざされており、食事の時と、トイレに行く時だけしか開かなかった。そのトイレは部屋を出てすぐ近くにあり、行き来する間に得られる情報などたかが知れていた。

 ここがどこであるのかさえ、わからない。

 トイレへの移動の際に逃走するということも考えては見たものの、それは不可能だと判断した。彼を監視しているのは、三人一組の兵士たちで、その見た目からして屈強さが伺え、力では勝ち目がないのは火を見るより明らかだった。また、何らかの手段を用いてその三人から逃げ果せたとしても、この家の全容がわからない以上、どこへ行けば屋外へ抜け出せるのかもわからないし、屋外へ脱出できたからといって他の兵士に見つかれば同じことだ。

 彼は自分の体力のなさには自信があった。走り回っている間に力尽きて捕縛されるのがオチだ。

「恐らくはあの方の予想通りなんだろうけれど、憶測で判断するわけにもいかないからね……なんともいえないな」

 彼は、机の上に置かれた魔晶灯に向かって手を翳した。魔晶石の放つ冷ややかな光に掌が透けるようなことはない。視界をわずかに塞いだだけに過ぎなかった。細くしなやかな指先だけを見れば、女性といっても通るかもしれない。肌はきめ細やかで、手入れを怠らない婦人方にも負けず、劣らない。それもまた意味のない美しさだ。彼の人生には無用の――いや、役に立たないこともないが、もう二度と役立てたくはなかった。

「ははは」

 唐突に、彼は笑った。当然、外に漏れないよう小さな声ではあったが。笑わずにはいられなかった。あまりにも理不尽な物言いだったからだ。

「なにに期待しろっていうのさ。確かにランカイン=ビューネルはうってつけだ。この国のことをよく知っているからね。このぼくよりも、ずっと。でもね、だからといってそう簡単に事が運ぶとは思えない。第一、ぼく自身がここがどこなのかもわかっていないというのに、どうやって見つけだすというんだ?」

 恐らくは、王都の中だと思われるのだが、それも確信があってのことではない。眠っている間に王宮から運び出されたのは間違いないのだが、王都外の何処かへ移送できるほど長時間眠っていたようにも思えない。確かに、眠らされはした。彼の特異体質を突破するほど強力な睡眠薬を飲まされたことによって、彼の意識は深い眠りに落ちた。しかし、彼が眠っていたのは数時間程度だと考えられるのだ。目覚めたとき、彼は空腹感を覚えなかった。晩餐会で食べたものがまだ腹の中に残っていたからだ。

 それは、眠っていた時間の短さを物語っているのではないか。そして、それを考慮すれば、彼は王都マイラムから運び出されてはいないということになる。王都の外へ移送できたとしても、たった数時間ではこのような建物に軟禁することなどたやすいことではない。

「陛下がランカインとその少年に何を期待しているのか、ぼくにはわからないな」

 彼は、かぶりを振った。意味はなかったが、相手には伝わるような気がした。

 無論、あの方が事前に準備していたであろう策を陛下なりに練り直した可能性も考えられなくはない。しかし、彼は、あの青年王の実力には懐疑的だった。そもそも、先王が病床についたあと、王権を振るうことも許されなかった"うつけ"になにができるというのだろう。

 もちろん、彼はかの青年王がただの愚者などではないことも知っている。

 かの国を強くするためならば、如何なる手段も取るような男だ。ランカインという劇薬にさえ手を出してしまった。国民感情を考えれば、あの男を使うなど以ての外のはずだ。禁じ手と言ってもいい。しかし、王はためらわなかった。毒酒をあおってでも、前に進もうというのだろう。

 それは自ら進んで破滅へと向かっているような気がしないでもなかったが。

 どのみち、彼には関係のないことだ。諦観というほどのものでもない。彼は彼の役目を果たすしかないのだ。それ以外の道など、最初からなかったのだから。

「わかっているよ。陛下には陛下のお考えがある……そういうんだろ? 君の陛下好きには参るよ」

 相変わらずの反応には笑わざるを得ない。文句ひとつも許さない、そんな響きがあった。

(昔から変わらないな)

 彼がそんなふうに思っていると、部屋の外から靴音が聞こえてきた。かなり急いでいるような足音が、廊下を駆けている。それも複数。なにか事件でもあったのだろうか。彼がここに軟禁されてからというもの、その程度の変化さえなかったのだが。

「ん? いや、わからない。気をつけたほうがいい? そりゃあわかってるさ」

 とはいったものの、気をつけようがないのもまた事実だった。手や足は自由に動く。二度の食事も、過不足ない量であり、体力も十分に蓄えられている。が、彼の身体能力は極めて低く、自身の肉体ほど当てにならないものはないというのは嫌と言うほど理解していた。そしてこの狭い空間。得物になるようなものもなければ、身を守るために使えそうなものもない。本棚や机を動かすだけの力もなかった。

 靴音は、彼の部屋の前で止まった。慌ただしい物音は、彼の部屋を監視する兵士たちのものだろう。監視員たちは、靴音の主となにか言葉を交わしたようなのだが、どうやら小声だったらしく、ドア一枚隔てた彼の耳には届かなかった。

 彼はそっとドアから離れると、扉を見た。鉄製の分厚い扉は、それだけを見れば獄舎にこそふさわしいのかもしれない。普通の屋敷では用いまい。そもそも、一般的な屋敷に軟禁するのも考えにくい話ではあったが。

 ガチャガチャと扉の鍵を外す音がした。ここに閉じ込められて以来何度となく耳にした音だ。間違いない。扉が開かれる。

「……ついに潮時かな?」

 彼は、ドアが開くなりすぐさま室内に入ってきた兵士たちを見つめながら、そんなことを言った。三人の兵士。そうとしか形容しようがない。彼らは重厚な甲冑を身に纏っていた。室内でもフルフェイスの兜を被っているのは、最悪の事態を想定しているからかもしれない。彼が暴れだすというような状況を、だ。

(おや?)

 ふと、気づく。兵士たちが身につけているのは、王宮近衛にのみ許された代物ではなかったか。青と白を基調とした、洗練された意匠の鎧。全身が盾のようなその鎧は、如何な惨状においても王を守り抜くための決意を示しているらしく、見た目は実に頼もしい。実用的であるかどうかはともかく。

 つまり、彼らは王宮からの寄越されたということになるが。

 最後に室内に入ってきた兵士が扉を閉めた。

「ああ、これで終わりだ」

 角張ったフルフェイスの兜から返ってきたのは、どこかで聞いたことのある声だった。特徴的な声だ。忘れようがない。狂気と正気の狭間を行き来するものの声。

 彼は、驚きを禁じ得なかった。驚愕とはまさにこのことをいうのだろう。予期していなかった自体だった。こんな状況、誰が想像できるというのか。ありえない――そう言い切っていたことが、現実になってしまったのだ。目の前で、繰り広げられてしまった。

「あなたが、諜報員だったとはな」

 といったのは別の男だったが、これも聞き覚えのある声だった。王宮で働いていた時代に何度となく言葉を交わした相手だ。彼の父親には特別な感情を抱いてもいる。かの将軍のおかげで今の自分があると言っても過言ではない。

「だれなんです?」

 最後の声は、二人に比べて非常に幼く感じられた。知らない声だ。前のふたりと一緒に来たのだ。検討はつく。青年王が絶賛するほどの力を持った少年武装召喚師。たった一人で戦局を左右するほどだというのだが、それも話半分に聞いておくべきだろう。

 彼は、静かに微笑を浮かべた。

「ぼくはヒース=レルガ。元ガンディア王国外法機関所属の暗殺者だった男……とでも、いっておこうか?」

 彼の自己紹介にランカインが自嘲の笑い声を上げた。彼はすべてを悟ったのだろう。賢しい彼ならば理解できるかもしれない。ヒースがここにとらわれているという事実から、すべてを把握できたのかもしれない。

 五年の長きにわたり、ナーレス=ラグナホルンという名の猛毒が、ザルワーンの中枢を侵していたということ。ザルワーンの内部崩壊も、ログナーの腐敗も、ガンディアという小国の差し金だったということも。

 すべては、英邁の誉れ高き先王シウスクラウド、最後の謀略であった。


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