第八百三十八話 五月五日・セツナの場合(一)
いつものように目を覚ますと、飛び込んでくるのは寝台の天蓋であり、その豪華な装飾が施された寝台は、彼が龍府の領伯になったことを祝して、龍府の有力者から贈られたものだった。皆、新たな支配者に取り入ろうと必死なのだ。五竜氏族はいうに及ばず、五竜氏族に連なるひとびと、龍府に住むザルワーンの元貴族たちや商人などが天輪宮に押し寄せては、セツナとの会見を願ったりした。もちろん、天輪宮には一般人の立ち入りは禁止であり、警備兵によって押し返されるのが関の山なのだが。
司政官ダンエッジ=ビューネルは、そういった連中に対応することこそが自分たちの仕事だと息巻き、領伯に話があるものは龍府役所に申し出るべし、という立て札を龍府の各所に設置した。おかげで天輪宮への客入りは減ったが、今度は役所が破裂しそうな勢いだという。
『皆、セツナ様にお目通り願いたいのでしょうな。セツナ様さえ落とすことができれば、ガンディアでの栄達は間違いないとでも思っているのかもしれません。実際、そのとおりではありましょうが』
ダンエッジの言葉には、セツナへの進言以外のなにものでもなかった。近づいてくるものに注意せよ、ということだ。セツナは、いまや押しも押されぬ権力者だ。ガンディア随一、というのは言い過ぎにしても、並ぶものはほとんどいない。発言力も強く、権限もある。国政に口を挟むことさえ不可能ではなかった。たとえば、セツナがその気になれば、セツナ派閥なるものを作ることもできるのだ。もちろん、セツナにそんなつもりはない。政治に興味が無いからであり、政治に関してはレオンガンドやナーレスたち専門家に任せておくべきだとも思っていたからだ。門外漢が口を出して国政を混乱させることほど愚かなことはない。その分、得意分野である戦いで力を発揮すればいいのだ。領伯とは名ばかりだということを自認しておく必要がある。
そして、ただの戦闘者に過ぎないと自認している限り、権力を求める者たちの甘い誘惑に惑わされることなどありえない。
(これはもらっちまったがなあ)
天蓋付きのベッドには、黒い尾の銀獅子が描かれていて、それが気に入ってしまったのだ。《獅子の尾》を端的に表す絵だった。使っていいかダンエッジに聞いてみたところ、彼は、献上物を使用することに関してはなんら問題はない、との見解を示した。献上物は、代価を求めて差し出されるものではないからだ、という。
ただの祝いの品など、素直に受け取ればいい、ということだろう。
寝台から出ると、レムが待ち受けていた。黒と白のメイド服を身につけた従者は、セツナの着替えを大事そうに抱えており、セツナの起床をいまかいまかと待っていたようだった。そして、彼女は満面の笑顔で告げてくるのだ。
「おはようございます、御主人様。今日も素敵な寝顔でございました」
「ああ、おはよう。また見たのかよ」
「はい。御主人様の寝顔は大好物にございます」
レムは、思ってもいないことを口にしながらセツナの服を脱がし始める。セツナは抗わなかったが、一言だけいった。
「なにいってんだか」
領伯の朝は、こうして始まる。
大陸暦五百二年五月五日。
セツナが生まれた日が五月五日ということもあり、今日がセツナの誕生日として周囲に認識されていた。ここは異世界だったが、別の日を誕生日とする理由もなかったので、それで良しとした。
五月四日のファリアとは一日違いということになる。不思議な縁だと思わなくはない。
また、五月五日は、クオンの誕生日でもあった。セツナとクオンは、同年同日に生まれたのだ。いまになって想えば、それを知ったとき、クオンがなんらかの運命を感じたとしても不思議ではなかったのかもしれない。もっとも、クオンがセツナにお節介を焼き始めたのは、誕生日が同日であることを知るずっとまえのことだったが。
クオンも、どこかで誕生日を祝ってもらっているのかもしれない。彼は北を目指したという。彼が率いる傭兵団《白き盾》は、アバードの北の国ジュワインに長期滞在しており、その際、女王戦争に参加し、勇名を轟かせたらしい。当然のように《白き盾》が参加した側が勝利したというのだが、女王の座についたのは敗者のほうであり、勝者の女王候補は、クオンとともに北に向かったそうだ。ひとを惹きつけて止まないクオンらしいといえばらしい結末だが、ジュワインとしてはそれでよかったのかはわからない。
いずれにせよ、クオンたち《白き盾》は、大陸小国家群を抜け出し、ヴァシュタリアに到達していてもおかしくはないらしい。ジュワインを北に抜ければ、アルマドールという国があり、アルマドールを問題なく通過することができればすぐさまヴァシュタリアの勢力圏内だというのだ。彼がなぜ北を目指したのかは定かではないが、セツナには無事を祈ることしかできなかった。
そして、驚くのだ。
クオンの無事を祈ることのできる自分の心境の変化に。
和解したのだから当然のこととはいえ、あれほど忌み嫌っていた人物のことをこうまで受け入れられているということには驚かざるをえない。
(ひとは変わるもの……か)
つぶやいて、一人納得する。実感があるからだ。自分は変わった。確かに、変わったのだ。それはほんの些細なことなのかもしれない。しかし、確実に変化は訪れ、セツナの人生を切り開く力となっている。以前の自分ならば絶望していたに違いない状況でも、立ち向かうことの出来るだけの精神的な力を得たようなきがするのだ。
それは気のせいといっても差し支えのないようなことなのかもしれない。
しかし、セツナは自分自身に起きた変化のおかげだと思うのだ。
そして、変化は自分のみに起きているわけではないということも感じる。確証はないが、周囲の人たちにも変化が起きているのだ。ファリアにせよ、ルウファにせよ、ミリュウにせよ、レムにせよ、セツナの周囲にいるひとびとは、出逢った当初とはなにかが変わっていた。
それはきっと、いいことなのだ。
セツナがひとり得心していると、レムが不思議そうな表情でこちらの顔を覗いてくるので、彼はことさらに厳しい表情をしてみせた。レムは苦笑しただけだったが。
紫龍殿の食堂に辿り着いたところ、朝食にちょうどいい時間帯だというのに、《獅子の尾》の隊士ひとりいなかった。仕方なく、レムとふたりきりで朝食を済ませると、シーラたちが食堂に入ってきた。黒獣隊の発足が決定した以上、泰霊殿に篭もらせておく必要がないということになり、少なくとも天輪宮の敷地内ならば自由に動き回ってもいいということにしたのだ。天輪宮の警備も黒獣隊の仕事となる。天輪宮の隅々まで頭の中に入れておくことは、むしろ黒獣隊には必要不可欠なことといってよかった。
黒獣隊はいまのところ、百人規模の部隊になる予定だった。隊長をシーラとし、幹部をシーラの侍女たちが務めることになる。戦闘経験もなければ、戦力にならないだろうウェリス=クイードについては、隊長補佐としてシーラの側に置いておくことにしていた。それに関しては、セツナの経験に基づくものであり、隊長にして黒獣隊最大の攻撃力を誇るであろうシーラを戦闘に専念させるため、事務仕事は頼れる別人に任せたほうがいいと考えたのだ。無論、ウェリスだけなにもさせないというわけにもいかないからこそ考えた結果だ。
シーラはウェリスとともにセツナの考えを喜んでくれたものだった。シーラも事務仕事は嫌いらしい。王女という立場がある以上、そうもいっていられなかったようだが。
シーラの侍女を除く黒獣隊の隊士については、黒勇隊と同じように広く募集することにしていた。つまり、隊が正式に発足するのはしばらく先ということになる。それまではシーラたちだけが黒獣隊といってよく、彼女たちが黒獣隊に慣れ親しむためにも、隊としての行動を取ってもらうつもりだった。つまりは、セツナの護衛であり、セツナと行動をともにすることで、セツナ配下の部隊であるということを強く認識させるのだ。
もっとも、シーラには言い聞かせるまでもないし、侍女たちもまた、自分たちの立場というものをよく弁えていた。国を追われ、落ち延びたという事実は、どうしたところで強く意識せざるを得ない。そして、そこにセツナが救いの手を差し伸べたということもだ。
「食堂って割には、だれもいねえんだな」
シーラは侍女たちとともにセツナが座っていたテーブルを囲んだ。セツナとレムは食後の一服といったところだったが、そのまま彼女たちの朝食に付き合うことにしたのだった。今日は、予定という予定はないのだ。
長期休暇。
領伯としての用事は、龍府に到着した二日でほとんどが終わった。三日目にシーラが来て、色々と忙しかったものの、黒獣隊に関する書類仕事はダンエッジ率いる役人集団に任せていたし、セツナは認可するだけでよかった。ガンディアの不利益にはならないと、ナーレスのお墨付きも得ている。一応、レオンガンドにも報告しておくべきだろうが、領伯の権限内でのことだ。事後報告でも十分だろう。獣姫がセツナの配下に加わったという報告を耳にして、レオンガンドの驚く顔が目に浮かぶ。
忙しかったのは、シーラの処遇に関することくらいのものだ。あとは、ファリアの誕生日があっただけといってよく、それ以外、とくにするようなことはなかった。
今日も、暇だった。
なにより、天輪宮の敷地外を気楽に出歩くことができないのは、致命的とさえいえた。仕方のないことだ。セツナは龍府の新たな支配者だ。龍府住人の全員が全員、セツナのことを受け入れているはずもなければ、快く思っていない人間も少なくはないだろう。悪意の刃は、どこに潜んでいるものなのかわかったものではない。
黒き矛のセツナが、そういった悪意に敗れるはずはない。むしろたやすく撃退するだろう。が、それによって生じた些細な問題が、無意味に加熱し、龍府全体に波及する可能性を恐れた。龍府そのものがセツナを拒絶し始めれば、実力行使ではどうすることもできない。もっとも、そんなことが起こる可能性は万に一つもないのだが、その万に一つを懸念しなければならないのが領伯という立場にあるということなのだ。
龍府の統治者として押しも押されぬ存在になったときこそ、龍府を歩き回れるようになるということだ。
「いつもなら、だれかはいるはずなんだがな」
セツナが閑散とした食堂内を見回していると、厨房の中からゲイン=リジュールが顔を覗かせた。彼はシーラたちの人数を数えていた。彼女たちの朝食を作るためだ。
「なにか企んでいらっしゃるのでございましょう」
「そうかな?」
「はい」
レムがにこやかに微笑む。なにかを企んでいるというのは、彼女のような表情の人間をいうのだ、とセツナは胸中で思った。シーラが尋ねてくる。
「企む? なにをだ?」
「本日は御主人様がこの世に生を受けた日なのでございます。わたくしのために」
「だれがおまえのために生まれたんだよ」
セツナが憮然と突っ込むと、侍女のクロナが口を挟んできた。
「そうですよ、セツナ様がだれかのためにお生まれになったというのなら、それはきっと姫様を救うために決まっているに違いませんよ」
「クロナー」
「隊長、顔、怖い」
クロナのいうように、シーラは物凄い形相で彼女を睨みつけていた。そして、クロナの言動から彼女たちの覚悟がわかる。クロナたち侍女は、シーラのことを姫様ではなく、隊長と呼ぶことにしたようだった。アバードの王女シーラは、王宮によって処刑さられている。
ここにいるのは、黒獣隊長シーラであり、シーラ・レーウェ=アバードとはなんら関係のない人物だった。シーラは名前を変えることも考えているようだが、そこに関して、セツナが口を挟むつもりはなかった。彼女の考えのままに任せることにしていた。シーラという名前のままでも、特に問題はない。少なくとも、シーラという名前は、この世界においてはありふれた名前なのだ。髪さえ隠しておけば、シーラの名を聞いてアバードの王女を連想するものは、多くはない。いないわけではないだろうが、いたとしても、そういった人々が真っ先に思うのは、シーラ・レーウェ=アバードが処刑されたという事実だ。処刑された人間が生きているはずもない。普通は、そう考えるだろう。
「怖くて結構! おまえの暴言は、せめて俺だけに向けてくれ」
「あら、隊長、嫉妬ですか?」
「なにをいってやがる。領伯様に迷惑をかけるのはよせっていってんだよ」
シーラが、クロナに掴みかからんばかりの勢いで詰め寄る。クロナはシーラの右隣の席に座っており、左隣には困り顔のウェリスがいた。なにもいわないところを見ると、ふたりの口喧嘩は見慣れた光景ではあるのだろうが。
「迷惑だとは思わないがな」
「ほらあ」
「なんでそう勝ち誇ってんだよ、おまえは」
シーラはあきれてつぶやくと、それからこちらに視線を送ってきた。なにかいいたいことがあるようだった。きっと、甘やかすのはよせ、とかそういうことをいいたいのだろう。セツナにそんなつもりはないのだが。
「隊長ももっと積極的になったほうがいいんですよ!」
「ミーシャまで敵になるのか」
「敵だなんて、そんな!」
「賑やかだな……」
「以前はもっと賑やかだったんです……」
ぼそりとつぶやいたのは、リザとかいうおとなしそうな女性だった。シーラの元侍女たちは、皆、セツナよりも年上の女性ばかりだ。しかも、美女揃いであり、セツナは美しい女性たちに囲まれているという幸福を実感しないわけにはいかなかった。
「これからさらに賑やかになるよ」
「それはそれで、嬉しいのやら、哀しいのやら……」
「静かな方が好きだものね、リザは」
「うん……。でも、皆といるほうがもっと好き……」
リザが少し照れたような顔をすると、彼女の実の姉だというアンナが微笑した。
「あたしも!」
「姉妹の話に入ってこないでくれる?」
「なんで!?」
愕然とするミーシャの様子を見やりながら、セツナは、自分の周囲がますます姦しいものになっていく現実に多少の恐怖を覚えたりもした。黒獣隊の人選は、司政官ダンエッジ率いる役人たちの審査を通った後、隊長であるシーラが決めることになっている。彼女は、侍女の戦闘集団を結成したという過去がある。黒獣隊も女性のみの部隊となるかもしれない。
それはそれでよいのかもしれないが。
(ミリュウたちがうるさそうだ)
ふと脳裏に浮かんだミリュウの表情に、セツナは、頭を抱えたくなったのだった。