第八百三十七話 五月四日(三)
その夜、彼女は夢を見た。
夢を見るなどというめずらしい現象に遭遇したことに、困惑を隠しきれなかった。
彼女は、リョハンを旅立ってからというもの、夢らしい夢を見た記憶がなかった。常に眠りが深いからなのか、それとも、夢を見たという記憶が頭から抜け落ちているのか。どちらの可能性もあるが、後者のほうが高そうだ、と彼女はなんとなく思っていた。どうでもいいことだ。どうでもいいことには、どうでもいい感想しか浮かばないのが人間というものだろう。
夢の中で、彼女はだれかを追いかけていた。どこまでも続く道の中を、ただひたすらにかけ続けていた。
焦燥感がある。
早く追いつかなければ大変なことになるという強迫観念が、彼女を突き動かしていた。焦りが鼓動を早め、足をもつれさせる。転倒した。視界が流転する。青空が見えた。雲が流れ、星が落ち、太陽が消えた。闇が訪れたかと思うと、予測していた転倒の衝撃が来ず、彼女は困惑した。いや、混乱といったほうが近い。
闇は、彼女の全周囲を支配していた。さっきまであったはずの地面も、道も、平原も、追っているはずの誰かの影さえも、彼女の視界から失われていた。焦燥は絶望に変わる。もう追いつけない。追いつけないということは、止められないということだ。
止めなくてはならないというのに。
(だれを?)
疑問が生じた。だれを止める必要があるというのか。なぜ、止める必要があるのか。止められないことが、どうして絶望に繋がるというのだろうか。彼女にはわからない。わからないことが疑問に繋がり、疑問の出現が闇の世界に変化をもたらした。闇の中に足場が生まれたらしく、彼女はその場で立ち上がると、周囲を見回した。どこを見ても闇しかなかった。
《彼を止めるのでしょう?》
声が響いた。柔らかく、なにもかもを包み込むような女性の声。
「彼?」
《彼を失いたくないから、止めるのでしょう》
「なんの話よ」
ファリアは、声のいっていることが理解できず、苛立ちを覚えた。苛立つのは、絶望の淵に立たされているからだ。絶望しかけている理由もわからないのだ。わからないから苛立ち、苛立つから自分に不愉快さを感じる。それがさらなる苛立ちを生むのだから、どうしようもない。
《止めなければ、あなたは絶望することになる。けれど、止められないわ》
「だから、一体何の話なのよ。それに……」
あなたはだれ、と問いかけようとしたとき、闇の中に光が生まれた。視界を灼くように瞬く紫紺の輝き。雷光のようであり、ただ輝いているだけのようにも想える。光は、形をなしていた。翼ある生き物だ。ただ、この世の生物ではない。異世界の生物であることは、その姿形からでもはっきりとわかる。
それは、透明な結晶体でできた猛禽のような姿をしていた。獰猛な頭部に二本の足から伸びる強靭な鉤爪、巨大な体躯からは一対の翼が生えている。翼もまた結晶体で構成されており、すべてが紫電を帯びていた。
彼女は、それが一体何であるかを知っている。知らないはずがなかった。初めて召喚した夜、夢の中で対峙したことは、忘れようがない。
「……オーロラストーム」
《ああ、ファリア。わたしの愛しい半身》
オーロラストームと名付けた召喚武装は、イルス・ヴァレにおいては巨大な弓のような姿で現れる。怪鳥が翼を広げたようなとしかいいようのない形状は、異形が当たり前の召喚武装の中でも特に奇妙な形状といってもよかった。その異形の弓の意思が、形を伴って夢に現れた姿が、結晶体の猛禽なのだ。
初めて見た時は驚き、恐怖さえ感じたものの、いまでは見慣れたもののように思えた。そして、慈しみさえ覚えるのは、オーロラストーム自身が、慈愛に満ちた性格の持ち主だからだ。
召喚武装は意思を持つ。そしてのその人格ともいえる性格は、召喚武装によって大いに異なる。召喚者に対して敵対的な言動ばかり行う召喚武装もあれば、召喚者に協力的な召喚武装も存在する。オーロラストームは後者であり、ファリアは昔から彼女に助けられてばかりいた。もっとも、クリスタルビットの使い方についてはなんら助言をくれなかったことには恨み言しかないが。
彼女。
ファリアは、オーロラストームを女性だと断定している。柔らかい声音や口調、性格からそう判断しているのだが、本当のことはわからない。無性なのかもしれないし、女性的な男性なのかもしれない。
「あなたが現れたということは、警告なのかしら」
そして、ここが夢と現の間にある証明。召喚武装の意思が現れるのは、いつだって夢と現実の境界なのだ。
ファリアはオーロラストームに近寄ると、彼女の巨躯をまじまじと見た。美しい結晶体の集合体のような姿は、イルス・ヴァレに現れるオーロラストームによく似ている。額に触れる。電熱を感じるようなことはない。ここは夢の狭間。
オーロラストームが目を細めた。
《いえ、警告ではなく、忠告。でも、詮なきことでしょうね。きっと》
「どうしてそう思うの?」
《だって、あなたはどうしようもなく彼が好きで、わたしも彼が好きだから》
「好き?」
反芻して、脳裏に浮かんだ人物の名をつぶやく。
「セツナのこと?」
《そう。そして、あなたが好きなひとは、わたしも好きよ》
オーロラストームの柔らかな声に嘘は混じっていない。だから、あのとき、セツナを助けるために力を貸してくれたのだ。
ザルワーン戦争終盤、ドラゴンの首に突撃し、死に瀕したセツナを救ったのはファリアの意思というよりは、オーロラストームの意思といったほうが正しい、ということだ。そして、それによって、ファリアは結晶体――クリスタルビットを遠隔操作するという能力の可能性に思い至ることができたのだ。彼女のおかげでセツナを救う事ができたうえ、新たな力を得るきっかけとなった。感謝しかないのだが、いまはそのことに言及している場合ではなかった。
「ちょっと待ってよ、いったいどういうことよ? あなたにはいったい、なにが見えているの?」
《人には視えないこともわたしたちには視える。でも、それを直接言葉にすることはできない。それが世界を隔絶する壁。だから、忠告するしかない》
異世界の存在だから、とでもいうのだろうが。
ファリアには、納得の行かないことが多すぎた。
「セツナの身になにかが起こるっていうの? 止めなきゃ駄目ってどういうこと? 教えてよ!」
《教えてあげたい。できるなら、力になってあげたい。でも、駄目。きっと、わたしたちは彼を解き放つわ》
「わたしたち……」
《わたしとあなた――》
声が急速に遠ざかっていった。
オーロラストームがなにをいおうとしたのか、結局わからずじまいのまま、現実に回帰する。それを止めることはできない。受け入れるしかないのだ。
召喚武装の意思が現れるのは、夢ではなく、夢と現実の間。夢よりも余程現実に近い階層なのだ。夢でも現実でもない間隙でこそ、召喚武装本来の力が及ぶのだという。夢や現実に干渉しようとすれば、多大な力を消耗しなければならず、召喚者自身への負担ともなりかねないらしい。だからといって、夢と現の間に現れることも簡単なことではないのだ。イルス・ヴァレと召喚武装の属する異世界の境界が極限まで接近している状態でなければならず、その時間は極めて短い。
だから、いつも、中途半端な状態で放り出されるのだ。故に、召喚武装の意思との対話があると、毎回のように消化不良を感じるしかない。
額に浮かんだ汗を拭い、彼女は上体を起こした。
室内は真っ暗だった。夜中らしい。隣でミリュウが寝息を立てていることからも、夜明けの目前ですらないことがうかがえる。ミリュウは基本的に早起きだった。だれよりも早く起きて、訓練を行うのが彼女の一日の始まりなのだ。いかに十年に渡って鍛え上げられた武装召喚師であれ、訓練を怠れば途端に力を失っていくものだ。彼女はそのことを理解し、自戒とともに自己鍛錬を行うのだ。
彼女は訓練しているところをひとに見らられたり、知られたりするのを極端に嫌っているらしく、だからだれよりも早く起きるようだった。そしてだれよりも早く一日の訓練を終えることで、一日中、セツナにべったりしていてもなんら問題はない、という寸法らしい。
ミリュウらしいといえばミリュウらしいのかもしれない。
ファリアは、彼女の屈託のない寝顔を見下ろして、くすりと笑った。ひとりでは寝られないからといって、ファリアの寝台に潜りこむようになったのはいつからだろうか。レムがセツナの寝床に入り込まなくなってからなのは間違いない。つまり、クルセルク戦争が終わってからだ。
クルセルク戦争が終わって、レムは変わった。セツナの従者という立場そのものは変わっていないというのに、なにもかもが変わっているような印象があった。少なくともいまのレムになら、安心してセツナを任せられるのだ。以前のレムには、悪意の刃が隠されていた。セツナもいつ寝首をかかれないものかと戦々恐々としていたようであり、まともに眠れない日々を送っていたようだが、いまではそんなことはないらしい。
そもそも、いまのレムは、セツナの睡眠を見届けると、彼の寝室を辞して自室に戻るようにしていた。その時点で大きく変わっている。ミリュウも安心して自分の部屋で寝られるというものだろう、と思っていたのだが、今度はファリアがミリュウの夜襲に遭った。どうやら彼女は、セツナと一緒に寝ることが癖になったのか、ひとりで寝るのが寂しくてたまらないというのだ。
かといって、レムもいないセツナの寝室に潜りこむような度胸は、彼女にはなかった。そういうしおらしさは彼女の美点といってもいいのかもしれない。ともかく、ファリアはミリュウと一緒に寝るようになったのだ。
ファリアは、ミリュウの髪を撫でると、彼女を起こさないように寝台から滑るように出た。
時計を見ると、三時を示していた。午前三時。五月五日になったということだ。五月五日は、セツナの誕生日だ。もっとも、それは彼の世界の五月五日であり、この世界と同じとは限らないのだが、そんなことを気にしていても始まらないという結論に至っている。つまり、今日、彼の誕生日を祝う手筈になっている。ゲイン=リジュールは、連日大忙しだが、隊長にして領伯のためならとやる気満々といった様子だった。
それは、いい。
問題は、自分だ。
(どうしよう……)
なにを誕生日祝いに手渡せばいいのか、皆目見当もつかなかった。
彼女が夢と現の狭間に聞いた言葉は、とっくに忘却の彼方に沈んでいた。