第八百三十五話 五月四日(一)
五月四日が、暮れようとしている。
セツナを取り巻く状況は、大きくは変わっていないものの、小さく無数に変化を続けている。変化は止めどないものであり、止めようとすればむしろ狂いが生じるだろう。その小さな狂いが全体に波及して、全体が狂ってしまうと、セツナそのものに刃を向けることだってありうるということをなんとはなしに理解している。実際、小さな狂いから生まれた殺意がセツナの腹を突き破ったことがあるのだ。あのときの傷痕が消え去ることはなく、また、クレイグに刺された傷の痕もしっかりと残っている。マリア=スコールという名医の縫合技術を持ってしても、傷痕そのものを消すことはかなわないのだ。
風呂に入るたびにセツナは自分の体に刻まれた傷の数々を目の当たりにする。意識せずとも目に入ってくるのだから仕方がない。そして、浅い傷や深い傷、数多の傷跡を見るたびに思うのは、よく今日まで生き残ってこれたものだ、ということだ。
普通の人間ならばとっくに死んでいるのではないか。
そんなことを考えてしまうのは、自分が恵まれているからだ。
まず、出逢いに恵まれた。
カランでファリアに出逢わなければ、セツナは死んでいたのだ。カランで出会うのがルウファでも駄目だったし、ミリュウでも駄目だった。ファリアでなければ、セツナをあの大火傷から救うことはできなかったのだ。
一年近く前。
セツナが召喚されたのは、大陸暦五百一年六月十七日のことらしい。その日のうちに大火に覆われたカランに辿り着き、ランス=ビレインと名乗っていたランカイン=ビューネルと戦っている。死闘といってもよかった。戦闘経験などあるはずもないセツナには、ランカインは強敵以外のなにものでもなかった。いや、街ひとつ焼きつくすほどの武装召喚師が強敵でないはずがない。炎に焼かれながらなんとか倒したことを覚えている。
あのときはまだ、殺せなかったのだ。
あのとき殺せなかったから、ランカインはガンディアに囚われ、軍属の武装召喚師カイン=ヴィーヴルを演じるはめになったともいえる。彼にとっては処刑されたほうがましだったのか、それとも、思う存分戦うことのできるいまのほうがいいのかはわからない。
そういう意味では、カインの人生を変えたのも、セツナだった。
ランカインを倒して、カランの炎を吸い尽くしたところまでは記憶に残っている。鮮明に焼き付いている。忘れようのない光景。セツナにとって原風景といってもいいのかもしれない。焼け尽くされた街。空の色。流れる雲の数さえも思い出せるようだった。それほどまでに強烈な記憶だった。
死ぬ寸前の記憶とは、そういうものなのかもしれない。
ふと、思った。
手を見下ろす。手のひらに刻まれているのは傷痕であり、焼けただれているわけもない。火傷の跡は一切残っておらず、驚くほどだった。
それもこれも、ファリアのおかげだ。ランカインと戦闘した結果、全身に火傷を負い、死にかけていたセツナを救ったのが、ファリアであり、彼女のオーロラストームだった。オーロラストームの能力のひとつである“運命の矢”が、セツナを死の淵から生還させた。そのために寿命を削られたということだが、死ぬよりは遥かにましだ。
あのとき、生かされたからこそ、いまがある。
セツナがファリアのことをよく考えるのは、いまの自分があるのはすべてファリアのおかげだからだ。ファリアがいなければ、セツナは死んでいる。それは絶対的なものであり、なにものにも覆しようがない。
たとえあの場にアズマリア=アルテマックスがいたとしても、どうすることもできなかったはずだ。
(いや……あいつのことだ)
セツナは胸中で頭を振って、風呂から上がった。紅き魔人には、こちらの常識など通用しないのだ。それに彼女には異世界にさえも繋がることのできる門がある。ゲートオブヴァーミリオン。その能力を使えば、セツナの大火傷を癒やすことのできる存在の元にまで転移できたかもしれない。可能性としては大いにあるというのが、厄介といえば厄介だった。要するになんでもありなのだ。
セツナが入っていたお風呂は、天輪宮玄龍殿の一角にある。
天輪宮は、五つの建物からなる巨大な建造物群だ。天輪宮を作った何百年も前の人間は、おそらく天輪宮だけで生活が完結するように設計したのだろう。浴室が完備されているのはもちろんのこと、厨房もあれば衣裳部屋もあり、舞踏会場らしきものもあれば広間もあり、会議室もあったし、訓練施設もあった。天輪宮が攻めこまれたときのために地下通路まである。
天輪宮を領伯の住居としたのは間違いではなかった、ということだ。少なくとも、訓練施設があるおかげで、天輪宮の外に気軽に出歩くこともできないという鬱憤を解消することができる。
領伯という立場が、セツナの行動範囲を限りなく狭めていた。
天輪宮を一歩でも外に出ようものなら、天輪宮の警備兵が彼の護衛のために持ち場を離れることになるのだ。当然、そのままでは警備が手薄になるということから、外出に際しては事前に話を通しておかなければならない。王都では不要な警戒も、龍府では必要不可欠なものになってくるのだ。ここはガンディア本土ではない。ザルワーンなのだ。ガンディアの支配下になってから日は経つものの、未だにザルワーン人であるという意識の強い人々が多い。
セツナを領伯として歓迎してくれたとはいえ、油断を見せることなどできるわけがないのだ。なにがあるのかわかったものではない。
もちろん、セツナにはレムがついている。彼女が四六時中、セツナの極至近距離で警戒してくれているのだから、なんの心配もいらないのだが、司政官ダンエッジ=ビューネルは、外出には護衛を連れて行けとうるさかった。
ダンエッジは、レムを信用していないのだろう。
浴室を出ると、レムが待っていた。こちらは裸だ。が、彼女は気にもせずに近づいてくると、手拭いでセツナの体から水気を拭っていく。セツナはされるがままになりながら、憮然とした。
「あのなあ」
「なんでございましょう」
「外で待ってろっていっただろ」
「浴室の外で、待機しておりましたが?」
彼女はしれっとした顔で告げてくる。至極真面目な顔だ。常に笑顔を絶やさない彼女が真剣な顔をしていると、むしろなにかを企んでいるのではないかと勘ぐってしまう。
「脱衣室の外だよ」
「ですが、それですと、わたくしの使命を果たせないのではないかと思いまして」
「使命?」
「はい。御主人様の成長を確認……」
「馬鹿か」
「はい、セツナ馬鹿でございます」
「くっ……」
認められれば、返す言葉も見つからない。
セツナは、レムの手から手拭いを奪い取ると、彼女を脱衣室の外へ押し出して扉を締めた。レムが嬉しそうに悲鳴を上げるのを聞いて、多少の疲労を覚える。ときどき、彼女のやり方についていけなくなる。いや、ときどきどころではないかもしれない。振り回されっぱなしなところが往々にしてあった。
かといって強くいえない自分がいる。
彼女を再蘇生したのはセツナだ。彼女の三度目の人生の責任を負う立場にある。重いが、受け止め、受け入れなければならない。そうしたのはセツナなのだ。わかっていて、再蘇生を行い、彼女を使い魔とした。
(レムに幸福を……か)
カナギとゴーシュとの約束がある。
一方的だが、それに応じたのがセツナだ。
全身を拭い、着替え終えたセツナが脱衣室を出ると、満面の笑みのレムが待っていた。張り付いたような笑顔ではない。心の底から現状を楽しんでいるとでもいうような笑顔だった。それはそれで構わないのだが、やはり、なにかを企んでいるのではないかと思ってしまうのが、悪い癖だ。
「なんだよ」
「いえ、なんでもございませぬ」
レムはそういって、セツナの手を引いた。セツナは、さっきのこともあったので、彼女に引かれるままにした。
彼女は、広間に向かっていた。