第八百三十二話 視野(三)
「シーラ姫ですか? 反乱の咎で処刑されたという?」
ナーレスは、わざとらしく驚いて見せた。
シーラ・レーウェ=アバードが王都バンドールで処刑されたという情報がナーレスの耳に届いたのは、バハンダールから龍府に向かっている道中のことであり、龍府を発した伝令が、通り過ぎる馬車に彼を発見し、伝えてくれたのだ。優秀な伝令であり、ナーレスは彼の名を聞き、控えておいた。参謀局に引き抜こうという腹積もりだったが、本人が喜ぶかどうかは別問題だ。参謀局に入るということは、軍人としての栄達は望めないものになるといっても過言ではない。なれて、参謀局の室長が限界だ。局長になれるのは、数万人にひとりの軍事的才能を持つ人間だけなのだ。もちろん、その伝令に軍師の才能がないとは言い切れないが、可能性は低いだろう。
「はい。実は処刑されたシーラ姫は、シーラではなく、本人は生きて龍府に潜伏していたんです」
「それで、セツナ様を頼られた、と」
「はい」
「セツナ様は、お人好しですね」
ナーレスが微笑むと、セツナは少し驚いたようだった。叱咤されるか否定的な意見をぶつけられるとでも思っていたのかもしれない。しかし、ナーレスはそうしなかった。視えていたことなのだ。そして、そうなるように仕向けたことでもある。
彼が構えているのは、最初からわかっていた。きっと、独断でシーラを匿っていることに引け目、負い目を感じていたのだろう。
「否定はしません」
「まあ、たとえわたしがセツナ様の立場にあったとしても、シーラ姫を受け入れ、匿ったでしょうが」
「ナーレスさんもですか?」
「アバードの内情を見る限り、シーラ姫はくだらない派閥争いが激化した結果、国を捨てなければならなかったのでしょう」
「ええ……」
セツナは肯定すると、シーラから聞いた事実を教えてくれた。
なにもかも、ナーレスの目が視た通りだった。
アバードの国内が騒がしくなってきたのは、クルセルク戦争の末期のことだ。クルセルク戦争でのシーラの活躍が、クルセルクに隣接したアバード国内に伝わるのは必然であり、魔王軍三将の一体を討つという大金星を上げたという事実が大々的に喧伝されるのも、当然といってもよかった。アバード国民が両手を挙げてシーラの活躍を喜ぶ光景が脳裏に浮かぶようだった。
シーラが、アバード国民に慕われているのは、よく知られた話だ。ナーレスの知る限り、彼女ほど国民的人気を誇る王女はいないといっても過言ではない。ルシオンに嫁いだリノンクレアでさえ、彼女ほどの人気を勝ち取ることはできなかった。リノンクレアの人気も白眉といっていいのだが、シーラはさらにその上をいった。
シーラの不安定な立場が、国民の同情を誘うのだろう。アバード国民は、シーラが唯一の王位継承者として、王子として振舞っていたという事実を知っている。のちに王子が誕生したために王子としての振る舞いを辞め、王位継承権さえも放棄しなければならなくなったということも知っている。そんな境遇にありながら、一切不満をもらさず、嘆かず、むしろアバードのために気炎を吐いている彼女に感情移入するのは、ある意味ではあたりまえのことなのかもしれない。
シーラは、王女という立場にありながら、みずからの意思で戦場に赴き、血を流し、傷を負った。度々戦果を上げ、アバードの勝利に貢献した。国民が彼女を賞賛し、応援しないはずがないのだ。
だが、彼女の過剰なまでの人気がアバードに影を落とすのは、ナーレスの目には明らかだった。
アバードの正当な王位継承者は、セイル・レウス=アバードだ。齢八歳の王子は、シーラの十四歳離れた弟であり、念願の男児が生まれたアバード国王と王妃は、セイルにこそ王位を継がせるべく、シーラから多くのものを奪った。そのことが、国民に反感を植えつけたのは、いうまでもない。セイル王子本人を悪くいう国民はいないようなのだが、セイル王子を取り巻く状況そのものを快く思っている国民も少ないようだった。
王位継承権を廻る争いほど、醜く、不可解なものはない。
セイル王子派は、クルセルク戦争におけるシーラの活躍を快く思っていなかったに違いない。戦争が終結に近づくに連れ、シーラの国民的人気は加熱するばかりであり、女王待望論なるものまで出現する始末。アバード政府が頭を抱えるのも無理はなかった。国民の声を封じる方法が見当たらないことも、政府の頭を悩ませる原因だったのだろう。また、王位継承者たるセイル王子自身が、シーラの熱狂的な信奉者だったことも大きいのかもしれない。シーラへの声援を抑えるということは、王子の感情をも踏みにじるということになる。
いまはそれでいい。しかし、セイル王子が長じ、王位を継いだ暁には報復される恐れがある。セイル王子派は、王子が権力を握ったとき、そのお零れに預かりたいというのがほとんどだ。報復されては堪ったものではない。
だが、だからといって、手をこまねいている場合ではない。国民的熱狂を抑えることができなければ、アバード国内は混乱し、他国に付け入る隙を与えてしまいかねない。政府が一番に恐れるのはそれだ。国内の混乱の乗じて国土を侵され、奪われることだ。
シーラの国民的人気、女王待望論を封殺するにはどうすればいいのか。
アバード政府は考えに考え抜いたに違いない。
クルセルク戦争が終結し、シーラがアバード国内に帰ってくるまでの間、ずっと考えていたのかもしれない。
そして、出した結論がシーラの死であろう。シーラがなんらかの理由で死ねば、いかに彼女が国民的人気を得、女王待望論でもって担ぎあげられたとしても意味が無い。死者は女王にはなれないし、派閥の盟主にもなれない。国は、セイル王子派で統一される。混乱は起きない。なにもかも上手くいくだろう。
ナーレスには、アバードの考えが手に取るようにわかったし、それが上手く行かないだろうということも見抜いていた。シーラがなんらかの方法で生き延びることも視えていたし、生き延びた彼女がガンディアを頼ってくるのもわかりきったことだった。
「それで、セツナ様はシーラ姫をどうなさるおつもりですか?」
「その前に、まず確認しておきたいことがあります。ガンディアは、今後、アバードとどう付き合っていくおつもりなのですか?」
「なるほど。セツナ様の視野も随分広がりましたね」
「はい?」
「国と国の関係についても考えられるようになられた。領伯としての意識の現れでしょうか?」
「……いろいろ、考えなきゃいけないな、って思ったまでです」
「その意気ですよ。視野を広く持てば、心に余裕も生まれます。焦らないことです。あなたはまだ若く、将来がある。結果も出している。これ以上をいますぐ求める必要はないんですよ」
「ナーレスさん?」
「話を戻しましょう。ガンディアの考え、でしたね」
ナーレスは、セツナのきょとんとした顔を見つめながら、話題を戻した。
ガンディアとアバードの関係については、日々、レオンガンドとも話し合っていることではある。アバードは、ガンディア・ザルワーンの北に隣接する国だ。中規模の国土を持つ国であり、北進する上では巨大な障害だが、必ずしも北進するという道理はない。クルセルクやノックス方面からシャルルム方向へ勢力を伸ばすという方法もあり、ミオンからラクシャへ向かうという手もある。その場合、アバードとは友好関係を結んだまま、北の防壁としておきたいところだが。
「ガンディアとしては、アバードとの関係は維持しておきたいのが実情です。アバードはザルワーンより北の防壁として利用できますので」
「シーラを匿っていることで、関係が悪化する可能性は?」
「シーラ姫を匿っているという事実さえ発覚しなければ、問題にはならないでしょう。アバードがシーラ姫の生存を問題視しているのならば、処刑を公表したりはしないでしょうし……」
偽物のシーラの処刑を本物と偽って公表した以上、アバードの中ではなにもかもが終わったということに違いない。これで、シーラがアバード国内に戻り、反政府活動でも行わないかぎりは、大きな問題には発展しようがない。
「つまり、シーラ姫を匿っておくことそのものに問題はないということです。一応、アバード政府に探りを入れておきますが」
「それを聞いて安心しました」
セツナは、言葉通り、心の底から安堵したようだった。彼は感情が表情によくでた。腹芸ができないというのは本当だろう。元々異世界の一般人だというのだから、政治的な駆け引きなどできなくて当然であり、それでいいと想うのだ。レオンガンドは、彼の功績に報いるためだけに領伯という立場を与えている。政治的な場で政治家らしく振る舞わさせるためではなかった。むしろ、極力そういう場にはセツナを呼ばないようにしていた。セツナには、戦いに集中してもらうほうがガンディアのためになる。
だからこそ、ナーレスは意地悪な問いをした。
「セツナ様は、もしガンディアとアバードの関係が拗れるとなれば、シーラ姫を切り捨てる覚悟はございますか?」
「それは……」
セツナは、険しい顔をした。表情がころころと変わるところは、見ていて面白いといっていいのかもしれない。ナーレスの周囲には、常に仏頂面をした軍人か、優雅に振舞っているつもりの貴族しかいないといっても過言ではなく、セツナのように感情の赴くまま表情を変化させる人間は稀といってよかった。メリルに癒やされるのは、それもあるのかもしれない。
「難しい質問ですね。俺は、彼女を見捨てることなんてできません。しかし、陛下が望むのなら、そうするでしょう」
セツナが断言した。苦渋に満ちた表情だ。しかし、目は澄んでいる。
「陛下が望むのなら、ですか」
「俺は陛下の矛ですから。陛下が望むのなら、だれだって殺しますよ」
彼の言葉に迷いはない。
(恐ろしい目だ。恐ろしく、哀しい目)
ナーレスは、セツナの目を見つめながら、恐怖を感じずにはいられなかった。幾多の戦場を経験し、数多の将兵を死に追いやってきたナーレスでさえ畏れを覚えざるを得ないのは、それだけセツナのなしてきたことが尋常では無いからだ。
紅い目。血のように紅く、暗い輝きを宿した瞳。どれほどの敵を殺せば、そのような目を持つことができるのだろう。どれほどの視線をくぐり抜ければ、そのような境地に至ることができるのだろう。
彼をそうしたのは、ガンディアという国だ。
ガンディアが勝利を積み上げるために、セツナ=カミヤという少年の人生を犠牲にした。人間性を捧げさせた。その手も足も体も血に塗れ、拭い去ることはできないのだ。
戦場での彼は、一個の殺戮兵器に過ぎない。ガンディアに仇なすものは人間であれ、皇魔であれ、瞬く間に切り裂き、突き破り、一瞬にしてただの肉塊にしてしまう。
ガンディアは、彼を得て、勇躍した。
ナーレスは、恐怖を打ち払うと、口を開いた。
「セツナ様はご自分の立場をよく認識されておられないようですね」
「え?」
「陛下が、セツナ様にそのようなことを命じられるはずがございません」
「どういう意味です?」
セツナが、怪訝な顔をした。
「陛下ならば、セツナ様の気分を害するくらいなら、アバードを滅ぼすほうがましだと判断なさるでしょう」
「まさか」
「そのまさかですよ。陛下にとって、セツナ様はそれほどまでに大きいのです」
「俺が……」
セツナは、ナーレスの発言が信じられないとでもいうような顔をした。だが、ナーレスは嘘をいったわけではない。本心からそう考えている。レオンガンドならば、きっとそうするだろうという頭がある。そして、それは紛れも無く正しい判断だ。ナーレスがレオンガンドの立場にあったとしても、同様の行動を取るだろう。
アバードなどという国よりもセツナのほうが万倍も大事だった。アバードでは一万の皇魔を倒せないが、セツナならばひとりで事足りる。
「ええ。ですので、なにも気になさらないでください。セツナ様はこれまでガンディアに多大な貢献をなされてこられたのです。セツナ様がどのように振る舞われようと、だれも文句は言わないでしょう」
とはいったものの、ナーレスは彼に関しては安心しきっていた。セツナが領伯として、ガンディア最大の権力を振り回し、レオンガンドを困らせるという未来はまったく視えない。まったくだ。どのような情報を加えて視ても、セツナはレオンガンドに対しては従順な犬であり続けた。
故に、ナーレスはセツナに対して胸襟を開くことができるのかもしれない。
セツナがレオンガンドを裏切ることはないという確信があるから、なにもかもを話すことができるのだ。見つめ合いさえしなければ安らぎを感じることもできる。めずらしいことだ。
(実にめずらしい)
ナーレスは、セツナの頭を撫でたくなったが、やめておいた。さすがに立場をわきまえていないにもほどがある。