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第八百三十一話 視野(二)

「お待ちしておりました、ナーレスさん」

「セツナ様がわたくしを?」

 ナーレスは、領伯直々に出迎えを受けて、少しばかり驚きを禁じ得なかった。もちろん、ナーレスが龍府に向かっているという情報くらい、セツナの耳に届いているだろうことはわかっていたが、まさかセツナがわざわざナーレスたちを出迎えてくれるとは、思いも寄らなかったのだ。立場もある。ナーレスは、ただの軍師であり、相手は領伯なのだ。領伯とは、その領地における頂点であり、支配者だ。軍師程度が太刀打ちできるような立場の人間ではなかった。

 もっとも、セツナがそんなことを考えているはずもないこともわかっているのだが。

 事の発端は、龍府に辿り着いたナーレスが真っ先に天輪宮を目指したことにある。ナーレスは、ガンディアの軍師である自分が龍府に到着したということを領伯に報告しておく必要があると考え、領伯の住居となった天輪宮に向かったのだ。挨拶とご機嫌伺いでもある。

 天輪宮の正門前には凄まじいといってもいいほどの人だかりができており、これでは近づけないと魚種が途方に暮れてしまうほどだった。仕方なくナーレスがメリルとともに馬車から降りる準備をしていると、人集りから歓声が上がった。かと思うと、人集りがナーレスたちの馬車の前で割けるように大きく分かれ、ひとりの少年が馬車に歩み寄ってきたのだ。その人物こそ、セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルドだったのだ。人集りができるのも、歓声が上がるのも納得というものであり、彼の龍府での人気も万全といっていいことがわかり、ナーレスはわずかに安堵したりもした。

 彼に促されるまま馬車を降りたナーレスとメリルは、好奇の視線を浴びながら、天輪宮に入っていったのだ。

「ええ。ミースからナーレスさんがこちらに向かっているという報告を受けて、昨日からずっと待っていました」

「ずっと?」

「もしかして、旦那様がなにか迷惑をかけたりしたのでしょうか?」

 メリスが、ナーレスを押し退けるように前に出てきた。その不安そうな表情の意味が理解できず、ナーレスは肩を竦めるしかなかった。

「メリル……君はわたしをなんだと思っているのかな」

「さ、最近の旦那様は、妙に元気すぎて、その……」

「最近のナーレスさんの活躍は耳にしていますが、そういうことではありませんよ」

「そ、そうですか、よかった……」

 メリルとセツナの言葉の意味を理解することができず、ナーレスは、初めて他人の会話についていけないという寂しさを実感として認識した。特にメリルとセツナが通じあっているということが妬ましくて仕方がない。

「活躍?」

「なんでも王都中を走り回っていたそうじゃないですか」

「ああ、そのことですか」

 ようやく、納得できた。腑に落ちるとはまさにこのことであり、ナーレスは、安堵した。同時に、メリルがそのようなことで苦心していたのかと思い知らされもする。愕然としないではないが、かといって、こんなところで言及するような話題でもない。

「さすがの軍師殿も、御自身の評判には疎いということですね」

「まあ、自分がどのように思われていようと気にしないのが、軍師の務めでもありますのでね」

 ナーレスが告げると、セツナは感じ入ったような表情になった。実際、その通りなのだ。他人の意見、他人の評価、他人の批判を気にかけるようでは一人前の軍師になどなれはしない。国に勝利をもたらすということは、ときに非情な決断を迫られるということであり、他人の声を気にしているようなものにはそういった判断をくだすことはできないだろう。冷酷かつ無情でなければ、軍師は務まらない。かといって、人情も忘れてはならなかったりもする。

 理だけでは人間は動かない。

 ときには、情も必要だ。

 だが、だからといって軍師が周りの評判を気にし始めたら終わりとしかいいようがない。だれも損をしないような当り障りのない策ばかり献策したところで、毒にも薬にもならず、無為に時を過ごすだけのことだ。猛毒こそが良薬となる。が、それも用法を護らなければ、意味がない。猛毒をそのまま用いても猛毒のままであり、国そのものを滅ぼすことになりかねないのだ。猛毒を良薬に転ずることこそ、軍師の技量の問われるところだろう。

 幸い、ガンディアには軍師候補がふたりもいる。恵まれた国だ。かつての人材難が嘘のようだった。有能な戦士を揃えるのは、必ずしも難しいことではない。必要さえあれば、強い傭兵団を雇い入れればいい。しばらくはそれで凌げるだろう。凌いでいる間に兵を育成すればいいのだ。簡単とは言い難いが、難しいことでもない。

 だが、軍事的才能を持った人間は、稀有であり、そう簡単に見つかるものではない。

 戦略を練り、戦術を紡ぎ、実行に移すには、並外れた才能が必要なのだ。膨大な量の情報から導き出される多数の解答。その中からもっとも適切な道筋を選び出し、最適解に辿り着く。一見簡単なことのように想えるかもしれないが、これほど難解で、奥深いものもない。

 それに、最適解に到達できたからといって必ずしもその通りに物事が動くわけでもない。リネンダールの例を見てもわかる通り、予期せぬ事態が戦略の練り直しを迫ってくる可能性もある。そして、そういった事態に対応できなければ、軍師失格といっていい。

 どのような状況に陥っても自分を見失わず、適切に対処する――それが軍師という生き物なのだ。

「それに、最近は体が軽いんですよ」

「軽い?」

「ええ、この上なく軽くて。どこへでも行けそうな気がするんです」

「だからといって、わたくしを置いて行ったりしないでくださいね?」

「ああ、もちろんだとも」

 ナーレスが快くうなずくと、メリルはほっとしたような笑顔を浮かべた。彼女の笑顔はただそれだけでナーレスの力となった。不思議なものだが、人間とはそういう生き物なのかもしれない。理性ではなく、感情に左右される。しかし、理性で感情を支配しなければならないのが、軍師という生き物であり、そういう意味では人間らしさを捨てられないものには軍師は務まらないのだろう。

(もちろん、君を地獄になど連れて行かないさ)

 メリルの笑顔を眺めながら、ナーレスは、彼女への言葉とはまったく反対のことを思った。思い、決意する。地獄に行くのは、自分やレオンガンド、セツナのような人間であり、メリルのようにただ生きることに精一杯なものが落ちるべき場所ではない。

「それで、わたくしを待っていた理由とは?」

「さすがの俺でもこんな場所では話せませんよ」

 セツナが苦笑いを浮かべた。そういえば、まだ天輪宮に入ったところであり、双龍殿の出入り口で立ち話をしているといった状態だったのだ。いくら天輪宮の警備が厳重とはいえ、いや、厳重だからこそ、人目につくのだ。警備の兵が、ナーレスたちの会話を聞いていないとも限らない。そして、セツナの話は、どうやら秘匿しておく必要のあるようなもののようだ。

 ナーレスは、メリルとともに彼に案内されるまま、天輪宮泰霊殿に向かった。


「駆け引きとか探り合いとかそんなことができるような人間じゃないんで、単刀直入にいいますが」

 セツナがそう前置きしたのは、ナーレスが彼の執務室に通され、机を挟んで対座し、お茶を出されてからのことだった。重要な話である。さすがにメリルを同席させるわけにもいかなかったため、彼女には天輪宮の散策を言いつけておいた。幸い、天輪宮には、メリルが姉のように慕うミリュウ=リバイエンがいたこともあり、彼女が退屈することはなさそうだった。

 メリルは、ミリュウとの再会を喜び、ミリュウもまた、メリルを歓迎した。ミリュウのナーレスへの一瞥は、メリルを幸せにしてやれているかどうかの確認のように思えたが、ナーレスには応えようがなかった。

 メリルを不幸にしているつもりはないが、幸福を感じさせてやれているという自信があるわけでもない。しかし、ここのところ、一日の大半の時間を一緒にいることができている。軍師としての仕事をおざなりにしているわけではなく、彼女が側にいたとしても、ナーレスの仕事に悪影響がないからだ。そもそも、いまのナーレスに仕事という仕事は必要なかった。

 書類仕事はエイン=ラジャールとアレグリア=シーンに任せてあるし、情報の収集と精査も参謀局全体の仕事だ。ナーレスは、参謀局から提出された書類に目を通し、それら書類に記された情報を頭に叩き込むのが仕事のようなものだった。そして、新たな情報が混沌とした脳内をさらに撹拌するかのように暴れ回ることで、彼の視野はひたすらに広がっていく。

「シーラを匿っています」

 セツナが告げてきた名前に、ナーレスは目を細めた。驚きには値しないことだ。すべて、予想通り。想定の範囲内の出来事であり、なにもかも、彼の頭の中に描き出された道筋通りに動いていた。

 ナーレスは、このためにセツナに龍府を推したのだ。

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