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第八百三十話 視野(一)

 視えるようになったのは、いつのことだろうか。

 ナーレス=ラグナホルンは、自分の膝の上で寝息を立てている少女の頭を撫でながら、ぼんやりと考える。だらしなくも健やかな寝顔は、愛らしいとしか言いようがなく、彼女がこのように無防備な表情を見せるようになったのは、つい最近のことのように想えてならなかった。いや、実際、最近のことなのかもしれない。

 最近とはつまりクルセルク戦争が終わり、クルセルクの地から王都ガンディオンに戻ってきてからの約一ヶ月以内のことだ。

 それまで四年近く、夫婦として過ごしてきた。互いに愛し合い、慈しみ合っているにもかかわらず、彼女とナーレスの間には一種の緊張のようなものがあった。結婚した理由が理由だから、というのも、あるのかもしれない。

 ある種、政略結婚も同然だった。

 当時ナーレスは、ガンディアの先王シウスクラウド・レイ=ガンディアの策謀を実らせるため、ザルワーンに渡り、ザルワーンの国主ミレルバス=ライバーンの信頼を得るために奔走していた。もっとも、ミレルバスはとっくにナーレスのことを信頼し、重用していてくれたのだが、彼はさらに信頼を重ねることで盤石なものとしようとしていた。

 そんな折、、ミレルバスから結婚の話があったのだ。ミレルバスの娘であり、彼が溺愛してやまないメリル=ライバーンを妻に迎え入れないか、というものであり、ナーレスは一も二もなく応じた。ミレルバスと義理の親子になるということは、信頼を勝ち取るための行動としては、これ以上ないものだった。

 しかし、問題もあった。

 メリルがまだ十四歳の少女だということだ。

 ナーレスは、メリルの人生を想った。ナーレスには、これから先、苦難の人生が待っているのは明らかだ。まず、ナーレスはザルワーンを裏切り続けなければならなかった。メリルは生粋のザルワーン人であり、妻となる彼女をも裏切り続けるということにほかならない。そして、その裏切りが明らかになったとき、メリルに与える衝撃というのは、想像を超えるものとなるだろう。

 しかし、メリルは、ナーレスとの結婚に対して、喜びさえ感じているといった。

(君は、なぜ、わたしを受け入れたのかな)

 ナーレスは、メリルの髪を撫でながら考える。

 初めて会ったのは、結婚が決まるずっと前のことだ。ミレルバスの元に流れ着いたときであり、ナーレスはメリルをも利用しようと考えたりもしたものだが、結局は、別の方法でミレルバスに取り入り、彼の信を得た。メリルを利用していれば、ミレルバスの信頼を得ることはできなかったかもしれない。

(わたしは、なぜ、君を好きになったのだろう)

 メリルは、聡明な女性だった。ナーレスの仕事には一切口を出さないくせにすべてを理解しているようなところがあり、ナーレスが疑問を口にすれば、即座にその疑問に相応しい回答を寄越してくれた。ザルワーンの政情にも詳しく、彼女のおかげで弱体工作が捗ったのは、皮肉としかいいようがない。ともかく、ナーレスはメリルとの夫婦生活の中で、彼女の聡明さ、賢才に惚れたのはいうまでもなかった。

 才能に惚れると、つぎは人格を愛した。

 年端もいかない少女そのままの可憐な性格の持ち主であり、ナーレスは、彼女が歩きまわっている様子を見るだけで心が満たされる想いがしたものだった。屋敷で書類に向かっている間も、彼女がちょこちょこと視界の隅を歩いている。ただそれだけのことで充足を感じた。

(君に逢えて良かった)

 だからこそ、ナーレスは彼女を連れて歩き回っている。この四年に渡る夫婦生活の総決算を行っているのだ。彼女への愛情と感謝と、その他すべての感情を込めて、ふたりだけの日々を楽しんでいる。楽しむことこそ、彼女の望みだろう。

 ふたりを乗せた馬車は、春のうららかな日差しの中を進んでいる。風龍湖と名付けられた五方防護陣跡地が、湖面に日光を反射して、きらきらと輝いていた。五方防護陣跡地の大穴は、半年足らずで湖になってしまったというのだから、どこかに水源があるに違いなかった。雨水だけではこうもなるまい。

 龍府は、近い。

 彼の目が視た光景が実際のものとなるかどうかは、まだわからない。

 だが、彼は視たことを実現するために、龍府に向かっていた。


 龍府は、ナーレスとメリルにとっても思い出深い場所だった。ザルワーンの首都であり古都であるこの大都市に思い出がないわけがないともいえる。

 メリルが生まれ育った都市であり、ナーレスが弱体工作の舞台とした地であり、ふたりが出会い、結婚した場所でもあった。そして、ナーレスが死を得たところでもある。

 ナーレスとメリルを乗せた馬車は、龍府の南大門から大通りに入った。龍府は、観光客や住人でごった返しており、かつてザルワーンの首都であった面影は、ほとんど変わっていない都市の景観から感じるよりほかはなかった。変わったものといえば、都の各所に掲げられた旗であり、紋章であろう。龍府の景観そのものに手が加えられた形跡はない。

 ガンディア政府は、龍府の観光都市としての可能性を見出したのだ。ガンディア色を強めるために景観を崩すくらいなら、ザルワーンの色彩が色濃く残ったままでも景観を維持するほうが大事であると考え、倒壊の危険性のある建物以外には手を加えないよう、指示が出されていた。そして、その方針は龍府の支配者が領伯に代わってからも変わらないだろう。

 セツナとは、そのような人物だ。保守的という意味ではなく。

 龍府の支配者が代わるのは、これで三度目となる。最初は五竜氏族だった。ライバーン、ヴリディア、ファブルネイア、リバイエン、ビューネル。国主を持ち回りにするという風変わりな五つの家が、この都の最初の支配者だった。つぎにガンディアが支配した。ガンディア王家の直轄地として、司政官の管理下に置かれたのだ。龍府の住人は、ガンディアの支配をすぐに受け入れた。暴動も起きなかった。龍府の景観を損なうことは絶対にしないというガンディア政府の声明が、龍府の人々に受け入れられたということなのかもしれない。

 三番目は、セツナだ。セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルドという長たらしい名前は、彼の立場を明確に表している。エンジュール及び龍府の領伯にして王宮召喚師であるセツナ、ということなのだ。もっとも公的な場面以外で用いる必要はなく、普段はいままで通り、セツナ=カミヤかセツナ・ゼノン=カミヤで通せばいいのだが。

 彼が龍府の領伯となることが発表されたのは、昨月の十七日のことだ。王都で公表された情報が龍府に届くまで数日はかかっただろうが、その発表によって龍府が大騒ぎになったのは想像に難くない。それからセツナが実際に龍府に入るまで十日程度は経過しているだろうか。どれだけの日数が間にあったにせよ、龍府の騒ぎが収まってから、彼が龍府に入ることができたのは間違いない。王都と離れているのは、必ずしも悪いことばかりではないということだ。

 そして、その十日程度の期間は、龍府に多くの人を呼び集めたようだった。セツナはガンディアの英雄だ。その人気は押しも押されるものであり、国民のだれもが彼を噂し、将兵の多くが彼にあやかりたがったものだ。ナーレスやレオンガンドが彼を喧伝し、人気を作ろうとする必要はなかったのだ。彼の実績そのものが、彼を英雄へと押し上げ、国民的人気を得ていった。

 そんなセツナは、三日前、《獅子の尾》の隊士たちとともに龍府に入り、その翌日、龍府の人々にお披露目されたはずだ。どのようなお祭り騒ぎになったのかはわからないのが残念だが、休暇を得られたのがセツナの後なのだから仕方がなかった。軍師は忙しいのだ。

 ともかく、ライバーン家が権勢を誇り、メリルがライバーン家の姫君としての扱いを受けていたのも、いまは昔の話だった。

 いま、この街は《獅子の尾》と黒き矛の色に染まりつつある。

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