第八十二話 誘惑者
「なんだかねえ」
嘆息とともに頭上を仰ぐ。まだ朝日が昇りきらない空はあまりに青く、まるで己の有り様を投影しているかのようだ、と彼は思った。
彼にして見れば、剣の腕に自信があった自分を嘲笑いたくもなるだろう。遥か格上の技量を持つ人間を、立て続けに目の当たりにしたのだ。
青い。あまりに青い。
この程度の腕前を自負していた過去が、無性に恥ずかしくなった。
カイン=ヴィーヴルだけならまだしも、ニーウェ少年すら彼の遥か上を行くのだ。
いや、ニーウェ少年こそ、恐るべき存在だった、数多の人間も、無数の皇魔も、塵を払うように一掃する圧倒的な力。破壊と殺戮の化身のような――。
(恐ろしい人達だ……)
身震いする。あのとき、ダグネが降参しなければ、地に横たわっていたのは背後の連中ではなく、自分だったのだ。
相手がニーウェで良かった。
彼は、戦闘となれば悪鬼も裸足で逃げ出すような殺戮兵器と化すようだが、どうやらあのときはそうならなかったらしい。こちらを取るに足らない相手と見抜いてのことかもしれない。だとすれば、あの素人丸出しの戦い方にも納得がいく。
視線を地に落とし、シャベルで土を掘り返す作業を再開する。足元に穿たれた穴はまだまだ小さく、大の大人十人を埋葬するためにはもっと深く広く掘らなければならなかった。
彼は、墓穴を掘っている。
リャーマ鉱山の監視員という閑職に追いやられた哀れな連中の哀れな末路を、永久に近く封じ込めておくための。
掘り起こされることはあるまい。例え、監視員に食料を届けにくるものがいて、異変に気付いたとしても、まさか亡骸となって地中に埋められているとは思うまい。墓標を立てるわけでも、わかりやすい目印を作るわけでもないのだ。埋めた後で盛り上がった地面を平坦に均しておけば、まずわからないだろう。
もっとも、そこまで工作する必要もないのだが。
監視員の不在という異変が露見すれば、なにかしらの事態が進行していることに気づく。亡骸があろうとなかろうと、そう判断するに違いない。
そうなれば同じことだ。
リューグは、シャベルを地面に突き入れながら頭を振った。どうでもいい。いまは無心に墓穴を掘ることが、主たるレックス=バルガスからの第一の命令である。
次に、オリスンと二頭の軍馬とともに彼らの帰還を待つことだが、そのためには後ろに積み上げた十の死体を埋葬することだ。
振り返る。物言わぬ肉の塊と成り果てたログナーの兵士たち。リューグの人生とはなんの関わりもない。言葉さえを交わさなかった。記憶に深く刻まれるような出来事でもなかった。
ただ、この埋葬作業は、しばらく忘れられないだろう。
カインが八人、リューグが二人、殺害した。
思い返すと、至極単純な出来事だった。単純故にあざやかな手際ともいえたのかもしれないが、そんなことはどうでもいいことに違いなかった。
監視所は、カインひとりで制圧したといっても過言ではない。ふたつあった扉をほぼ同時に蹴破って突入したにも関わらず、だ。
突入の物音に気づき跳ね起きた兵士たちは、さすがだというべきなのかもしれない。いくら閑職に追いやられていても、危機管理だけは怠っていなかったようだった。
もっとも、武器を手に取ったのは悪手だと言わざるを得ない。
いや、相手が悪かった。
カイン=ヴィーヴルを前に剣を構えたとき、彼らの末路は決まったのだ。
結果、十人もいた兵士たちはものの数分で物言わぬ亡骸と成り果てた。
それを思い出すと、自分なんて要らなかったのではないか、と考えなくもない。カインひとりで十分だっただろう。
相手が多勢とはいえ、小屋という狭い空間だ。彼のような人間ならいくらでも戦いようはあっただろう。
もっとも、それでは彼が愉しくないのかもしれない。彼は、狗である以前に、多分に戦闘を楽しんでいるようなところがあった。
リューグには考えられないことだが。
そしてそれは、ニーウェ少年にも理解のできないことなのだろう。
彼は幼く、蒼い。
カインとリューグが、ログナーの兵士たちを殺したことに激高するくらいには。
無益な殺生だというのだろう。
意味のない無駄な殺戮だというのだろう。
彼には考えの及ばないところなのだろう。
兵士たちを生かしておいたところで、こちらにはなんの益もない。それどころか、害悪になる可能性のほうが遥かに高い。
そもそも、どうやって生かしておくというのか。縛り上げ、あの小屋に放置しておくつもりだったのだろうか。だとすれば、早急に発見されなければ餓死するに違いない。そして、そちらのほうが余程残酷だろう。
もっとも、それがわからないからこそ、ニーウェはカインに食って掛かったのだ。
カインは、むしろそんな少年を奇特なものでもみるかのような目で見詰めていた。カインの価値観からすれば、ニーウェの言い分のほうが余程理不尽で無益なものだったに違いない。
カインに対して敵愾心を露にするニーウェに不穏なものを感じながらも、リューグにはどうすることもできなかった。いや、どうでもいいことなのだ。ニーウェがどのような感情を抱こうと、どのように振舞おうと、リューグの邪魔にならない限りは捨て置けばいいのだ。
彼が尻尾を振るべきは主たるレックスだけでよく、他は、思慮の外に置いておけばよい。必要なとき、必要なだけ利用することはあっても、必要以上に関わりを持つことはない。
狗には狗の道理がある。
もっとも、カインの定義ではニーウェも狗の一種ではあるらしいのだが。
リューグは納得しかねていた。彼のどこが狗なのであろう。狗というよりは鬼のように思えた。人の面をした悪鬼。どこか幼稚さを残しつつも、それゆえに恐ろしい。幼稚さほど残酷なものはないからだ。
そう、彼は幼稚なのだ。
リューグは、シャベルで土を掘り返しながら想った。
子供。
たったその一言だけで、彼の存在を定義できるような気がした。戦場での傍若無人さと、戦場以外での振る舞いの落差に説明がつく。子供のように無邪気に力を振るい、子供のように無責任な言動を行う――年齢的にもそうだが、精神的にもまだまだ未熟なのだろう。それでもレックスが彼を使うのは、ひとえに、彼の能力が有用だからに違いない。それ以外の理由など思い当たらなかった。
リューグの知らない事実があるのかもしれないが、知らないものは知らないのだ。考えようがない。人間、持っている情報の中からでしか物事を判断することなどできない。もっとも、そのわずかな情報だけで物事を見定めるのはあまりに危ういことではあったが、ニーウェに関することだけならば問題はあるまい。
そして、リューグが判断するようなことなど、その程度の物事だけでいい。彼の立ち位置と、自分との位置関係ついて把握できたのならば、それだけでいい。それ以外のことは、主人が考えてくれるだろう。
狗は、主の命令に従ってさえいればいいのだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
リャーマ鉱山に深々と穿たれた坑道は迷宮のように入り組んでいたのだろうが、魔晶灯の冷ややかな光を翳して先導するランカインのおかげで迷うことはなかった。
ただひたすらに長い道程だったのは、セツナとしても予想外だったが。
体力のこともあり、目的地まで延々と歩き続けるというわけにもいかなかった。何度か休憩し、セツナはそのたびにランカインへの反発を隠さなかったものの、彼は気にもとめていなかった。その涼しげな横顔が、セツナの感情を余計に拗らせるのだが。
王都への通路は、坑道よりも一回りも二回りも狭く、いかにも秘密の抜け道だった。ただ、通路自体は坑道の闇に巧妙に隠されており、闇雲に探しても見つかるものでもないようだった。
通路の突き当たりには石の階段があり、その階段を昇りきると蔵に出る。宝物庫なのかもしれない。というのも、セツナには価値の計り知れない見事な調度品や装飾品の数々が、整然と保管されていたからだ。あまり埃を被っていないのは手入れが行き届いている証だ。
蔵を出ると、ようやくセツナは光を見ることができた。とはいえ、星々の光だったが。
つまり、坑道を踏破するのに半日以上の時間を費やさなければならなかったのだ。疲労も溜まる。が、ここでへこたれていればランカインに嘲笑われるに違いない。そう思うと、セツナの体には不思議と力が沸いた。
「ここは……?」
セツナは、ランカインが魔晶灯の明かりを消すのを認めながら周囲を一瞥した。蔵に納められた逸品の数々からある程度の想像はついている。それでも、彼は自分の目で確かめたがった。
静かに降り注ぐ星明かりの下、前方には大きな建物が見える。後方にはさらに巨大で荘厳な建物があるのだが、ランカインの目的地はどうやらそちらではないらしい。目の前の建物に向かって歩き出していた。
後方の宮殿のような建物に比べれば、どんな建物でも控え目に感じざるを得ないのだろうが、セツナたちの目の前にある建物はこれという装飾もなく、こじんまりとした印象があった。
「寂光殿」
「え?」
「何代か前の王が寵姫を住まわせるために建てたらしいが、肝心の王は完成を見る前に死んだそうだ。その後しばらくは使われることもなかったらしい。由来が由来だからな。が、キリル王の即位後はミルヒナ王妃の寝所として使われている」
ログナーの内情に精通しているからか、ランカインは嫌に饒舌だった。寂光殿への道すがら彼が語ったのは、ログナーがザルワーンに隷属する以前、ランカイン自身がある目的のための工作員としてログナーに潜入していたということだった。しかも、それはログナーの支配を望んだザルワーン国主ミレルバス=ライバーンの意向ではなく、まったく別の思惑によるものだったという。
が、彼の潜入工作が実を結ぼうとした矢先、ザルワーンの本軍がログナー領内に攻め寄せたため、彼は工作を打ち切らざるを得なくなった。
結局、ログナーはザルワーンの軍門に下り、ランカインもまた、本来の任務に戻ったらしいのだが。
ランカインとログナーの繋がりは、まだ失われてはいないという。
「なるほど。それを利用しようというのか。しかし、そう上手くいくのか?」
「少なくとも投獄されるようなことはありますまい」
ランカインは不敵に笑った。彼にはなにか秘策があるのか、余程の自信があるのだろう。
セツナは不快げに眉根を寄せたが、かといって口を挟むような真似はしなかった。口惜しいが、ここまできた以上、彼に頼らなければならないのだ。癪だが、余計なことを口にするのはやめておくべきだろう。
ランカインに導かれるまま、寂光殿の裏手へ回る。王宮の奥まったところにあるからか、厳重な警備や巡回中の兵士に遭遇するようなことはなかった。驚くほど無防備だった。通常ならば、堅固な城壁や防衛網を掻い潜らなければ、こんなところに入り込むことなどできないのだ。警備がザルなのも致し方ないのかもしれない。
不意にランカインが立ち止まった。一見固く閉ざされた窓の前。質素な窓に飾り気もなにもあったものではない。カーテンさえも味気なかった。
ランカインは、窓枠に触れると、無造作に押し開いた。
「ここは常に開いているんだ」
そして、事も無げにいってきた。
カーテンが風に揺らめき、屋内の暗闇が覗いた。どうやらだれかの部屋らしいのだが、明かりが点いていないため、窓の外からではよく見えなかった。人気はない。だれかいれば、窓が開いたときに反応があったはずだ。
ランカインが、窓から侵入するのを見届けたセツナは、ラクサスと顔を見合わせた。まさか敵国の中枢にきてまで空き巣紛いのことをするとは思わなかったのだが、ラクサスはどう感じたのだろう。
任務のためならば、王命ならば、ランカインへの感情を瞬時に捩じ伏せられるような男だ。多少思うところはあっても、一瞬で切り替えたのかもしれない。
もっとも、セツナとて、それほど深く考えたわけではないが。
ともかくも、ふたりはランカインの後に続いた。
室内に入ると、頭上に光が走った。冷ややかな光。ランカインが魔晶灯をつけたに違いない。彼にとっては手慣れたものなのだろう。
魔晶灯の光に照らされた室内は、寂光殿の外観に負けず劣らず質素だった。大きな寝台がひとつと、多少の調度品。そのどれもが庶民には手の届かないような高級品なのかもしれないが、セツナにはわからなかった。
そもそも、ここが本当にログナーの王都マイラムの中だと信じられない気持ちがある。あまりにもあっさりと侵入してしまったからだろう。リャーマ鉱山坑道からこの方、障害といえるようなものはひとつもなかった。
歩き疲れたくらいで、問題というようなことさえなかった。あまりに呆気なく、あまりに容易い。
事が、トントン拍子に運び過ぎている。
拍子抜けするくらいあっさりと。
「ちなみに、ここは俺の部屋だ」
ランカインは、セツナを振り返るなりそんなことをいってきた。突拍子もないうえに不可解な発言は、場を混乱せしめるに足る。いや、よくよく考えれば理解可能なのだが、なにせ唐突に過ぎた。セツナが答えを導き出すには、多少の時間を要した。
そして、彼の発言が示す事実を理解して、愕然とする。
「まさか!」
セツナが大声を上げたのは、驚きすぎたからだ。王宮の、それも王と王妃の寝所に専用の個室を宛てがわれるほど、彼とログナーの関係が密だったということにほかならないからだ。
「そのまさかだよ」
言うが早いか、ドアの向こう側から足音が聞こえてきた。どたどたという物音は、脇目も振らずこの部屋に向かっている証明であろう。
セツナは、侵入に感づかれたのかと緊張したが、ランカインはむしろ歓迎するかのような素振りで扉の方へと向き直ったようだった。
扉が、思い切り開け放たれる。
「ランス! やっぱりあなただったのね……!」
室内に入ってくるなり、ランカインのかつての偽名を叫び、彼に飛びかかるかのような勢いで駆け寄ったのは、妙齢の女性だった。容姿からは三十代後半といったところか。魔晶灯の明かりを浴びた黄金色の長い髪が、まばゆいばかりにきらめいていた。
女は、ランカインの胸に飛び込み、ランカインはそれを当然のように抱き留めてみせる。
「久しぶりだね、ヒナ」
ランカインの口から漏れた甘い声に、セツナは背筋が凍る感覚を覚えた。身の毛もよだつとはこのことだと確信を得ながらも、ランカインの横顔に狂気の片鱗さえ見当たらないことに驚くしかない。
彼は、その女性を右腕で抱きながら、空いた手で髪を撫でていた。
ラクサスが、セツナの耳元に囁くようにいってきた。
「ミルヒナ王妃だ……」